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12月に言い残したこと、野鴨、未来ルルル コントローラー2P HARAJYUKU PERFORMANCE+ とスタバ福袋

明けましておめでとうございます。旧年中はRClub Annexをごひいきにいただきましてありがとうございました。つたない文章ではありますが、本年も感じたこと、いろいろ書かせていただきます。よろしければお付き合いくださいませ。

さて、新年早々、いきなり去年の話しというのもなんなのですが、去年の11月から12月にかけて、こちらに書かせていただいたほかにもいくつか印象深い芝居やパフォーマンスを観る機会がありましたので、ちょっとご紹介。今書いておかないとすぐに忘却のかなたに消えてしまいそうなので・・・。

・野鴨 (庭劇団ペニノ)

 イプセンの作品を忠実に上演したといえばそれまでなのですが、あの密度、そして油絵のような鮮やかさには息を呑みました。明快な物語がそのまま観客につみあがってくる。役者の演技も感情の深さがしっかり取れているのにナチュラルな感じがあって・・・。シアター1010の稽古場を利用した空間が森に変わり、森が観客をつつみ、観客はその場の物語に取り込まれる・・・。しかも物語のひだが非常にくっきりと見える印象があり、その中での手塚とおるの豹変に説得力があり、悲劇がためらいなく提示されていく・・・。

タニノクロウの演出はある意味とても生真面目なのだと思います。狂気や戯曲の中にぼかされて存在しているようなニュアンスに対しても表現に躊躇がない。本来影になっている部分に対して他の部分と同じような光が当たっているというか・・・。

観ているほうも消耗するほどの強さがある、非常に印象が強い舞台でした。

・未来ルルルルルル (あひるなんちゃら)

相変わらずの駄弁芝居ではあったのですが、方向はともかくしっかりと筋通った部分があるので、その駄弁がとてもビビッドに感じる。いろんな発想の進展が織物を作っていく感じ・・・。過去から目覚めた組と未来人組の演技のペースが違うだけで、世界があれだけしっかりと広がっていくのです。

毎度思うのですが、ここのお芝居には麻薬みたいですごく癖になるなにかがあります。今回は、黒岩三佳さん一流の演技の切れがいつもほどたくさん観れなかったのがすこし残念だったけれど、その分他の役者陣の好演もあり、心地よい違和感はいつもと遜色なし。結果としてたっぷりとした満足感をもって王子小劇場の階段を上がることが出来ました。何に満足しているのか、自分でもよくわからなかったりはするのですけれどね・・・。なんか満たされている・・・。不思議です。

新宿村の公演は観にいけなかったけれど、次回も絶対見逃したくない劇団のひとつです。「あひるなんちゃらテイスト」、すごく表現しにくいのですが・・・・。ほんとにはまる。

・2Pコントローラー (北京蝶々)

大隈講堂裏の劇団本拠地でやったコントローラー自体が非常に緻密に作られた芝居でしたが、2Pコントローラーはそのスピンアウトのような感じ。ある意味アウェイだったし、制約もいろいろとあったのでしょうけれど、少なくともオリジナルを観た観客にとっては、見事にコントローラーの世界が受け継がれていました。作・演出の大塩氏は二つのお芝居を仕付け糸でほつれない様にしっかりと縫い合わせて・・・。で、縫い合わせても物語にゆがみがないしさらに物語の間口が広がっていて・・・。両方のコントローラーを観た観客にとっては、前回のコントローラーの世界観がいっそう明確になり、物語の幅がぐっと広がった感じがしました。

ただ、これは余計な心配なのかもしれませんが、果たして1P(?)コントローラーを観ずにこの作品をみた観客には物語の全貌がきちんと伝えられたのか・・。映像で前回公演の物語感を無理なくカバーはしているのですが、生ものと映像が同一の力を持っているわけではなく、ベースになる1Pのデリケートなニュアンスが映像だけで伝わっているかはかなり微妙で・・・。特に帯金ゆかりの前回のお芝居は、映像では伝わりきれないものをたくさん含んでいましたから・・・。まあ、私は両方見ていたので大満足ではありましたが・・・・。

・Harajyuku Performance Plus 12月23日ソワレ

いやぁ、あっという間の2時間でした。いろんなジャンルのパフォーマンスでしたが、ひとつずつの出し物に本当に魅力があって・・・。

一番の収穫といえば康本雅子さんのパフォーマンスを観れたこと。この人はすごい。艶があってやわらかい動きなのに底知れない切れを感じる。1月5日にNHKのトップランナーにもご出演だそうです。私が知らなかっただけでかなり有名な方なのでしょうね・・・。まあ、たかぎまゆさんのパフォーマンスを急な坂スタジオの駐車上で最初に見たときほどのビーンとくるような衝撃はなかったけれど、でも動きのやわらかさとふくよかさ、そして安定感には瞠目。観るものを巻き込むようななにかがしっかりとあって強く惹かれました。

ストロングマシン2号のもすごかった。抜群の安定感がありました。完成度が高いというか・・・。

開場時からすでに演奏が始まっていたASA-Changと宇治野宗輝の演奏にも観客を音に依存させてしまうような魔力とインパクトを感じたし・・・

ボクデス・五月女ケイ子さんも魅力的だった。すごく気持ちのよいウィットがあるのです。

あとcontact Gonzoには高い芸術性を感じました。ある種の法則と動作の継続に心のどこかを麻痺させるような魅力があり、同時に表現にしっかりとした意図を感じました。

伊藤千枝さんのところも創意がしっかりと感じられてよかったです。観ていて楽しいし・・・。

Off Nibrollの世界観というか雰囲気も決して嫌いじゃなかったし、男子はだまってなさいよの世界も基本的に好き。

山賀ざくろと泉太郎の世界観はゆっくりと伝わってそのまま居残る感じ。

こういう催しって、今まではお芝居に比べて縁がなかったけれど、今後はもっと見に行きたいですね。ヤング軒さん主催のパフォーマンスを観たときにも思ったのですが、只者ではないひとがただ事ではないパフォーマンスをやるというのはやっぱりすごいことで、観客の感性を揺り起こししっかりと研ぎ澄ましてくれるようなものが確実に内包されている。

べたな感想ですが実に楽しかった・・・。

去年はとても演劇鑑賞運に恵まれていたみたいで、良いお芝居もたくさん観ることができたし、新たに才気あふれる良い劇団やパフォーマーの方を観ることができたのですが、今年はどんなものに出会えるか・・・。とても楽しみです。


◎◎◎PS ちょっと余談◎◎◎

去年の暮れ、年賀状を印刷しているときにUSBメモリーの調子がよくなかったり黒インクがほとんど切れてしまったりしていたので、お正月の朝1番で近所のJUSCOに買いにいったら、入り口という入り口に信じられないような長蛇の列ができていて・・・。

しばらく並んで店舗にはいるとそこは福袋のてんこ盛り状態・・・。いやー、雰囲気に呑まれてスタバの福袋を衝動買いしてしまいました。で、家に帰って袋を開けたら、コーヒーとタンブラーのほかにこんなものがはいっていてちょっとびっくり

・CD (ラテン アメリカンヒート

 これって、おしゃれ。すごく渋いラテンなのですよ。コーヒーの香り、紫煙、ざわめき・・・。そこにこのCDの曲がかかっていたらとても幸せかも・・・。新年早々、隠れた名盤にめぐり合ったような気分になりました。

・くまのぬいぐるみ

 それなりにでかい・・・。スターバックスおなじみのグリーンエプロンをきちんと着ている・・・。写真では見えないけれど一応JAPANの文字がエプロンに・・・。世界的に使われているスタバーのキャラクターなのですかねぇ・・・。この熊君は・・。

・スターバックコーヒーのカルタ

 これは誰向きにつくられたのだろう・・・。なにせ「っ杯に心こめます。グリーンエプロン」なんていうのがあったりして・・・。スタバーの従業員の新年会には受けるかもしれないけれど、一般家庭でこれを使って遊ぶことはちょっと難しいかも・・・。

まあ、絵はちょっとグリーンがかったトーンでいい感じなのですけれどね。

スタバー

新年1番の買い物がこれということは、今年はいろいろとユニークなものにめぐり合えるということなのかも・・・。演技がいいといえば縁起が良いのかもしれません。

でもちょっとびっくり。

R-Club

 

 

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柳家三三vs桂吉弥 ふたり会 師が走らずにみっちりと

12月25日のクリスマス、三三、吉弥両師匠の二人会へいってまいりました。会社から比較的近い内幸町ホールだったのでゆっくりめに会社をでて・・・・。ええもんを聴こうというときにあんまりせこせこあせって会場にいくのはよくありません。

しかしちりとてちんや芸術祭賞の威力ってすごいですね。会場は超満員でした。立ち見まで出ていたみたいで・・・。今まさに旬、人気の二人ですからねぇ。で、落語会の出来はというと・・・、それは見事なものでありました。人気を背負ってぐっと受け止める力がふたりにはありますね。

こういう勢いのある会は開口一番の出来からして違います。桂佐ん吉さんの出来からしてすばらしい・・・。

・開口一番 桂佐ん吉 「手水回し」

この話は上方が本場ということで、関西の田舎のほうが噺のテンポも会うような気がします。佐ん吉さんのペース配分というか噺のメリハリがすごくよいのですよ。、笑うところをきっちりと笑わせた感じ。長い頭の誇張もうまく、最後に洗面器いっぱいのお湯を飲むところもお客が不快にならないようさらっと納めて、後味のいい上がりでした。

・柳家三三 「道具屋」

いやあ、聴いた瞬間にどなたの一門かがわかる・・・。枕の話題の切り取り方も語り口も、小三治師匠のかおりがほんのりするような・・・。品を崩さず上品ぶらず、ところどころにちょっと盛られている毒が小三治師匠に比べてさらに今風でそれも好感触・・・・。

「道具屋」といえば定番の噺だし、前座さんもやられることがありますが、三三師匠の演じ方がとても丁寧なので、まるで別物の新しい噺を聴いているような気になりました。与太郎の気の抜け方と客の威勢のよさのかみ合わなさが抜群、また毛抜きでゆっくりと顔をあたる描写にもほれぼれ。微妙に時間を間延びさせて毛抜きをする男の世界へ観客をふんわりと取り込んでしまう・・・・。一方股引のくだりでは逆に秒針をすこしだけ早回しにして・・・・。間の取り方が観客の視点をうまく広げていく感じ・・・・。にじみ出てくるような与太郎の人柄になんともいえない可笑しさがあって、するっとながせば流れてしまう「道具屋」を出汁のよく聴いた味わい深い一品に変えてしまいました。時間の関係なのでしょうか雛人形の首で落ちを濁したのがちょっと残念だったけれど、噂の三三師匠、只者ではないことがよくわかりました。

・桂 吉弥 「天災」

実は前回この噺を聴いたのが小三治師匠のやつ。小三治師匠のバージョンと比べると吉弥師匠のほうが話の流れが早い印象。ただ、流れが早いから雑というわけではけっしてなくて、勢いがついている感じ。

さすがに心学の講釈の部分は小三治師匠の紅羅坊奈丸先生の方が懐が深いというか味があった気がしますが、それを夫婦喧嘩をしていた熊吉に無茶苦茶に聞かせるところはむしろ吉弥師匠のほうにグルーブ感が強かったように思います。雨の日に丁稚が水を撒いて、丁稚が屋根から振ってくるくだりなど、知っていても勢いに巻き込まれて笑ってしまう・・・。語る雰囲気に安定感があるから多少無茶に飛ばして勢いをつけても観客がちゃんとそれに乗っていける。小三治師匠の最後の無茶な説明のくだりは、観客の視点が二人の会話の外側に置かれた感じだったのですが、吉弥師匠の噺にはそのくだりで観客を当事者のいらちな心情に引き込んでしまうような。江戸落語と上方落語の根本的な差なのかもしれませんが・・・・。

さげまで一気に語る口調によどみがなく、上方落語のよい面がしっかりと出ていたように思いました。

・桂 吉弥 「蛸芝居」

トリの三三師匠の演目がどちらかといえばしっとりとした「薮入り」に決まっていたせいか、桂吉弥師匠は中入り明けの演目になんと「蛸芝居」を持ってきました。いやーー、うれしかったです。大好きな演目だし、望んでもなかなか見ることが出来る演目ではない。

華がありました。旦那の三番叟で噺の世界に観客を取り込むとあとはもう贅沢なほどにはめものの世界が続きます。ひとつずつのはめものがしっかりと安定していて、しかも演目間のトーンにブレがなく芸が積みあがっていく感じ。噺が進むほどに舞台となる商家の風景がいっそう鮮やかに浮かび上がっていきます。

噺の内容で聴かせるというよりは、噺が土台になってその上に芸で家を建てるような演目なのですが、吉弥棟梁の仕事は柱がしっかりと深くて屋根がしっかりと張っている。勢いに任せるのではなく、花道をあでやかに一歩一歩進むような小気味よさと貫禄が芸に同居していて・・・。裏方のお囃子もしっかり決まり、まさに眼福でした。

・柳家三三 「薮入り」

いや、そういう噺だっていうことは知っているのですよ。前日から待ちきれない父親の心情が聞かせどころのひとつだっていうこと。でもね、三三師匠の芸が噺に対する期待をさらに上回ってしまいました。心情がダイレクトに伝わってくる。小さな描写や感情の落差の度合いが絶妙。

感情の爆発をおかみさんがたしなめるじゃないですが。そのあとの父親の感情の収まり方がまたいいんですよ。ぐっと抑えるときに心情が地わっとにじみ出る感じ。お財布の15円からねずみの懸賞のくだりもよどみなくすっと噺がながれていくから、親子の清い部分がしっかりと立って子を疑う邪心に嫌味な感じが残らない。

子供が奉公先で芝居の真似事をしているというアドリブ(「蛸芝居」からのつながり」)もセンスがあり、理屈とかではなく場の雰囲気で物語を運ぶところもにも非凡さがあって・・・。さげもさらっと、江戸前で。

なんか、すごくいい気持ちで打ち出しの太鼓を聴けました。すがすがしい感じさえ・・・・。外の師走の喧騒なんてすっかり忘れてしまっていました。この木戸銭は安いと思います。

三三師匠については、できるだけ機会をみつけて、噺をもっと聞いてみたいですね。この人がどのように熟し、この先どんな噺がきけるかと考えるだけで楽しみがじわっと広がります。吉弥師匠も半年振りに聞きましたが前回より高座での度量がぐっと大きくなったようなきがします。こちらも追いかけて楽しさいっぱいという感じです。

帰りがけに吉弥ネットで線香・・・、じゃなくて先行予約した1月の吉弥さんの独演会チケットをピックアップ。なんせメインディッシュが「たちぎれ線香」だそうですから・・・・、そりゃたのしみです。年が明けてからこういうイベントがあると師走の忙しさもちょいとは忘れるというもの。個人的には本日御用収めなのに公私ともばたばたしていますが、なにか来年はちょいと良いことをねずみが運んできてくれるような気がします。

R-Club

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「わが闇」ケラリーノ・サンドロヴィッチの調合が際立つ家族劇(一部改訂)

本多劇場にてケラリーノ・サンドロヴィッチ以下ケラ)作・演出のNylon100℃、「わが闇」を見てきました。タイトルを見たときには「消失」の後継に当たるような作品かとなんとなく想像したのですが、実際には非常に秀逸な家庭劇でした。このところのケラ作品には、「こんな新境地を・・・!」とか「この期におよんでさらに一皮むけた!」とかいう革新的な戯曲や演出作品が多かったのですが、今回は奇をてらうことなく、直球勝負の家庭劇に彼の想いをたっぷり織り込んだ作品となりました。

しかし、「奇をてらうことなく」といってもケラが自らの手法の進化をとめたわけではありません。彼の手法はより円熟し効果的に舞台に織り込まれていきます。断片化された記憶や心の揺らぎに映像を併用したり、小さな行き違いを掘り下げるような笑いのなかに真実を見せる手法はこれまで以上に研ぎ澄まされて観客を釘づけにしていきます。

(ここからネタばれがたっぷりあります。ご留意の上読み進まれますようお願いいたします)

この作品、本編では作家柏木信彦の3人の娘、そしてそれを取り巻く人々の夏から翌春までが描かれていくのですが、その前に、物語の前提となる記憶の断片が冒頭で表現されます。舞台となる家に、初めて幼い三人姉妹がやってきたときから物語は始まり、現在の視点と過去の現実で織り上げられたいくつかのエピソードが、独特の暗転を使った記憶の断続を挟みながら観客に伝えられていきます。両親や3人の娘たちの成長の過程がまるでランダムに心をよぎる記憶の断片のように演じられていくのです。不完全に語られていく過去の経緯、過度に神経質で精神的に不安定な母の元でおびえるように暮らす3人の姉妹。やがて父親は入退院を繰り返す妻と別居、そして離婚と平行して新しい妻を迎えて・・・。
新しい妻は3人の母親と異なり何事にも無頓着・・・・。3人の娘たちは生みの母の行動とは逆の意味で当惑を隠せません。やがて、長女の立子は14歳にして小説家となり、脚光を浴びる中、タイトルロールがやってきます。

タイトルロールでは、時が流れて、次女の艶子は結婚をして一子をもうけ、三女の類子は上京してタレントになったこと、さらには信彦に18年連れ添ったあと、後妻は彼の元を去っていったことも説明されて・・・・。最晩年の柏木信彦(なんと彼自身ははタイトルロールのあと一度も舞台に登場しない)と二人の姉妹の家で本編の物語が始まります。

柏木信彦は意識はあっても寝たきりの状態、そこに彼の記録映画を作ろうというクルーがやってきています。映画に情熱を燃やすけれど、金銭面で苦労のたえない映画監督、そして物事のプライオリティを自分の価値観でしか判断できない助手・・・。どちらかというと冗長に流れていく時間の中で、現在の柏木家の様子がだんだんと明らかになっていきます。たとえばなんとなく立子に恋心を抱く編集者の煮え切らなさ・・・。

艶子の夫の粗野で芸術を解することなく自己中心的なところ、またありふれた日常のから脱することのできない艶子の苛立ち、類子はマネージャーとの不倫の末に実家に戻り、ドキュメンタリー映画製作映画の黒幕は生みの母そっくりの立子の同級生・・・。いくつもの内外のエピソードが積み重なる中で三人姉妹の一人ひとりの時間がそれぞれに軋んでいきます。そして、信彦は3日間昔のアルバムを見て大笑いをした末にこの世を去って・・・。

人生に何事もなかったはずの艶子は遺産の問題をトリガーに夫と離婚を決意、立子は数ヵ月後の失明を医師から宣告されます。自らの失明を二人の妹に伝えられない立子。取り繕うことができない不安の中で、初めて亡父に想いを語り・・・。しかし偶然のうちに立子のことを二人は知ることになって・・・。それぞれの距離の中、さまざまなことを共有していたこと、さらにお互いを思いやっていたことを悟る三人。

ラストシーン、三人姉妹と彼らの理解者たちは、信彦が最後まで見ていたアルバムの写真すべての裏に彼の書き込みがあることを発見します。それは写真に刻まれた時間をたのしむような、そして写真に写る人物に対してなにかを伝える遺言のような言葉たち。

そして、舞台で演じられたいくつものエピソードの結末は・・・???。舞台ではなにも語られないのです。ただ、非凡すぎず平凡でもない家族とそれをとりまく物語がさらに続くことが暗示されるだけ。あたかもそれまでの物語で描かれたと同じように・・・。

実はアルバムの写真の裏に書かれた父親のメッセージを娘たちが発見したシーンでふっと涙がこみ上げてきました。家族という器のなかでそれぞれの変化がばらばらに重ねられ、あるときそれぞれが自分の人生に他の家族の人生が重なっていることに気づく。そしてお互いがすごした日々の喜びと貴さを知ることになる・・・。「人生ってそんなもの・・・」うまくいえないのですが何か心が満たされた気がしたのです。
でも、それで彼らの人生が終わるわけではない。その先のこともまたこれまですごした時間のように積み重なっていく。物語に終わりはない・・・。

三人姉妹の個々の想いや感覚は、それぞれがすごしてきた当たり前の時間に依存しているから、それだけで観客にとって強烈なインパクトがあるわけではないのですが、それぞれの感覚が舞台上で重なり合い引っ張り合っているうちに、当たり前の時間が観客にとってしっかりとした重さへと変化していくのです。思いの重なりが舞台上で存在感を持ったとき、姉妹たちが毎日積み上げた、楽しいだけでも悲しいだけでもない日々たちの輝きが舞台から観客へと降りてくる。
ケラは家族の長い時間のいくつかの場面をスライスして、実に巧みに重ね合わせ、家族や家族同様にすごす人の想いの重なりを鮮やかに表現してして見せます。円の内側を流れる家族の時間と、家族をとりまくさまざまな事象に示される外側の時間・・・。その均一とはなりえない時間のきしみのなかで、食い違うさまざまな価値観に取り巻かれながら、それでも家族という器のなかで父親も娘たちも人生を歩んできたことが観客にしっかりと伝わって・・・。

一方で家族の外側となる異なる価値観、内側を回る時間からスピンアウトした元妻、内側の時間を理解しようとしなかった次女の夫、外側から内側の記録を撮ろうとする映画監督やその助手、思惑で家族にかかわる映画のスポンサー、さらには長女の担当編集者の兄妹の物語、ケラはそれらを丁寧に描き、外側からも家族の物語をうかび上がらせていきます。抜群のバランス感覚でエピソードが交錯し、気がつけば観客は3人姉妹の人生を鳥瞰する位置に立たされていて・・・・。どこかビターで、喪失感があって、物悲しくて、だけどそこに居場所があって、振り向けばぬくもりと慰安があって・・・。観客は、ケラの作劇・演出の巧妙さに時間を忘れて舞台に引き込まれてしまいます。

役者のこと、この面子です。演技力がどうのなんてやぼなことはいいません。みんな及第点をはるかに超えた出来だったのですから・・・。長女の犬山イヌコ、次女の峯村リエとも役を演じるというよりは役柄がにじむような芝居でした。三女の坂井真紀のまっすぐでナチュラルな演技も描かれる家族の実存感に大きく貢献しました。三好を演じた三宅弘城の演技には無理のない真心がありました。父親役の廣川三慶はタイトルロール前にしか出演がないのですが、完璧な父親ではなく人間くさいところがしっかり出ていて、物語の基礎を固めることに成功していました。最初の妻と分かれて再婚をすることに無理がないことが、物語のトーンを定める上での大きな力になっていたと思います。

岡田義徳の映画監督、大倉孝二の助手も父親とは別の意味で妙に人間くさいのがよかったです。岡田は彼の持つ影を映画に対する情熱の狭間を浮かび上がらせるだけの表現力があったし狂言回しとしての凛とした演技にも好感が持てました。。大倉孝二はいつもの彼の演技で観客をとりこみつつ彼の価値観を押し通すだけの説得力を見せつけました

立子付の編集者を演じる長谷川朝晴も性格がしっかりと伝わる演技でした。また、皆戸麻衣じる妹との性格の一致にも無理がなく好演。皆戸は一種の怪演でしたが、犬山イヌコとの会話の間が抜群で・・・・。「一種の防衛本能」という台詞を納得させしめる演技もバーのはるかに上を飛ぶレベルでできていました。

家族からスピンアウトすることになる長田奈麻みのすけは、十分に抑制を効かせて彼らの行動を説明するに足りる演技を積み重ねていきました。二人とも裏づけを持ちうる演技の積み重ねがあって、きちんと三人姉妹と異なる価値観で三人姉妹の世界を照らし出しました。家庭の中で違和感なく暮らしている用に見せながら、ふっと自分の世界に戻るときの一瞬の表情に、彼らの世界を否定しきれないようなな説得力があって・・・。また、長田の新しい夫役吉増裕士も長田のペースを十分見切っての演技で好演だったと思います。

松永玲子は今回二つの役を演じました。、ある意味攻撃的という共通点はあっても、性格的には両極端のふたり・・・・。最初の3姉妹の生みの親の演技は会場全体を凍えさせるような性格描写が見事でした。精神的な不安定さが舞台全体の雰囲気を一気に塗り替えてしまう・・・・。繊細さのある芝居なのですが、舞台全体のテンションを瞬時に上げたり緩めたりするだけの切れ味が演技にあるので、観客もその雰囲気に引っ張り込まれてしまうのです。一方もうひとつの役ではみごとに三人姉妹がかもし出す舞台の色をしっかり塗り替える演技が出来ていました。ちょっとネイティブではない似非っぽい関西弁まで駆使しての強弱のつけ方は、舞台の流れからみると明らかに異端でありながら違和感がない。まったく違う価値観で三姉妹の世界に土足で入り込んでくるような強さ、しかし舞台をとめるほどは突っ張らない。ほんと、過不足がない名演だったと思います。松永については、これまで与えられた新しい境地の役を次々と演じきっていく能力に毎回感動させられていましたが、今回の演技などをみていると、外から与えられた演技をこなすのではなく、彼女の内側に自ら膨らませた新しい境地の役が醸成されているような印象すら受けます。

また、松永の部下他を演じた喜安耕平にも松永の演技をささえるうすっぺら感がうまく出ていました。

あと、このお芝居の印象を強くしたものがもうひとつ、映像・照明が実に見事でした。暗転の手法だけでなく舞台に映像を重ねて記憶の錯誤や不安定さをあらわしたり、精神的な心のゆれを表現したり・・・・。映像や照明が役者の演技を照らすだけでなく、自らしっかりと演技をしている感じ。瞠目し、なおかつ舞台のあたらしい表現の可能性さえも想起できるほどの出来栄えでした。

実はこのお芝居、もう一度見に行く予定なのですが、その3時間15分が今からすごく楽しみにおもえます。これだけ長い芝居をもう一度同じ物語を見ることに苦痛をまったく感じないのは、物語の中に、きっと類稀なる媚薬のように心をひきつける何かが調合されているから・・・。

もちろん、ケラの調合がフロックでないことは今年の彼の仕事を見れば明らかなわけで、まさに今、ケラリーノ・サンドロヴィッチが円熟期の只中にいることをしっかりと観客に印象付けるような作品でもあったと思います。

しかし、これだけの作品を見せられると、来年の「どん底」のチケット、大変だろうなぁとため息が・・・。死ぬ気で取りに行くしかないのでしょうね・・・きっと。

R-Club

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アロッタファジャイナ 「クリスマス、愛の演劇祭」は夏よりいっぱい進化して 

12月16日、アロッタファジャイナ番外公演「クリスマス、愛の演劇祭」を観て来ました。夏の番外公演と同じ形式で、場所も同じ渋谷Le Deco(フロアだけちがっていたような・・・)。劇団内がいくつかのグループに別れ、一部は外部チームも参加して、1時間程度の芝居を披露していくという趣向。ひとつの芝居ごとのチケットのほかに1DAYチケットというのもあってこれが超お得。その日上演される演目すべてが含まれたセット料金になっているのです。

夏(9月)版で味をしめた私は、迷わずに1Dayチケットを予約いたしまして・・・。楽日でしたので他の日より演目は一つ少なかったのですが、それでも5つのお芝居を堪能することができました。

内容的には、夏に比べて、同じ演出家やチームでもクオリティが明らかに高くなっている・・・・。もっとも、夏の公演でも十分に高いクオリティをもったお芝居が多かったので「一段と粒がそろった感じ」というのが正しい表現なのでしょうね。

長時間の観劇ではありましたが、スタッフワークも夏に比べてもたつきがなく、「長さを感じないけど具たくさん」という観客にはとても美味な催しでありました。

せっかくですから、夏の記事と同様に、個々の芝居の感想などを・・・

(公演は終了していますがネタばれがありますので、読み進まれる場合にはご留意ください)

青木姉組 「リスボン」

作・演出・出演 青木ナナ 

出演 吉田佳代 綾瀬マルタ 柏木サナ 赤坂卓郎

シンプルだけれど、ちょっと小粋なエンターティメント。

出版会社の編集者、自分が一押しにした作家に締め切り間際に逃亡されてしまいます。行き先はなんとリスボン。あまりの多忙に恋人との関係も危うくなりがちなのですが、そんなことはお構いなし、たまったマイレージで逃亡先に原稿をいって来いと上司に命令されて、一路リスボンへ。リスボンについたのは良いけれど、右も左もわからずじまい・・・・。さまよっているうちに、携帯電話のむこうの恋人とは絶縁状態に陥って・・・。それでもようやく捕まえた作家に原稿を書かせて、でも最後の最後に逃げられて・・・。残されたメッセージはクリスマスイブに地下鉄の原宿駅の出口で完成原稿を渡すということ・・・。観光をしている暇もなくあわてて日本に帰る彼・・・。こんどこそと原稿を取りに行くとそこには素敵なサプライズが・・。

音楽の使い方やダンスの振り付けのセンスがお世辞抜きに抜群。作・演出の青木ナナには天からの授かりものがあるのでしょうね・・・。ダンス自体が息を呑むようなものではないのですが、使い方というか見せ方がとても上手。一番感心したのは、リスボンの裏町の風景をダンスで見事に表現して見せた部分。舞台装置もさしてない空間が3枚のTシャツを使った振り付けで見事に南欧の裏通りに変わってしまった。暖かい日差しや街の香りまで漂ってきそう。その風景の中で主人公が旅に疲れたエトランゼに見えるのです。まるで自分もリスボンにつれてこられてその風景を目撃したような気分になる・・・。

主人公と南欧までのタフな旅をしたような感覚を持たされているから、最後の結末が観客にとってはべたな感じにならずとてもおしゃれなものに・・・。役者たちにも舞台の雰囲気をビビッドにするような勢いとしっかりと場を作りあげる落ち着きがあって・・・。べたな言い方ですが、ラストシーンは観ていて心がやわらかく浮き立つような・・・・。

素敵な小品でした。そう、マンハッタンの小さな劇場でOff Offでの素敵な芝居を見ているような気持ちになりました。

藤沢組 「一日の必要量の「1/3のコント(ふゆ)」

作・演出・出演 藤澤よしはる

出演 大石綾子 山本律魔 突風ビュービュー[シュウ、マッツ、ミツマサ、リスキー・ザ・ロック]

男の心を持った女の子の物語という発想は決して悪くなかったと思います。藤澤作品として、夏の公演と比べると、物語性が高まったのでわかりやすかったし・・・。間のとり具合も夏に比べたらかなり改善されていたし、天丼的なギャグもためらいなく演じることで破壊力も生まれていたと思います。キャラクターの設定もきちんとしていたので観客にも余計な負荷がなかったし。大石さんの体の張り方もなかなかのもので、思わず笑ってしまう場面もひとつや二つではなかったです。

でも、この脚本なら、さらにもっともっと巻き込むような勢いがほしいところ。微妙なタイミングなのですが、まだ観客がびしっと引っ張られきれていないもどかしさを感じているような部分があって、それが全体の流れを少し淀ませていたように思います。。逆にしつこくてもいいから「ここはいっとかな・・・」みたいな部分にいまひとつの突込みがなかったり・・・。まだ良くなる余地たくさんある気がしました。

とはいうものの、空風びゅーびゅーのライブを挿入したのが大成功。物語に立体感が出来た感じ。ボーカルの方の衣装にも唖然としましたが(なんと武者鎧)、そのボーカルのパワーにはさらに度肝を抜かれました。彼はいいですね!!!声質が耳になじむし、ちょっとPAのボリュームが低くても関係ないような声量がある。生のドラムの音に生声が負けていませんでしたから・・・。また、曲がいいのですよ・・・。メンバーまるごと芝居に取り込まれながら歌った3曲は芝居にしっかりと色をつけていました。

新津組 「一回裏無死満塁の愛」

作・演出・出演 西島巧輔

出演 新津勇樹 森田ゆき

夏の公演から一番大きく進化したのはたぶんこのチームだと思います。女性がひとり加入したことで二人芝居の箍が外れて、西島脚本の幅が一気に広がった感じ。センスは感じても演じる際の二人芝居の段取りに足をひっぱられる姿が目についた夏の舞台にくらべて、今回の西島・新津はパワーが段取りでなく観客にしっかりと向かっている感じで・・・。

ストーリー性も高まり、ひとつのパンチラインが次のパンチラインにつながって相乗的に観客をひっくり返していくようなすごくよいリズムが出来ていたように思います。プロットの組み方も実に秀逸だったのですが、ひとつずつのシーンの完成度の高さにまず感服、グルーブ感のあるギャグの応酬にわくわくするような部分がたくさんありました。まだいくかというようなネタの深り下げ方にも感服。

3人の出演者全体でも、男どおしでも、森田とだれかの二人でもまったくクオリティが落ちずねたが演じられ積み上げられていくのもよかったです。ベタなずっこけから考え落ちまでいくつもの異なる種類のねたが、まるで上質のカクテルを作っていくように一つに纏め上げられていく感じ・・・。

森田ゆきのプロフィール等についてはパンフにも書いていないのですが、コメディエンヌとしての彼女のセンスには瞠目するばかり。的確な間、程よい強弱、押すところは押すし引くところはきちんと引くそのメリハリ付けの巧みさ。西島・新津が森田に気を使わず演技が出来ている感じ・・・。それどころか二人の力を煽っているような感じさえして・・・。

全編おもしろかったですが、特に、森田が野球部を振る場面や工場の火事をお弁当を準備して見物にいくというちょっとブラックな設定のあたり、さらには一番最後の高校のときに振られた憧れの女性に会いに行く最後のくだりは本当に私のつぼで・・・・。たっぷり楽しませていただきました。

野木組 「青い雪、カナズチで叩いたら割れてしまった夜空

作・演出 野木太郎

出演 滝野裕美、福島千紘 松浦明日香 中島康善 倉持翔

夏の公演でも非常に透明感のある舞台空間を構築した野木太郎作・演出の舞台、今回は季節柄か雪のイメージを使ってちょっと硬質なファンタジーの世界を作り上げました。

最初に人形が話す三つのフレーズ、それがそのまま物語のキーワードとなっておもちゃ工房の4人家族の顛末が語られていきます。かくれんぼの呼び声、歌、子供の領分の話、大人の話、それらがゆったりとしたアラベスクのように並べられていき、過去の物語、そして青い雪とはなにかがゆっくりと解き明かされていきます。

夏の時にも感じたのですが、野木演出の舞台には透明感を維持するテンションがあって、そのテンションが観客の心を舞台に釘付けにしていくような魔力を持っています。今回は夏に比べて物語の輪郭もはっきりしていて、その分テンションの強さが観るものをより明るい光でつなぎとめる感じ・・・。夏の微粒子が拡散するような舞台の印象から、今回は凛とした何かを感じさせる印象に代わってはいましたが、その透明感にはまったく翳りがありませんでした。

特に印象に残ったこととしては滝野裕美の人形としての演技の美しさ、素の部分の演技では深く感情をたたえているのですが、人形のパートになるとすっと水が砂にしみこむように感情が消えていくのです。福島千紘の澄んだ歌声も印象にのこりました。舞台のもやもやをどこか浄化するような・・・。あと姉妹間の戯れやちょっとした意地悪な表情がとても生き生きしていて物語の幅を広げていました。

夫婦役の松浦明日香と中島康善の会話も落ち着きがあり、同時に実存感がありました。加えて姉妹喧嘩の作りこみがしっかりしているので、家族の日常と雪の日に姉妹に起こった出来事に十分な落差があり、観客は非日常のなかで日ごろの姿ではしゃぐ姉妹の顛末に違和感なく吸い寄せられます。倉持翔の抑制された演技が物語のテンションをさらに高める。ブルー系のライトに照らされた終盤の美しいシーンも心にゆっくりしみこんで、終わった後ふっと深く息をつぎたくなるような作品でありました。

松枝組 「スノー・グレーズ」

作・演出 松枝佳紀

出演 安川結花 井川千尋 ナカヤマミチコ 原田健二 峯尾晶

大人の愛を描いた作品・・・、いくつものアスペクトから観客の心を揺さぶる作品に仕上がっていました。男女間の支配と非支配、耽美主義的な恋愛感の行き着く先、本当の信頼へのトライアル・・。心の一番奥のドアにそっと鍵を差してまわす時の隠微な軋み・・・。作者の心の内側をふっとあからさまに見てしまったような、とまどい・・・。そして・・・。

それは、高貴な主が住む館の居間で暖炉の火を見つめながら物語を聞いているような時間でした。語り部の男たちは感情を内に織り込んで理性で言葉を発し、女たちは感情を抑えることなく言葉に託す感じ。

登場する二人の男性、一人は新進気鋭の芸術家。もうひとりは若き芸術家の卵の青年。芸術家の言葉はノーブルで隠微な戯れを暖炉のレンガのように積みあげて物語を形成していきます。そして彼に支配される美しい妻の想いは暖炉の内側でこそで燃え上がる。芸術家は妻を鎖で拘束さえします。拘束を受けた肉体はふいごのように妻の想いを熾らせ炎を導く。その熱は、芸術家が企てたとおり、芸術家の妻に魅せられ、彼に想いを捧げる自らの妻や母から離れて芸術家夫婦とすむことになった青年の心を焦がしていきます。でも火は暖炉の内側にあるから燃えているのです。青年が暖炉を壊した時から火は消えていくのです。火は自らの熱を取り戻そうとしながら芸術家の死とともに消える。それこそが芸術家に対する妻の想いの証明であり、芸術家が真に求めていたこと。あとには焼く尽くされた青年の心だけがたたずむ・・・。彼の妻の心も踏みにじられたままで・・・。

男優二人の演技はしっかりコントロールされていて、物語の構造が観客に明確に提示されていました。原田健二が演じる芸術家には芯に十分な重さと熱が感じられて好演、取り込まれていく青年を演じた峯尾晶からはやわらかくしなやかな心が感じられ、それゆえ妻から心が離れていくときのとまどいや物語の最後に心が灰になっていくような感覚がまっすぐに観客に伝わってきました。

女優陣もとても豊かな演技を見せました。ナカヤマミチコの演技には安定感があって、舞台を支え、青年の揺らぐ心を鮮明に見せる力となっていました。その短い言葉には母親の価値観が重く込められていて、同じ重さをもった芸術家の倒錯さえ感じられる価値観と見事な対比を作り出していました。井川千尋が演じるニュートラルな価値観と秘めた思いをしっかり抱く女性には、舞台上で過不足のない絶妙な存在感がありました。また、夏に違うチームでの彼女の演技を見たときにも感じたことですが、彼女には表面のすりガラスに映した心の動きの内側にまったく別の想いを垣間見せるような力があって、観客に彼を思う理性と裏腹な彼女の心情が浸潤するように伝わってきました。

安川結花についてはどのように表現すればよいのでしょうか。うまくいえないのですが、そう、すっと入ってきて観客の心を捉えてしまう。気がついたら観客は彼女の世界に運ばれているような感じ。なにかを演じるときの彼女には観客ごと自らの手のひらに収めてしまうような力があるのです。しかも、彼女の発する熱は舞台全体の温度を変えることなく観客にだけまっすぐに伝わってくる。だから、彼女の想いがどんなに強くても、物語が持つ冷たい肌触りが崩れないのです。演技には華奢な肢体からは想像もできないほどの力感があるのですが、一方で非常に細かく丁寧な表現がきちんと出来ていて観客を捕らえ揺さぶります。そのあたりは安川の才能に加えて松枝演出の勝利でもあるのでしょうね。

最後の演目ということで、終わってから帰り支度なのですが、見終わって少しの間動けませんでした。非常に豊かな余韻の残る芝居だったと思います。

まあ、5時間以上ですから、長いといえば長いのですが、ひとつずつの演目にそれぞれ惹かれる要素がきっちりあって、あっという間に時間が流れ、満たされた気持ちと空腹感を抱えて会場を跡にしたことでした。ちょっとお尻に痛みは残ったけれど、ほんと、よい日曜日を過ごさせていただきました。

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本谷有希子「偏路」 ニールサイモンテイストの極上喜劇

12月15日マチネで劇団本谷有希子「偏路」を観て来ました。場所は新宿紀伊國屋ホール。

紀伊國屋ホールは本当に久しぶりです。今や伝統の味が染み付いた印象の場内、椅子もなんか昔風で・・・・。最近新しいホールが続々産声をあげる中で、存在感のあるホールですし、4Fの広いロビーも昨今のホールにはない魅力が・・。劇場内のちょっと時代がとまったような風情には、まるで小さいころ遊んだ公園の古びた姿に愕然とするような不思議な感覚があります。

(ここからネタバレします。これから公演をご覧になる方は、十分にご留意の上読み進んでいただくようお願いいたします。)

物語は四国、全国からお遍路さんががやってくるような場所、本谷有希子初のホームドラマという作品は東京に飛び出して9年間演劇を続けたにもかかわらず挫折した娘が、正月に父親と親戚の家を訪ねるところから始まります。

もともと、田舎のしがらみが苦手な主人公は、田舎の雰囲気に慣れるための訓練を兼ねて、家に帰る前に父に都落ちを打ち明けようと、父が正月にたちよる親戚の家を訪ねるのですが・・・。かなりなじめず、おまけに娘の話を聞いた父親は、それなら今度は自分が東京へいくと言い出すのです。父にもあきらめていた夢があって・・・、自分の綴った随筆を出版してもらいに行こうというのです。

主人公の帰郷、特に主人公の田舎や親戚になじめない感覚や父親との確執などは、親戚の一家、伯母や二人のいとこにもさまざまな波紋をもたらして行きます。さらにフィリピン人と結婚した伯母の妹も家を訪れて波紋を複雑にしていく・・・。ちいさなトリガーから、主人公自身や彼女の親戚たちそれぞれが日々の生活の中で心の中に沈めていたものが、おんぼろの蒸気管のように漏れ出し、時には噴出していきます。

主人公を含めて、登場人物は誰一人満足していないのです。夢があってもそれは本当には満たされていない。その不満をタイトな人間関係のなかで取り繕ったりなめあったりしている胡散臭さを主人公はグロテスクと感じている・・・。そのグロテスクさや満たされなさに耐えられなくなると、主人公の親子などは、発作的にガラスを割ってしまうほど・・・。しかし、ガラスが割れたり障子紙がずたずたになっても、あきらめようとしている夢が潔く消えてくれるわけでもなく、だからといって夢が満たされる手立てがあるわけでもなく・・・。そんな世界で、誰かの我侭や挫折、隠し事などに微妙な家族や親戚のバランスが大きく崩れかけたり立て直される姿はまさに極上の喜劇になりうることを、本谷有希子はよく知っていて・・・。

設定や物語の成り行きはまったく違いますが、ニールサイモンが自らの生い立ちを描いたといわれる戯曲たち、たとえば「カム・ブロー・ユアホーン」などと同質のシニカルな視点をこの舞台には感じます。ウディアレンの映画などでも感じる視点・・・。そして、この視点から浮かび上がる、どこか下世話で醒めていながら実は研ぎ澄まされ洗練されたユーモアのセンスがこの舞台にはいっぱい。それらは、これまでの本谷戯曲の中ではもっと陰惨な形で表現されていたものですが、今回本谷は等身大で表現し、きわめて高度な笑いにつながるタグをつけて観客の前に提示します。主人公が幼いころに歌ったという「一月一日(年の初めのためしとて♪」の替え歌、そのグロテスクと表現される感覚が本谷の緻密な演出によって舞台上に具象化され、豊かな役者の演技に支えられ・・・。シニカルな感覚を織り込んで編まれた創意に満ちたエピソードたちは、秀逸なコメディのティストをたっぷりと湛えた作品として花開くことになりました。

役者のこと、まず近藤芳正の力がこの舞台の土台をしっかりと固めました。近藤は、キャラクターから湧き出すいちびりに近い発想や発作にも似た癇癪をぐっと体全体を支えるような力業の演技で表現し、物語を単なる絵空事からしっかりとした実存感を持った作品へと昇華させました。表情にも力をためることができ、抜群にせりふや演技の間や速度がよくて・・・・。手練の技をたっぷりと逡巡なく発揮してみせました。加藤啓の役柄もひとつ間違えると浮世離れした人物になってしまうのですが、キャラクターをしっかりと貫き通し最後まで崩れることがありませんでした。加藤の演技には、絶妙な突き抜け方とここ一番の見事な腰の弱さがひっかかりなく共存していて・・・。その奇妙な自然さが物語を十分に広げていきました。

池谷のぶえは繊細さを裏に失わない怠惰さや無神経さを表現することに成功していました。彼女の演技にはやわらかく深い奥行きがあり、同時に奥行きの部分だけで本音の気持ちを伝える力があります。本谷が描いた「グロテスクさ」を内包したキャラクターが彼女の演技によって大きな説得力を持つことになりました。吉本なお子はキャラクターが持つルーズさと甘さをあせらずにゆっくりと演じてみせました。テンポに流されない彼女の演技は登場人物間の関係に正や負のさらなるふくらみを与えることとなりました。江口のりこには凛とした強さと根にあるやさしさを交互に出し入れする巧みさがありました。立ち姿の美しさで思いを隠すこともできるし、逆に思いを浮かび上がらせる演技も巧みで・・・。主人公のキャラクターを鮮やかに照らし出す、真に強さを持った役割を十分に果たしていました。

主人公を演じた馬渕英俚可も好演でした。近藤芳正と同様にキャラクターに十分見合うだけの芯の頑固さと優柔不断さを同居させる演技が出来る女優で、またパワーも十分。非常に難しいキャラクターの個性を、実にスムーズな演技で表現しつくしました。微妙な役者の才能があるという中途半端さも、彼女が演じているとうなずいてしまうような実在感がありました。

本谷戯曲に登場する人物には二重底や三重底の精神構造が設定されていて、それらをしっかりと表現しうる役者たちの演技こそがこの舞台の大きな勝因となったような・・・。集大成として馬渕・近藤の演じる最後のシーンにも、小気味よいペーソスがあリました。

あと、場面転換時やいくつかのシーンには映像が挿入されているのですが、これらにも表現力に加えて独創性と切れがありとても秀逸、本編の表現したいイメージを観客につたえる大きな助けになっていました。

本谷有希子のテイストが新しい領域にまで広がったようなこの作品、お勧めです。前売りは完売したようですが、当日券も出るようです。本谷有希子これまでとは一味違う表現をたっぷりと楽しむことができます。

12月23日まで@新宿紀伊國屋ホールにて

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眩しさを目を開いて見つめてしまうような・・・  岡田あがさ 「ワタシガタリ」

空間ゼリーヒトリガタリシリーズVol.1、岡田あがさ「ワタシガタリ」を観て来ました。前回の空間ゼリー公演でも非常にインパクトのある演技を見せた女優の一人芝居ということで、閉塞感がしっかりとある「pit 北/区域」は満員となり、彼女の舞台を鑑賞するには絶好の環境となりました。

(ここからはネタばれがあります。十分ご留意の上お読みください)

コートを着て、鞄を持ち舞台に上がる彼女、舞台上には雑多なものが散らかっていて、中央には長方形の青いマットが敷かれていて・・・。最初はいろんなものと戯れていた彼女が、ゆっくりと自分のことを語り始めます。名前も忘れただ全身が傷だらけというだけの彼女がゆっくりと自分を探し始めます。

それは、抽象的な表現であり、しかしながら歩みを進める中で具象化された表現にも彩られて・・・。、まるでひとつずつ箱を開けるように語られていく不確かな記憶の断片に、彼女から発する白色の光は強くやわらかく揺らいでいきます。父から離れていった母を思う気持ち、父との対立とその裏腹にある父を求める気持ち、恋人への思い・・・。鞄に詰められていたのは不器用につながれたいくつものの携帯電話、それらのいずれもが彼女のアイデンティティにはつながらず、やがてやってくる寂寥と欲望、切り裂くような音とともにやってくるバッシング・・・。それでも白色の光は衰えるどころか、まるで照明の笠が外れたかのようにその鋭さを増していくのです。しかもその眩さから目が離せない・・・。

約1時間の舞台でしたが、観ていて時間はまったく感じず、しかも終わって拍手をするときにはかなり自らが消耗しているのがわかりました。彼女の舞台での求心力に心が奪われきっていたのだと思います。

そりゃ、一人芝居ではそれほどめずらしくないト書きを語るような部分に一瞬彼女のためらいが感じられて、物語自体の視点がどこかぼやけてしまうように思えたり、彼女の中での感情の連鎖がふっと方向を見失うような(もしくは観客をぶっちぎってしまう)部分がちょこっとあったりはしましたが、それも彼女の根源的な表現への熱情のなせる業と理解できる範疇のことでした。もっと根源的なこととしては彼女自身のもつオーラのようなものが強すぎて、一人芝居に徹している部分ではそのまばゆさに物語がかすむような部分もありましたが、これも外部からの肉声や効果音(タンバリンを強打する音、非常にインパクトがあった)によって後半一気に解消されました。

ほんと、密度が高くしっかりと熱を内包した、力を感じる舞台でありました。

そうそう、アフタートークでの深寅芥(演出)、坪田文(空間ゼリー主宰)、岡田あがさ(女優)によるいろんなお話もとても興味深かったです。ネタばれを気にする向きもあったので内容は書きませんが、作り手側のロジックがいろいろと開示されて・・・・。今回の公演が深寅氏の演出がみごとに実を結んだ作品であることがよくわかりました。

ただ、(ここからは余談ですが)ふっと思ったこと。前回空間ゼリーの公演などに比べても、今回の岡田あがさは本当に自由に演じている感じで、パワーが一点を切り裂くというよりは全体を包み込むような演技でした。で、今度は逆にもしこの芝居をタイトにというか自由を制限された状態で彼女が演じるとどのようになるのかなって・・・。

たとえば、極端な話、ク・ナウカのメソッドで、ムーバーとしてこの物語を演じたら・・・。彼女が発する力は失われていくのでしょうか・・・。あるいは制約をバネにより強い表現が彼女から現出するのでしょうか・・・・。

深寅氏にはしかられてしまいそうな発想ですが、終演から少し時間がたって、彼女がベースに持つ可能性について、観る側のロジックで、ふっといろいろ思いをはせてしまったことでした。こういう発想は岡田あがさパフォーマンスや深寅演出に圧倒され尽くしたからこそ、精神的代償行為として終演後しばらくしてから浮かんでくるのかもしれませんが・・・。

余談ついでにもうひとつ、今回の公演、どちらかというと狭いスペースではあったのですが、観客の誘導等スタッフの対応がとてもよかったです。こういう部分も劇団の力なのだろうなと感心したことでした。

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単一の絵柄ではなく・・・。空想組曲「この世界にはない音楽」

12月8日16時30分の回で開化の華 新宿村Live 空想組曲の「この世界にはない音楽」を観て来ました。さすが土曜日の午後で客席は満席、会場の客席自体も増えていました。前日に観た「JACROW」の時にもおもったのですが、しっかりとした個性と観客を取り込む力をもった劇団にはきちんとお客様がつくのですね・・・。うん、よいことです。

空想組曲はほさかよう氏が作・演出を手がける劇団、一番最初にほさかよう氏の作品をみたのは「Deep Forest」でしたが、あの作品はいまでも非常に印象に残っています。そうそう、空想組曲としては旗揚げの「白い部屋の嘘つきチェリー」にも大きく心を動かされました。

(ここからもろにネタばれがあります。読み進まれる際には十分にご留意ください。)

物語は作曲家に悪魔が取り付くところから始まります。死にたいと思う人間だけに見える悪魔。契約を結び最後にひとつだけ望みをかなえて魂を抜き取ります。

ところが作曲家にとりついた悪魔さんはあまり出来がよくないらしく、上司の悪魔に不成績を怒られ、悪魔に向いていないのではないかとさえいわれ、夜明けまでに一件でも契約を取らなければ天使にしてしまうと脅されます。それとも地上を這い蹲る人間にしてあげようかと・・・。どうも悪魔の世界では悪魔>天使(恥ずかしい白い羽根をつけさせられる)>人間(地べたを這い回る)という構図になっているらしい。

一方、この作曲家さんも、この数年ろくな仕事をしていないらしく、作詞家がやってきて復帰の仕事をしようといっても応じようとしません。なんだかんだと理由をつけて断ってしまう。そして出来の悪い悪魔に望みはないからさっさと魂を抜き取れと言い放ちます。

悪魔について、ほさかようはもうひとつ設定をします。悪魔は音楽を作れない。楽器にも触れることができないのです。だから地上に降りて唯一の楽しみは音楽を聴くこと・・・。作詞家と作曲家がデニーズで話し合う間留守になった部屋へその悪魔とともにやってきた上司の悪魔、作曲家の部屋ということで大興奮。おもちゃのピアノで大騒ぎです。自分では触れないからと自殺願望の男2人を引き込んで、さらに要領よく魂を抜き取ってしまう。

やがて作曲家が帰ってきて、作詞家が再び現れて・・・。作詞家は作曲家の才能が枯れたことを悟り去っていく。上司の悪魔が外から成り行きを見つめるなか、再度魂を抜き取るよう懇願する作曲家。

出来の悪い悪魔は、最後に作曲家にピアノを弾いてくれるようたのみます。悪魔自身では弾けないから、しぶる作曲家の手をとって、「もろびとこぞりて」をつたなく奏でる。それに触発されるように作曲家は悪魔をそばにして、自分の頭に浮かんだメロディーを奏でます。感動する悪魔に、最後にもう一度自分の頭に浮かんだ音楽を弾きたかったという作曲家・・・、悪魔は、作曲家にその曲を再度奏でさせ、その中で最後の望みが満たされた作曲家の魂を抜き取ってしまうのです。そして・・・

この物語にはもう少し続きがあります。上司の悪魔は「貴方が仕事をするとはおもわなかった」といいます。出来の悪い悪魔は自分は悪魔だからと答える・・・。その答えを聞いた上司の悪魔は・・・。

非常によくできた物語だと思います。そこには仕事や才能という概念、自分の世界の価値観にしばられることと解き放たれることなどが見事に織り込まれています。それらが物語の進行とともに片面だけではなく両面の絵柄として浮かびあがってくる・・・。作曲家の苦悩や彼の才能を枯らしていたもの、作詞家の才能、ふたりの悪魔の仕事に対する考え方の違いから、上司の悪魔の孤独までが場内を包み込んでいきます。上司の悪魔が後半ずっと外の柱にもたれかかってその姿を見つめていることで、物語は大きくその世界をひろげて・・・。二人の悪魔がそれぞれに満たされたことと失ったこと、それらはそのまま観客の涙に変わっていくのでした。

役者のなかでは、上司悪魔を演じた牛水里美の演技がまず光ります。アンティークドールのような美しさを持つ小柄な女優さんですが、容姿もさることながらパワーがあり芯がぶれない演技が観客をひきつけます。舞台をグイグイと押し切るような強さがあるのです。

一番瞠目させられたのは、後半から終盤近くに薄暗い舞台の柱の部分に立って部屋の中の成り行きをみつめる彼女の演技、まるでガラズ細工のように繊細な表情の変化は、出来の悪い悪魔のような態度をとれない自分へのかすかな苛立ち、嫉妬、孤独、さらには捨てることができない仕事へのプライドのようなものを細かく表現していきます。客席の位置によっては見切れたりサブリミナリーを与えるような演技だったのですが、幸い私の席からは思わず息を呑むような彼女の演技を完璧に見ることができ、感情がしっかりのった彼女の姿が舞台の粒子をぐっと細やかにしていくのを目の当たりにすることができました。

一方の出来の悪い悪魔を演じた柴村朋子も、不器用さと意思の強さが滲み出て好演でした。彼女の表現にはどこか硬い芯のようなものが感じられて、そこが観客の感情移入のトリガーになって行きます。抜けるように明るいわけではないというのが彼女の演技のなせる技で、しっかり守り続けたトーンが一番最後のシーンでみごとに花を咲かせました。

中田顕史郎は作曲家としての神経質さや気難しい部分を表現することは軽々とこなせる感じ、それより、弱さや苦悩の表現が技ありで、特に手を持たれてピアノを弾かされるところから自分でピアノを弾くに至るところまでの雰囲気の変化が実にみごとでした。

横塚真ノ介はちょっと軽薄なトーンのかなに才能の匂いをしっかりとこめて、中田の真の苦悩を見せるためのトリガーをみごとに引いて見せました。動きにも切れがあり、静のイメージを作る中田との対比で物語がとてもわかりやすくなりました。

当日は日替わりゲスト(出演)はエレキ隊(山本卓・松崎史也)、不勉強というか彼らがどのようなジャンルの役者さんか存じなかったのですが、物語の設定をすっと理解してそのまま入り込むような器用さがあって・・・。牛水の手のひらにのって、笑いまでとって演技をこなしていました。本職はミュージシャンなのですかね?でも見ていて彼らには、役者としての才能にも天性のものを感じたことでした。

それにしても、終幕後、いろいろと考えさせられる芝居でもありまして・・・。一番考えたのはこの芝居の主人公は誰かということ・・・。、普通に考えれば出来の悪い悪魔さんなのでしょうけれど、私がこの芝居で一番印象に残ったのは、出来の悪い悪魔のように振舞えない上司の悪魔の孤独・・・。牛水里美の演技がよすぎて、本来作家が意図しないニュアンスまでを生み出してしまったのかもしれないですが、よしんばそうであったとしても、ハッピーエンドにちょっとビターなテイストを付け加えた上司悪魔の存在が心にひっかかるのです。

まあ、元々、ほさかよう氏のこれまでの作品も、複数の視点から物語がくみ上げられているわけであり、この作品とて例外ではないということなのかもしれませんが・・・。

不覚にも落涙を誘われてしまったこの作品、ほさかよう氏の才能に今回もやられてしまいました。

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それは良質なもみの木ように・・・ JACROW 「Dog Eat Dog」

開花の華、新宿村の市という約1ヶ月にわたるG-UPが企画した小劇場系の「演劇大会?」がありまして、12月7日夜に参加劇団のひとつJACROWの「Dog Eat Dog」を観てきました。

2つの劇団が1時間の芝居を毎日1回(週末は2回)同じ場所で交互に行うというこの企画、作り手にとっては制約が多いのだと思います。舞台装置の問題、時間の問題、さらには運営面も含めてかなりハードな印象。とはいうものの、制約が工夫を生み、工夫がさらなる創造を生むというようなよいスパイラルが出てくれば、それは劇団にとっても観客にとっても大きな財産を生むことになるわけで、制約が常にわるいというわけでもないのかもしれません。ただ、育ち盛り劇団大集合のような今回の企画とはいえ、制約を逆手にとって彼らはますます育っていくのか。あるいは、制約に負けて崩れていくのか・・・。さまざまな面面においての参加劇団の資質がもろに問われる企画なのだとは思います。

で、今回、JACROWについての結論から言うと、制約をほぼクリアしておつりがたっぷり・・・。最初の比較的ゆるい導入部分からここまで引きずり込まれるとは思わず、ちょっとした手品を見ているような気分にすらなりました。

(ここからネタバレします。芝居の核心に触れる部分があるかもしれません。ご留意の上お読みください。)

実はこの物語、1時間のドラマとしては人間関係や登場人物間の利害関係がかなり複雑で・・・。人間関係については事前に配られたものの中に図でしっかりと説明はされているのですが、その図とて実感として理解できるのは芝居を見終わった後の話。しかし、舞台が理解しずらいのかといえばそんなことはなく、舞台が進む中で観客にはきちんと登場人物の関係が整理されてみえてくるのです。必要な部分がひとつずつ観客のなかに積み上げられていく感じ・・・・。それもあざとい表現で関係が示されるのでなく、物語の流れのなかで観客が呼吸をして無意識に酸素をとりこむように理解をしていけるやりかた・・・。物語の骨と筋肉がしっかりと描かれている一方で贅肉がぐっとと絞り込まれていることの成果なのでしょうね・・・。その絞り方も観客に負荷をかけないというか、舞台全体をぎすぎすさせないで登場人物の感情や想いのぬくもりを残したままで絞り込まれている感じ・・・。無駄を絞る一方で役者の感情表現だけで物語の腱にあたる部分が補強されてさえいる・・・。作・演出の中村暢明が持つセンスが光ります。物語の輪郭がしっかりしているから後半で登場人物たちが物語を動かし始めてもテンションのあがり方にくずれや不自然さがありません。観客がそのまま乗っていける。最後に近いの部分で映画の有名なシーンをもろ借景につかうのですが、それが逃げやデフォルメではなく映画と同様の必然と感じられる強さがこの芝居にはある・・・・。

まあ、パーフェクトというわけではなく、少なくとも私が見た回ではもっと昇華した舞台になりえるのに・・・・いう部分もありました。意外と目に付いたのが、いろんなタイミングのとり方や表現の仕方の不安定さ・・・。たとえば二つの空間を同時にひとつの舞台空間に定義して、片方の時間をとめてもう片方を演ずる部分、手法自体はしっかりと機能しているのですが、空間やシーンを移すときに音やライトがイマイチびしっと決まらない感じ・・・。上方落語だと見台を小拍子で小気味よくたたくタイミングなのですが、ある部分は大げさで音もなんかイメージと違うし、ある部分は大仰だったりここは小さくでも音があるとわかりやすいなと思う部分でなかったり・・。素人がこういうことを言うのも何なのですが表現者の意図と観客の感覚がどうもずれている感じで・・・。落語と違って場をみながらその場で修正というわけにもいかないのでしょうが、もうちょっとやり方が・・・という感じもしました。あと、最後に芝居のタイトルをコールして暗転終幕になるのですが、コールの部分はもっと派手に決めてもよいような・・・。これだけの芝居をやられて、観客は強く満たされているわけですから、、もうちょっとけれんを入れて、会場全体の時間をフリーズさせるくらいの強いコールがあってもよいのではとおもうのですが・・・。

でも、それらのことを差しひいても、観客をひきつけて離さないだけの魅力というか、芯に力を持った芝居でありました。芝居っていうのはクリスマスツリーみたいなところがあって・・・。オーナメントの電飾がたまたま2つ3つうまく灯らなくても、もみの木がきちんとしていれば、その美しさはちゃんとつたわってくるのです。

役者のこと、角田ルミは人物が持つキャラクターの軽さを勢いをコントロールしながらまっすぐに表現していました。その中に見える欲(田園調布夫人とか社長夫人とかいうイメージへの憧れ)の直情的な軽さがシンプルに観客につたわってきました。このシンプルさの表現が、後述の菊池未来が心に抱えるものの重さを何気に浮かび上がらせていきます。國重直也は逆に不純物がしっかり内包されている演技で、役員としての会社に尽くす風を演じる顔と私欲にかられて企てを進める顔の切り替えに無理がなく、したたかさも伝わってきて好演、杉木隆幸も押しの強さとある種小心な部分をもつキャラクターを、ゆとりを持って手のひらにのせて演技をしていました。ただ、菊池・杉木は後半にアカペラでの歌があって、物語の終盤を一気に盛り上げていくのですが、歌の技術はそれなりにしっかりしているものの、歌が演技の背景になったときの盛り上げ方のタイミングがちょっとずれる部分があってそこだけが残念でした。

関野健介には気持ちを吐露する場面での言葉にまっすぐさがあり、言葉の内側に気持ちが細かく織り込まれていて、最後のドンデン返しにある種の必然を与える演技でした。うまくいえないのですが、ここ一番で振れない気持ちの表現がそのまま観客を捕らえていたと思います。今里真も気持ちを内に入れながら、柔らかい言葉で押さえ込まれた強い感情を表現するという演技を的確にこなしていました。外面の慇懃一歩手前の丁寧さと内側の感情のギャップを微妙な表情や言葉の強さで見事に操っていて、観客にとっても見ごたえがある演技でした。

菊池未来は目に力のある女優で、意思の強さを寡黙さで表現できる人。抱える思いの出し入れがきちんとできているので終盤の展開にも浮くようなところがなく、観客の思いを掴んだまま見事に場をはけてみせました。豪胆な部分と繊細な部分を同居させて演技ができる器用さもあって彼女の役に存在感を与えていました。

最後に蒻崎今日子です。彼女は今回の出演者のなかでも演技の基礎体力が一番強い感じ。場の支配力に長けていて、舞台の色を作ったりあるいは雰囲気をすっと変えることができる力を持ち合わせている一方で、舞台の空気を安定させたまま密度を上げたり下げたりもできる・・・。彼女から発せられるある種の力感が舞台のテンションをきちんと維持していたように感じました。台詞や動作の奥行きが深いというか、こういう役者が舞台にいると、観客は舞台に身をゆだねやすい・・・・。中村の世界観が観客に伝わっていく際、観客のゲートを開く役目を彼女は果たしていたような気がします。

JACROW、この雰囲気で、今回のような制約をはずしたもう少し尺のある芝居をみたくなりました。けっこうはまりそう・・・。またひとつ、通いたくなる魅力をもったよい劇団を見つけてしまいました。

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水野美紀が消えて水野美紀が生まれる プロペラ犬「マイルドにしぬ」

赤坂レッドシアターにプロペラ犬の旗揚げ公演、「マイルドにしぬ」を観にいってきました。レッドシアターは初めて。いすの幅がすこし狭いものの機能美のある劇場で・・・。舞台の高さもそれほどないので、一列目の一番下手の席だったのですが、とても見やすかったです。

プロペラ犬は作家の楠野一郎と女優の水野美紀のユニット。今回は役者として河原雅彦、演出に入江雅人を招いての旗揚げ公演となりました。

(ここからネタバレがあります。これからごらんになる方等は十分ご留意の上お読みください)

物語はルーズに重なりあういくつかのエピソードから構成されています。すべてが最後に美しく収束するわけではない。ただルーズになにかが重なり合っている感じ・・・。それぞれのエピソードというか物語にタイトルがつけられるのですが、タイトル自体に大きな意味があるわけでもない。でも、物語の重ね方や目にみえないようないびつさ(ほめ言葉)にこそ、この舞台を作り上げたキャストやスタッフのセンスがきらっと光る舞台になっていました。

最初のエピソード、水野美紀は既存の「水野美紀」というイメージが持つ美しさの上で芝居をしていたような・・・。「壁に挟まって獲物をまつはさみ女」というけっこうシュールな役柄なのですが、水野美紀という女優の「美」が内在する不条理さを浮き上がらせることなくしっかりと押さえ込んで・・・。河原雅彦も、既存の彼女のイメージを借景にして、せりふとイメージのギャップを楽しみながら芝居をコントロールしていたような・・・。この段階では、多少違和感はあったものの、まだ観客は過去の水野美紀のイメージで舞台を味わっていたのです。

それが2話あたりから少しずつ色が変わってきます。2話では舞台上にある「水野美紀」が、観客のイメージにある彼女よりどこか実直で骨太になってる・・・。華奢な美しさというよりは、しっかりと骨格が美しい感じがする。繊細な装飾の美しさではなく組み上げげられた鉄筋の美しさというか・・・。だから河原雅彦と格闘技をしても違和感がない。どこか人を喰ったようなしぐさや理不尽さも舞台の空気にすっと溶けていくような感じ。恣意的になにかをデフォルメしている風でもなく、演技の真摯はそのままなのに、彼女がこれまでにまとっていたイメージが薄絹を脱ぐようにはがれていき、今までの彼女からは想像だにしえなかった、高貴でありながらドーンと居座るような彼女の存在感が舞台を支配していくのです。

3番目の話あたりになると、「水野美紀」というイメージをまとって演技をしている水野美紀はもはや完全に舞台から消えうせて、適度なテンションを持った時間のなかで、のびのびと演技をしている女優が舞台上に存在している感じ。観ているほうも、「水野美紀」を観ているなんてあっさりと忘れてしまって、「ウルルン滞在記でゾンビにかまれて自らも腐り始めた」という浮世離れしたような役柄を、ちょっとどぎついリアルさをちりばめながら流暢に表現していくブランドレスな女優の演技に惹きこまれていきます。このあたりになると河原雅彦の芝居も演技を抑えて彼女を取り巻く雰囲気を構築するのではなく、真剣に水野にぶつかっていく感じ・・・。気がつけば舞台は二人の真剣勝負の場と化しています。

次の物語になると二人の真剣勝負の度合いはさらに強くなって・・・。内容的には志村けんが石野陽子とやっていたコントのようなテイストなのですが、水野さん、手を抜かないから観客も笑いから抜けられない・・・。妙にマジな演劇論が突然語られたり人の話を聞かない系のはずしが絶妙のタイミングで入ったり・・・。アドリブ的な部分もかなり見受けられたのですが、彼女が立ち止まりかけたのは一箇所だけ・・・。すごく演技が切れていて・・・。自らの縛めをはずしたような彼女の演技に染まるように、観客は新しい水野美紀という女優に心を支配されていきます。河原雅彦の演技からも充実感が伝わってくる。演技していて楽しそうに見える・・・。そこには物語のヘタレさとは裏腹に、まぎれもなく一本勝負をしている役者の気迫のようなものを感じることができました。

そこまでいくと、もう彼らの術中です。なにをやっても彼らが構築する世界に観客はちゃんとついていってしまう。次の物語である「ぽこ」のころには舞台の雰囲気を外側から眺めていた観客は舞台に浸潤されて、水野美紀や河原雅彦の作り上げるテイストのなかで、物語を共有するようになっていく。「ちんぽこ」と水野美紀が連呼してももう関係なしです。

最後のエピソードは一話や二話につながっていて・・・。ループ落ちのように物語が終わります。そしてカーテンコール。拍手をしているなかで、観客は自分が言葉にならないような斬新な感覚にとらわれていることに気がつきます。

ひとつには、前述のとおり、水野美紀自身が観客には想定外のティストだったということがあるのでしょうね。観客にしてみれば、観ているうちに「水野美紀」の影がが舞台から消えて、代わりに新しい可能性を山ほど抱えた女優を舞台に見つけて、でその女優の名前を問えばたまたま水野美紀だったみたいな・・・。これは間違いなく観客にとって(そして多分水野さん自身にとっても)うれしいサプライズでありました。

でもそれより大きいのは、ちょっといびつな楠野一郎作の連作と二人の個性的な役者の相性が抜群だったこと・・・。1時間30分の半オムニバス、ひとつずつのシーンも重過ぎず、ところどころにピリっとしたスパイスも効いていて・・・、それでいて観客が水野美紀の隠された力を堪能し、河原雅彦のガチンコ芝居を堪能する場が見事に構築されていました。楠野一郎の脚本、役者を選ぶタイプではあるのですが、はまったときにはインパクトの強さや斬新さに加えてリスクをスパイスにするような魅力的なテイストがほのかに香って・・・。そのリスクを時には逆手にとるように大きく舞台を膨らませて見せた演出の入江雅人のセンスとともに、通常のレシピとは一線を画した魅力的な非凡さを内包した舞台となりました。

あと、この舞台、美術もよかったです。世界観のいびつさが統一感をもって表現されている感じで・・・。光の使い方、野外広告塔に見立てたスクリーン・・・。舞台上の物語の尺度が観客に伝わってくるようで・・・。

大阪や川崎ラゾーナでも公演があるそうな・・・。この芝居の稀有な不可思議さと癖になるようなテイスト、そうめぐり合えるものではありません。お勧めの一作かと思います。

R-Club

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