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東西落語研鑽会 積み重ねていく話術

11月26日、よみうりホールにて東西落語研鑽会を観ました。たっぷり3時間の落語会、キャパ1100の開場は満員の盛況で昨今の落語ブームの勢いを感じました。

最初に登場は桂つく枝、主任が桂三枝ということもあって、一門の紹介で場を和ませます。枕もよく練られた秀逸なものでした。ラクゴリラのときにも思ったのですが、つく枝師匠が客を取り込むときの口当たりのよさは本当に客を和ませます。大きな会場がすっとつく枝師匠でまとまる感じ・・・。

お題は「四人癖」、上方落語の華が登場人物それぞれからにじみ出るような感じで、きっちりと会の流れを作り上げる・・・。語り口がはっきりしているところもつく枝師匠のいいところで、抜けがよいので引き込まれる場内の笑いが明るい・・・。会場の大きさを意識してからか、動作も大きくとるのですが、所作がしっかりしているのでそうしても動作がぼけない。サゲまでの仕込みもしっかりとしていて、笑いが順々に積み重なっていく感じ・・・、本当によい高座やったと思います。

続いての柳家喬太郎、落語台本コンクールの表彰式も兼ねたこの会で、優秀賞を演じる大役を背負っての登場です。演目は「夢で逢えたら」(作:冨田龍一)。ちょっとすねたように登場すると、六人の会主催の落語会で受賞作品をなぜそのメンバーが演じないかと一くさり・・・。拗ねたようなしぐさに場内大爆笑です。さらに優秀賞の台本を自分がやりやすいように少し変えましたという断わりがはいるのですが、そのあたりの持っていきようがまたよくて・・・、毒があることには間違いないのですがその盛り方が実に秀逸・・・。洒落の世界の徳俵を使ってぐっと客をうっちゃる感じで・・・。

作品はどちらかといえば人情噺、噺の中で登場人物がしっかりと描かれていてこれは作者の大手柄・・・。夢を見る枕や魚の名前が女の子の名前に摩り替わる部分も無理がなく、本来知恵者のご隠居さんが天然系のぼけをかますところも観客には心地よかったです。枯れたはずのご隠居が見る夢が、吉原の酒池肉林から金銀財宝、そこまで憎めない欲ボケキャラクターのイメージを積み重ねておいて終盤でブレーキをかけると思いきや、あぶないフェチ系のギャクにまで走らせるところが喬太郎師匠の真骨頂、物語の間にいろいろと盛り込んで、長演となり積み上げた物語の骨格がちょっとだれてきたかと思うと、冒頭の六人の会をいじったところを伏線に地に戻って高座を引き締める。観客はいったん地に戻されてもう一度物語に引っ張り込まれることで、新鮮な感覚でクライマックス@人情噺の粋を感じ取ることができたわけで、その臨機応変、場を見て事をなす喬太郎師匠の高座さばきにはもう惚れ惚れするばかりでした。

その後の表彰式の中で、喬太郎師匠はふたたび作者に台本を一部アレンジしたことを侘び、画龍点睛の故事からどんな噺でも最後に点を打つのは噺家の仕事、点は噺家がうたせてもらったけれど、噺がすばらしいとすればそれは作家が見事な龍を書いたからと締めました。喬太郎師匠が自らの持論と前置きしての話でしたが、喬太郎師匠の芸人としての心意気や芸を支える強い想いの一端を見せてもらったようで感服したことでした。

仲入りのあとは柳家花緑師匠。演目は「唖の釣」枕の語り口の朴訥とした部分はちょっと薄暗いというかトーンとしてはモノクロをイメージさせますが、噺に入るとぱっと色がついたようにトーンが一気に変わります。与太郎のバカっぽさのデフォルメがとてもしっかりしていてなおかつ嫌みがない。実存感があるのです。バカをバカとしてあいまいに飼っておくのではなく、花緑師匠は与太郎をしっかりと人物として描いていきます。その積み重ねが後半の笑いを大きく拡大していきます。

終盤の与太郎と寺侍との会話のリズムのよさ、さらに七兵衛の聾唖者ぶりのしっかりしていること。花緑師匠の底力がしっかりと出たよい高座でありました。

続いては林家正蔵、「鬼の面」。丁寧な語り口、ややテンポのゆっくりした語るような口調はしっかりと観客にとどいていきます。生真面目な芸風が伝わってきます。筋道を大きく広く見せる感じ・・・、悪くはないのです。

ただ、噺がつみあがっていくときに縦への伸びのようなものが感じられない。物語が横に順番に並べられていく感じ。噺につよさやわかりやすさはあるのですが、膨らんでいかないのです。ここ一番でぽーんと羽目をはずすような部分や、ふっと観客を弛緩させるようなところがすくない・・・。けっして芸がないわけでもないし語ることへの意欲もたっぷり感じるのですがどうも起伏に乏しい感じがするのです。よしんば人情噺であったとしても、観客がふっと我を忘れて入り込む仕掛けはあるわけで、そこに凹凸がないと聴いているほうも今ひとつのっていけない・・・。まあ、大きな会場ですからそのあたりの機微の出し方も難しい部分があるのでしょうけれど、もっと自分の感情を芸に乗せて羽目をはずしてもよいのではないかとう気がしました。少なくとも故三平師匠のお弟子さんでもあったのですから。

トリは桂三枝、「宿題」。さすが上方落語の重鎮と呼ばれるだけあって、高座に貫禄があります。どっしりと抑えた感じで秋の園遊会に招かれたことネタにして・・・。ちょっと下々のもんと違うぞというプライドがいやみの域に入らないぎりぎりのところに垣間見えてこれがなかなかきわどく面白い・・・。尊きところとの会話をねたにして自分をぐっと低くして落差を作る。思わず爆笑してしまうとあとは三枝師匠の手のひらという感じ。

噺に入ってもプライドと現実の落差の部分を積み上げることで三枝師匠は笑いをどんどん積み上げて生きます。父であり上司であるはずの主人公が小学校6年生の算数ができないとはいえない。問題をくさすところなど、プライドを守ろうとする父親のあがきがどんどん膨らんでいく感じで笑いが波状攻撃でやってくる。これでもかというくらい「あがきねた」が積みあがっていき、そのたびに笑いが膨らむ感じ。京都大学卒の部下に鶴亀算を教えてもらうくだりも秀逸で、そのあがきのおろかしさからさらに笑いがやってくる。塾に父親の資質がためされていたというオチには後口のよい苦味も含まれていて・・。小さな会場で同じことをやったらちょっと鼻につく部分もあるのでしょうが、そこは場をしっかりと把握していらっしゃる三枝師匠、大きな会場にはまさに栄えるグルーブ感いっぱいの見事な高座でした。

落語という芸は、ある意味積み重ねの芸なのかもしれません。噺を語る中で、笑いや感動の要素をどれだけ重ねて深くしていくが、芸の値打ちを決めていくような・・・。

そういう意味では重なりをたくさん感じた落語会だったようなきがします。ほんま、大きな会場で割れんばかりの笑い声がてんこ盛り。よい会でした。

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帯金の底力&帯金を生かす底力(北京蝶々 コントローラー)

11月18日のソワレで北京蝶々の「コントローラー」を観て来ました。寒い日でねぇ・・・。体の芯が凍えるような木枯らし一番が吹いて・・・。

大隈講堂裏のテントに入るまでの待ち時間が結構つらかったです。でも芝居を観てそんな苦労など吹き飛んでしまいました。作・演出・美術の大塩哲史おそるべしです。

(ここからネタバレします。公演中の作品でもありますので、この先の内容には十分ご留意ください)

舞台上には二つの空間が準備され、違う時間が流れていきますが、物語の構造自体はそれほど複雑なものではありません。パソコンをゲートウェイに現代の生活から過去が浮かび上がり、一方で過去から逆に現在が浮かび上がってくるという物語の構造。

その中で2組のカップルが現れ、未来を予測するためにコンピューターに入力する過去の姿としてカップルの女性の関係が浮かび上がってきます。

この芝居を観ていて感嘆したのは、パソコンをはさんだ裏表の世界で一人の人物を演じる二人の役者に強い一体感があること。時間を隔てて同じ性格を演じる違和感がまったく感じられないのです。だからといって窮屈な芝居をしているわけではない。それぞれの世界にしっかりと溶け込む演技でありながら根のつながりを強く感じる。松崎美由希の演じる学生時代のすがたがそのまましっかりと帯金ゆかりに引継がれ、白井妙尾が演じる女性の性格を鈴木麻美が受け継いでいる。森田祐吏と赤津光生の関係でも受け継ぎがしっかり出来ている。このラインが精緻に作られているから、観客は因果の糸が織り上げていく物語に身をゆだねることができる・・・。

まるでカードを一枚ずつ開いていくように過去の出来事が展開していって、それに合わせて現在の物語が動いていきます。そのカードの切り方がとてもソリッドで、なおかつどこかに企みがあって観客をひきつけていくのです。

過去の自分たちがもつそれぞれの闇が自分たちを支配していること、二人の登場人物の関係、それを取り巻く男性、満たされないものへの対応・・・・。

「コントローラー」というタイトルのニュアンスがまるで溶け出した染料のように物語からにじみでるころには、観客も舞台に操られ、登場人物の意識で物語の内側にある感情に浸りきって、二人の女性の交わりの先を渇望するようになっていく・・・・。

表面的にはどこか平坦とも思える芝居のトーンとは裏腹に瞠目するほど精緻なたくらみが内包された作品でした。均一な緊張感をもった舞台上で描かれる愛憎にはこの空間でなければ表現し得ないものが存在していました。

役者のこと、今回の帯金ゆかりはまさに持てる力を見せ付けたという印象です。強い言葉もそれほど多くない、派手な動きもない・・・。しかし彼女が背負っていくもの、次第に鉛色に変わっていくような心の動き、投げやりな気持ち、それを小さな動作やありふれた台詞の中でくっきりと観客の中に焼き付けていきます。パソコンを打つときの小さな肩の動き、同居人にお金を渡すときの財布をまさぐる仕草・・・、どうでもよかったという投げやりな言葉を話すときの表情、目線の位置、その声に含まれたかすかな苛立ち・・・。一つ一つの仕草が、丹念に編まれていくレースのように彼女自身を観客の心に築き上げていく・・・。不思議な透明感をもった歪みのない演技、観客はまるで脳髄に彼女の脳に直結するコードを繋がれたよう・・・。ダイレクトに彼女の心の色が伝わってくるのです。

しかも、帯金の演技だけを浮かび上がらせるのではなく、しっかりと物語の正しい位置に留め置くだけの技量が共演者たちにもあって、帯金の演技をさらにソリッドに研ぎあげられていました。鈴木麻美は堅実な演技のなかで、自らの欲望が現れるときの熱のようなものを見事に表現して見せました。ほんのちょっとグルーブ感がかかったような彼女の高揚、その力加減が絶妙で・・・。帯金の演技とぶつかることなく、逆にしっかり包み込むような・・・。彼女の演技の熟度を感じたことでした。

帯金や鈴木の学生時代を演じる女優陣の演技も非常によかったです。松崎美由希の演技には強い実存感がありました。しっかりと帯金とシンクロしてある種の精神的な怠惰さを鮮やかに演じて見せました。なおかつどこかに華があって追い詰められていく帯金とのあいだの落差を作ることができる・・・。帯金が次第に失っていったものが松崎の演技で見事に浮かびあがりました。白井妙美の演技は実直で、でも一方で鈴木が積み上げていくほの暗い感情の芽を観客に提示していくしたたかがありました。彼女は心を「垣間見させる」ような演技がとてもナチュラルにできる女優なのだと思います。その力は、鈴木が「自らが持つもつ他者支配の願望に対する無意識さ」のようなものを観客に提示する際に大きな支えとなっていました。

赤津光生の演技には持久力がありました。オーケストラでいうとコントラバスのように淡々と物語の底辺を固めていく芝居が、非常にステディにできていて・・・、その低く内側に強さのある演技が、物語の終盤、舞台上の熱への昇華していきました。赤津の学生時代を演じた森田祐吏にはあいまいな夢を内包した姿を安定して表現できる力があって赤津の演技にさらなる奥行きを与える力になっていたと思います。

田淵彰展垣内勇輝岡安慶子もしっかりと自分の仕事をしていたと思います。演技しっかりと芯があり、ぶれがないので、舞台全体が持つ均一な緊張感に溶け込み、芝居のフレームを支えるだけではなく、ここ一番の陰影作りに大きく貢献していたと思います。

しかし、今回の芝居、やっぱり帯金ゆかりが背負っていたのでしょうね・・・。松崎美由紀希のまっすぐなパス、鈴木麻美の重さのあるパス、さらには赤津光生の柔らかなパスをたくみに受けて自分の世界を広げていく・・・。想いをすっと入れる時の切れやはじけるような感情の表現力はこれまでの彼女の舞台で十分承知していたのですが、今回の彼女には舞台全体を染めるような観客に対する求心力がありました。舞台の重力を自由に調節できるような・・・。

12月に「コントローラー2P」という今回のスピンオフのような公演があるそうです。こちらもかなり楽しみです。

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空間ゼリー感謝祭は福袋のように・・・

11月17日、渋谷某所で開催された「空間ゼリー5周年感謝祭」を観てまいりました。

内容の詳細については半シークレットという場の雰囲気もありましたのでネタバレしませんが、非常に興味深い内容が詰まったイベントでした。演劇を観る側にとっては劇場外で為す側の姿を垣間見る、日頃あまりない体験がいっぱい。

ちょっぴりルーズな進行も楽しくて、坪田文さんに加えて総合司会の佐藤けいこさんや少しお酒の入った細田喜加さんといったところが要所をちゃんと締めていたので、だらだら感はまったくなく、観るものにはボリューム感がいっぱい。それぞれのコーナー司会の方々がしっかり場を仕切っているように感じたのは、あたりまえなのだけれど、発声がみんなしっかり出来ているからなのでしょうね・・・。佐藤さんの声など、聞いていてほれぼれしてしまいました。後半の細田さんなんてパーティらしく勢いもついていて、場の仕切りがとても流暢・・・・。見ていて気持ちがよかったです。冬月ちきさんの生真面目な感じにも好感が持てました

前半にはダンスパフォーマンスがあったり(performed by河野真衣・岡田あがさ嬢、柔らかさというかしなやかさをしっかりと持ったダンスでした。これに訴えるべき強い意図を加えたら、そのまま表現の武器へと昇華しそう・・・)、歌があったり(これがめっけもので、斉藤ナツ子嬢が歌にどっぷりと入り込んで彼女の世界を作り上げていました。流石女優のお仕事、観客まとめてすっと彼女の色にとりこまれてしまいました)ほんと、お世辞抜きに観ていて楽しかったです。

また、役者の方々とも少しずつお話しさせていただく機会をいただいたのですが、皆さん舞台で拝見するより華奢な感じで、しかも例外なく素も美しい方ぞろいで・・・・。でも、一方で、お話しをしたり「質問コーナー」などでの彼女たちを拝見しているなかで、彼女たちの演劇への「」のようなものを強く感じることが出来ました。空間ゼリーで「演じて」いくことに対する真摯さが彼女たちからしっかりと伝わってくるのです。単なる仲良しサークルではありえないベースの部分の強さというか・・・。しっかりプロしているというか・・・。端々に良い劇団の芝居を観にいくと必ず感じる役者たちの演じることへの「」の匂いがびしっと濃密にあって・・・。たとえば2年後の彼女たちって間違いなく今をさらに凌駕する恐るべき女優の集りに進化しているのだろうなと強く感じたことでした。

主宰であり作家の坪田さんとウニタモミイチさんのトークショーも非常に興味深かったです。坪田さんの作品が天から降ってきたように思いついたわけではなく、彼女の中で長い時間しっかりと熟成されたものだったこと、さらには彼女の演劇の原点になっているいくつかのエピソードなどを聴いて、私が観た彼女の作品の深さがフロックでなかったことをいまさならがらに感じたことでした。

あと、トークショーの内容から派生して思ったこと・・・。坪田さん、これから、一段とパワーが要求されるステージに入ってくのでしょうね。熟成と才気から生まれる作品たちは今後、劇団やいろんな媒体を介して間違いなく観客を魅了していくのでしょうけれど、そのことで彼女の資質が痩せることがあってはならないのだろうし・・・。とすれば、この先彼女は、何かを物語るのと同じ手と口で何かを求めたり摂取し続けなければならないのだと思います。具体的に説明するのは難しいのですが、たとえば、鴻上尚史氏の戯曲にある「才能とは夢を見続ける力のこと」という台詞がニュアンス的に近いかも。

彼女の物語を編み出す才能は、すでに余りあるほど機能をしているわけですから、その才能が思う存分になにかを生み出すために、どれだけ貪欲に栄養のあるものを掴んで、食べて、自らの資質に出来るだけたくさんの肉をつけていくかが彼女にとって長期的な見地からの勝負どころなのだろうなと・・・。その食べっぷりというか摂取の質と量が、今後の坪田さんの仕事のボリュームやクオリティを決める上で大きな要素になるのだろうなと感じました。

まあ、彼女の言葉を聴いていると、自らの資質をふくらませることを坪田さんは楽しみこそすれ苦痛には感じていないようなので、観客としては変わることなく彼女から供される料理に舌鼓を打ち続けることができる安心感を感じてはいるのですが・・・。

最後に一旦(?)演劇活動を休止する下山夏子さんのメモリアル映像の公開と彼女の今後についての紹介があって・・・。、私が観た彼女の舞台(2本)どちらとも、きっと彼女にしか演じられないなにかが舞台をしっかり支えていたので、観客的には超もったいない感じがするのですけれどね・・・。、でも、もしある日彼女が演ずることに戻ってくるのなら、その時には普通の役者さんが決して得ることのできない時間を彼女は手にしていることになるはずで・・・。彼女の挨拶を伺っていると彼女は「志」を内にしまったのであってなくしたわけではないようだし・・・。彼女にはある意味申し訳ないのですが、観客にはいつかその志を縛っている鎖が解ける時が楽しみだったり・・・。

帰りがけに岡田あがささんの12月10日の一人芝居「ワタシガタリのチケットを購入。彼女の一人芝居という企画にはとても興味を惹かれました。きっと個々の才能がきちんと現出する環境がこの劇団にはあるのでしょうね・・・。会社の帰りに王子に寄って・・・。師走の楽しみがひとつ増えました。

最初、階段を5階まで上がったときには新手のいじめかとも思いましたが(考えてみるとこの数年、3階分以上の階段をあがったことがなかったような・・・)、帰りはとても満たされた気持ちで同じ階段を下りていたことでした・・・。

とても幸せな土曜日でしたよ。

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まるで水彩画のような美しさ、マシンガン・デニーロ 美しきファーム

渋谷、ルデコというのは、いつごろからあったのでしょうか・・・。私が最初にたずねたのは夏のアロッタファジャイナ番外編が最初でしたが、密閉されたというか、タイトな印象のお芝居をつくるのにはとてもよい環境だと感じました。

作り手の創意工夫がダイレクトに生きる空間だと思います。

11月8日にそのルデコでマシンガンデニーロ番外公演「美しきファーム」を観ました。

マシンガンデニーロが場所をそこに選んだのもとてもよいセンスだと感じました。

(ここから先にはネタバレが存在します。公演自体は終了していますが、ご留意の上お読みください)

物語は廃校が決まった小学校、そこに3人の男女が現れます。頭に三角の布をつけていることを考えるとどうも死んでいるらしい・・・。昔小学校に埋めたタイムカプセルを掘り出しにいこうとして、運転を誤って田舎道のがけから転落して、死んだらしい。最初女性は自分が死んだことに気がつかないのですが・・・。

物語が進むうちに、3人が同級生であったこと、男がどうしてもタイムカプセルを掘り出したい事情、子供のころの3人の関係などがすこしずつ観客に露になっていきます。スーパーボールのエピソード、それぞれの境遇、そして必ずしも幸せとはいえない今・・・。

空間の使い方がとてもうまく、なおかつ彼らの演技に潜む一種の朴訥さのようなものが、森にかこまれたような周りの雰囲気をほのかに伝えていきます。手作り感の残る舞台は、工事現場でありながら一方で彼らの生活をも投影しているよう。

松崎映子は、まっすぐな演技のなかに生活観をしっかりと出すことに成功していました。彼女が過去を露出する演技というのは、ゆっくりと切れ目からなにかがまだらにあふれ出すような感じ、均一な表現でない分観客がひと膝前に出てしまいます。、それが狭い空間をゆっくりと拡散していく。すこし乾いた台詞使いだからこそ、彼女の中に潜むウェットな部分が現れてくる。これまでの公演で観た彼女の演技には何かを作り上げようという意思が観客をひきつけているところがありましたが、今回の演技には緊張はあっても気負いがなありません。観ているほうでも力いっぱいの剛速球を投げ込まれるのではなく、まるで肺が彼女から漂ってくる想いの微粒子に肺が満たされるような感覚がありました。静かなのにVivid・・・。彼女の演技にこれまでに経験したことのない不思議な魅力を感じたことでした。

菊池豪の演技は堅実で自らの思いやあせりを無理なく観客に伝えていたとおもいます。雰囲気とは異なり微妙なためらいやちょっとしたあせりのようなものを表すとき、実に感情の出し入れが上手で、松崎の演技とも不可思議にマッチしていて・・・。あと、なんというかこの人は、見えないものを見えないように演技する技術に長けていて、(物理的な部分ではなくメンタルな部分。たとえば自分の性格とか、虚言に隠れた気持ちとか・・・)それが物語の起伏をしっかりつけていました。

作・演出も兼ねる間拓哉には、どこか力の弱さを感じましたが、これが終盤にしっかりといきました。松崎や菊池と違う立場にいることを隠すための腐心の演技は弱くても決して陳腐ではなく、やわらかくても張りがある・・・。演じている人物のなかにしっかりとコアが存在するのです。終盤、全てが明らかになって朝日がやってくるまでの時間との戦いになったとき前半の彼の演技が見事に説得力を持ちます。まあ、演出だからということもあるのかもしれませんが、大局的に舞台を見据えた演技は物語全体をしっかりと支えていました。

観終わって・・・、最初に浮かんだのは水彩画をみているようだということ・・・。物語の全容は悲劇にちかいもので、そこには生と死の狭間がしっかりあって・・・。その喪失感にちかい表現の美しさには思わず息を呑むほど・・・。でも、その悲劇に心を動かされるということではなく、より深い感動が悲劇の外側から観客を包み込むのです。芝居全体の印象として陰影が薄く遠い背景は淡くぼけているように感じるのですが、そのなかに懐かしさを感じるような何かが醸成されていて心を捉えるのです。子役の朗読の効果もあったかもしれません。、スーパーボールのはじける勢いがひっぱってきた童心に心を動かされた部分もあるでしょう。しかし、一番大きいのはそれらを鳥瞰する場所を丁寧に築き上げた役者たちの表現力、そしてその世界を見晴らせる場所を見つけた作者のセンスだと思います。観客はその場所に立ってスーパーボールの乱舞をみたからこそ、ふっと時間を飛び越えて小学生のころの感覚に身をおくことが出来た。昼休み、あるいは放課後の時間が長く思えたあのころ・・・。楽しいことばかりではなかったけれど、でもそれなりに未来を見つめていたことまでが心によみがえってきて・・・。工事現場のようば舞台がまるでタイムマシンのキャビンのように思えて・・・・。そして、舞台上の人物と同じように今に立ち返る・・・。

マシンガンデニーロ、本公演などに見せるグルーブ感とはちがった繊細な筆遣いで観客をひと時別の世界に運んでくれました。

数十人の前で演じられた3人芝居。佳品であり本公演にはないメンバーのセンスが生きた作品だと思います。心の底に沈んでも、あるときふっと思いだすような・・・。このような公演もひとつの路線として定着させていただければ・・・・。芝居好きとしては贅沢な楽しみがまたひとつ増えるというものです。

R-Club

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恐れをしらぬ川上音二郎一座は「一座」がメイン!!

11月8日に「恐れを知らぬ川上音二郎一座」プレビューを見てきました。

まさか、一発でかかるとは思っていなかったのです。インターネットでみつけたシアタークリエの当日券情報・・・・。丁度10時だからとたまたまかけて見たら一発でPiaに繋がってしまいました。あれだけ苦労して、応募総数5回、優先、一般前売り全部NGを喰らって・・・、日比谷界隈を通るたびになんとなく心が痛んだチケットなのに、取れるときには取れるものなのですね・・・。翌日(11月8日分)の当日券整理番号がわずか数分で手に入りました。

まあ、当日券ですから制約はあります。開演30分前までに劇場窓口にいかなければいけないしね。いくら会社から歩いて15分の劇場といっても、ちょっとつらかったりはします。枚数制限が1枚だから、自分がとれても知り合いといけるわけでもなし。でも、まさに、そんなの関係ねぇです。

当日(8日)整理番号5番にわくわくしながら、たそがれの銀座の街をあるきました。補助席でもいい。ボックス席大歓迎・・・。で、買えたのが、なんと6列目のセンター。窓口で思わず「えっ」っと声がでてしまうと、係りの女性が「今ご用意できる中で一番良い席ですから・・・」とのご説明・・・。いやいやかなりびっくりはしましたが不満などあるはずもなく、お金を払いながら買っているほうが御礼をいっているという奇妙な光景になってしまいました。

(ここからは相当にネタバレありです。最低限の配慮しかしていませんので、これからごらんになる方はその旨をご理解のうえ読みすすんで頂きますよう御願い申し上げます。)

物語はボストンでの川上音二郎一座「ヴェニスの商人」上演の顛末です(本当にあった話だそうです)。最初にプロローグというか堺正章を弁士に仕立てた軽妙な主人公の生い立ちから一座のボストン公演までの顛末が描かれます。このあたりは堺正章の個人芸に頼ってみたいな部分がかなりあるのですが、同時にちょっとした役者たちの顔見世にもなっている。客席の雰囲気が一気にほぐれて物語に取り込まれていきます。

本編の物語、導入部分はそんなに明るい雰囲気の話ではないのです。劇団がうまくいかず川上音二郎の唯我独尊的な態度も手伝って、役者たちの大部分が離反してしまいせっかく決まったボストン公演の見通しが立たない。三谷幸喜はそのなかで、最小限の笑いをはさみながら見通しの立たないことに起因する緊張感とプチ絶望感で観客を引っ張っていきます。伏線をなにげに埋め込みながら、ゆっくりと丁寧に物語を構築していく感じ。ユースケサンタマリアと常盤貴子が演じる主人公夫婦のキャラクターも本人たちだけに演じさせるわけではなく、芸達者たちがしっかりと主人公を浮かび上がらせる感じで物語の基礎部分を描いていきます。ここで観客の気持ちを離さないのが三谷のすごいところ、ものすごく奇をてらったことをしているわけではないのですが、展開されるエピソードの露出具合や出来事の提示方法が絶妙で観客をゆっくりと舞台に引き込んでいく。後半まで繋がる伏線を敷きながら、一方で前半に完結する起承転結も用意して次第に客を高揚させていくその巧みさ。

川上音二郎・貞の二人を最前面に出して物語を引っ張らないことで物語にどんどん幅ができていきます。。ふたりはまぎれもない主人公っぽく存在はするのですが、状況に戸惑い揺れてどちらかというと伏し目がち。一方で公演について二人を守り立てていく周りのキャラクター設定が実にビビッドで力があって見事なのです。タイトルの最後に「一座」が付いているのは決しておまけではありません。

序盤から中盤にかけて創意と役者たちのがんばりで物語の基礎を作ったことで後の物語の広がりが観客にとってこのうえもなく豊潤なものに思えてきます。メインディッシュに食欲を導く三谷の知略が次第に姿を現し始めます。「公演がうてるのか?」、状況はさらに悪くなって、一方で物語の揺り戻しもなんどもやってきて・・・。波の満ち干についての堀内敬子さんの台詞が、そのままこの芝居のコンセプトをあらわしているのではとおもえるほど・・・。笑いも織り込まれていますが、単なるコメディではない。笑いだけに時間が消費されるのではなく、公演をうてるかどうかのわくわく感に観客は時間の感覚をなくしていきます。前半だけでかなり満たされた感じ・・・、でも後半への食欲を失う満たされ方ではない・・・。むしろもっと食べたいとの渇望が生まれるような満たされ方・・・。三谷一流の得意顔が目に見えるようです。ここまで2時間弱・・・。

20分の休憩を挟んでの第二幕、一幕で観客が舞台とともに歩んだ公演への生みの苦しみは期待をはるかに超える大きな果実となって舞台に花開きます。ボストン公演の劇中劇ということで観客の何人かに金髪のヅラをかぶらせようとするのもご愛嬌、プレビューなので今後も続ける企画なのかはわかりませんが、でもうまい工夫で場内が一気にボストンの劇場に同化していく感じがします。

劇中劇は至芸の宝箱、役者の資質がのびのびと全開になります。一幕で仕込まれたものが一気に花開くのです。たくさんの因果が結ばれるのを観るだけでもちょっとした感動。元芸術座の劇場ということを配慮したのか、考え落ちや時事落ちなどはなく、万人にわかりやすい笑いで、しかも陳腐でない生きた笑い。劇中劇の内容についてはあまりのネタバレになりますので書きませんが、これがやりたくてこれだけの役者が集められたのかと、根拠のない納得をしてしまうほど

ここまで満たされているからこそ、観客はラストに至るシーンを、奇異やご都合主義、ましてやありがちな教条的な匂いをまったく感じることなく受け入れられます。一幕も二幕も舞台の盆自体の存在が見事に使い込まれて、初めて主役のふたりがまさに主役を演じる・・・・。三谷幸喜の持つ粋とちょっぴりシャイな部分を感じるエンディング。

午後10時に近いという時間を配慮してのことかカーテンコールはちょっと物足りなかったけれども、気がつけば満たされつくした3時間20分出の終幕でした。すごく心地よい疲れのなかでゆっくりと帰り支度。この劇場、通路などが狭くてさすが都内一等地という感じなのですが、劇場からはけるのに時間がかかっても、あんまり気にならないほど満たされていました。

役者のこと、プレビューにもかかわらず出色の出来続出のなかで、一番印象に残ったのは堀内敬子でしょうか・・・。「コンフィダント」で見せた彼女の力がフロックでないことを「ヒットパレード」に続いて証明して見せました。感情表現にものすごい伸びやかさがあり、舞台を一気にさらうだけの瞬発力があるのに、愛らしさを失わない・・・。おかしな表現なのですが洗練を感じさせない洗練が彼女からつわたってくるのです。グルーブ感さえあった終盤の演技は圧巻でした。50%ぐらいしか理解できない彼女の津軽弁に120%はひきつけられました。でも、彼女はただエンジン全開になっていたわけではない・・・。必要に応じてユースケサンタマリアや戸田恵子、さらには常盤貴子に観客の視線を導くように、きちんと瞬きレベルの絶妙の間を作り仕草を加えるのです。それも自分の演技の勢いを削がないように・・・。舞台全体をコントロールできるだけの力、主役として舞台に居続けることの出来る力を持ちながら、一方でバイプレイヤーとしての繊細さをしっかりと持ち合わせている・・・・。「コンフィダント」のときの彼女もそれは見事なものでしたが、今回はそれ以上に彼女の魅力に惹かれてしまいました。

女優陣でいうならば、瀬戸カトリーヌにも場面を突き抜けることができるだけの力がありました。感情の振幅を大きく表現できる役者なのだと思います。彼女の演技にはある種の破壊力があります。だから、舞台全体の雰囲気が一気に上がるときに彼女の力はとても貴重なものでした。また、ふっと感情を落とすときにも大きく落とすことが出来る・・・。落ち込んだような彼女が舞台の端に座っているだけで、舞台のトーンにきちんと影を作ることができるのです。いっぱいまでパワーを出したときにはちょっと演技の荒さがでてしまう部分もありますが、でも舞台の力感をしっかりと作った一人だと思います。

戸田恵子、しっとりとねばりのある演技で1幕を地道にしっかりと背負ってみせました。この人がなにかを演ずるだけで場に滑らかさのようなものが生まれます。すっと現れる表情や仕草、さらに台詞回しが、舞台にこの上ない安定感を醸成していきます。物語のなか、特に一幕ではハレの部分があまりなく地をしっかりつくるような役回り、しかし一幕から彼女の存在感がこれだけ大きいのは舞台の他の役者たちが彼女の地の上で芝居をしているから・・・。彼女が舞台にいることによって他の役者のよさまでがずいぶんと引き出され、一幕がしっかりとしたものになったように感じました。

一方、そのご褒美というわけではないのでしょうが、二幕の彼女はここまでやるかと思うくらいコメディエンヌの力量を発揮します。あの表情はずるいでしょとすら思うのですが、それは観客にとって単に奇をてらった笑いではなく、1幕のステディな芝居の果実としてのおかしさでもありました。だから導かれる笑いにあざとさがないのです。逆に極度の緊張についての表現としてはこれ以上のものはないと思えるほど・・・。ぽっと演じるのではなく、そこに十分な仕込みと円熟が加わったからこそ成り立つ、だれも彼女の代わりにはなれないほどのインパクトがある演技でした。

男優のなかでは、堺正章が大活躍・・・。さすがに他の役者と比べて張りに欠ける部分は多々あるのですが、その分を演技の質と出番・手数の多さでしっかりとカバー。芸があるというのは本当に強く、冒頭の講釈風から二幕のお座敷芸のようなものまで・・味わい深いのなんの・・・。舞台の品格を上げたともいえます。また、彼は待つというか受ける演技がとてもきれいで、せりふを待つ間にもしっかりと感情の動きが観客に伝わってくる・・・。このあたりが芸の年輪というやつなのかもしれませんが、それは見事なものでした。

堺雅人もよい仕事をしています。ユースケ・サンタマリアや常盤貴子と絡むとき、すべてをしっかりと受けた上で切れの良い演技で応えていきます。なによりも知的な話の膨らませ方、端正な台詞使い。川上夫妻の演技を引き立てながらもきちんと自分のキャラクターを舞台上に浮かび上がらせていきます。骨太な繊細というか、たとえばシェークスピアへのこだわりについても役柄が持つ色がしっかり表現されていて・・・。一見神経質そうに見えるその演技に内包された鋼のような強さに惚れ惚れしてしまいました。

今井朋彦も強い演技が出来る役者です。川上音二郎に楯つこうという役柄ですから、骨がある演技がなければいけません。彼はちょっと意固地でありながら、十分な力を持ち合わせているプロの役者を多面的に演じてその演技のくっきりしていること。複数の視点から役をきちんと把握している感じが安定感につながり、なおかつ二幕の劇中劇で演じる姿には、役柄上必要な役者の艶のようなものを十二分に発揮して見せました。

旧東京サンシャインボーイズの3人は本当に水を得た魚のよう・・・。小原雅人の詐欺師弁護士はしっかりと性根のほの暗さが浮かんでいて、それゆえ終盤の常盤貴子との数分間が見事な名場面になりました。出番的には比較的短いのですけれどね・・・。そのなかで知的な部分から悪人の顔、さらには遊び人的な芸達者さまでしっかりと演じ切って・・・。三谷幸喜も芝居を支えるここ一番のボルトのような部分にはこういう役者を配して万全を期したのだと思います。

阿南健二の動きには特別の切れがありました。明治時代の職人気質のようなものが動作で表現できる・・・。そこに気風のよいせりふが付いてくる感じ・・。ある意味、堺正章とか阿南の演技って明治という時代を表現しても居るのだと思います。人の態度から時代を浮かび上がらせる・・・。台本もよいがそれをやってのける役者もうまい・・・。良い芝居っていうのはこういう「場」の色を作る演技の積み重ねでできていることがよくわかりました。

小村寿太郎を演じた小林隆も威厳と情けなさを矛盾なく演じて大好演・・・。彼の登場は物語のトーンをぐっと変えるのですが、力みがない彼の演技には包容力のようなものもあって舞台の尖り方をやわらかく丸めてくれるような感じがしました。伏線ということでもないし、うまく言えないのですが、彼が作った一種のトーンのようなものが、最後のユースケサンタマリアの芝居に自然な光を加えたような気がします。

さてさて、話は変わって、女形役者を演じた浅野和之の演技、ステディさと、その弱さを強く出す力加減の見事さに瞠目しました。ずっと続く口癖が本当に舞台になじむのです。すっと舞台の雰囲気に溶け込んで自分の物語をしっかり流す・・・。芸へのこだわりがしみじみと客席に伝わってきて・・・。最後のシーンの説得力は彼がずっと演技しつづけてきたことの果実であり、多少奇異ではあっても観客にしっかりと響いたシーンでありました。

新納慎也YEBISU亭のゲストとしてトークショーを観たときの印象とは大きくことなり、実直な演技のできる役者、彼が登場すると舞台上にあったそれまでの個人技的な寄り道演技に費やされていた時間の流れが芝居本来のペースに戻るほど・・・。スマートさのなかに実直さをきちんと表現できるのです。その実直さは2幕目に現出する堀内敬子の演技の大きな支えとなっていきます。美形男優でこれだけ演技ができるのは大きい。すでにミュージカル系で高い人気を誇っていると聞きましたが今後はさまざまな分野で大化けするかもしれません。

さて、最後に、主役となるユースケ・サンタマリア常盤貴子についてです・・・。まだ、プレビューということもあってか、彼らの演技には功罪両方を感じました。

ユースケ・サンタマリアは天性の軽妙さと妙にストイックな部分の出し入れがとてもスムーズに出来る役者で、今回の演技でもその器用さは十分に生かされていたと思います。ゆれる演技と、ある種の決意の表現、そしていいかげんさ、色がころころ変わりながらも大切なものをしっかりと見つめている姿。ただ彼自身がどこに強さを持って演技をし、どこを大きく引くのか迷っている感じがする・・・。なんというのか演技に、役者の微妙なためらいや入り込めなさがふっと現れる・・・。たぶんステージを重ねていくうちにそのあたりは解消されていくのでしょうけれど、8日に見た段階では何度かそういう部分を感じることがありました。あと、演技にちょっとざらつきがあるのも気になりましたが、これも修正されていくのだとおもいます。

常盤貴子にも迷いというか、心が切れるような部分が何度かありました。ツボに入ったシーンでの彼女の台詞には染み入るような感情が感じられるのですが、心がしっかりとかかっていないような台詞もある・・・。感情の持ち方が多少不安定な部分もあったように思います。感情の輝きにはすっと穴に落とし込むように観客を獲り込んでしまうような力があるのですが、それだけにふっと思いが切れたり台詞が感情を置いてきぼりにしてしまう部分は観客をすこし不安にさせます。でも、彼女は良い役者なのだとおもいます。観客にすっと伝わる想いいの浸透圧の強さ・・・・。その片鱗は今回の芝居にもたくさんありました。持っている資質が垣間見えるたびにこの人只者ではないと思います。もしかしたら、彼女自身も自らがもつ力を意識して、それを何とか舞台と折り合いをつけるように試行錯誤しているのかもしれない・・・。そんな感じもしました。

まあ、ユースケ・サンタマリアにしても常盤貴子にしても、まだプレビューの段階でしたから・・・。これからいろいろと化けていくのでしょうね。もっとも彼らがさらに進化しても、この芝居のトーンは変わらないような気もしますが・・・。

そもそも、ちょっと主張が薄いようにも思える彼らの演技って、三谷幸喜の思惑どおりだったのではないでしょうか・・・。最後のシーン、あの淡いトーンのなかで二人の未来がゆっくり開けていく感じ・・・、あれは、それまでの彼らの舞台上での演技が主演だメインだとしゃばったものだったら多少鼻についたような気がします。あの透明感を出すのに三谷幸喜はきっと細心の注意をはらっていたに違いありません。だとすれば、彼らの演技の強さ(弱さ)やトーンを三谷はキープさせるはず。トーンをそのままに回を重ねて彼らの演技にもうすこしスムーズさが醸成されていけば、さらに作品の魅力はアップするわけで・・・。まあ、贅沢な役者の使い方ではありますが・・・。

それにつけても、今年上演された三谷作品は、過去の作品と比べてもさらに一皮むけた部分が多かったような気がします。春の「コンフィダント」も濃厚で緻密な名品でしたが、今回の作品は「コンフィダント」に比べて濃厚さが少し減じられたものの、物語の尺やエンターティメント性が高くなってなおかつ緻密さが加わったような・・・。質的に圧倒されたのは「コンフィダント」の方でしたが、観客を楽しませきるという観点からみると今回の方が上かも・・・。どちらも、笑って良く出来ていると感心して終わりになるコメディではなく、以前にもまして、きちんとなにかで心が満たされる作品に仕上がっていました。

それは、「コンフィダント」でもこの芝居でも、物語の仕組みのなかで張られた伏線だけでなく、ト書きや行間で語られるような雰囲気や、役者の演技から現れるニュアンスのつながりのような部分が非常に緻密に作られているからかもしれません。観客にとってはいったん入ると抜けられないような舞台との一体感があるのです。たとえば新納と堀内の物語など、その典型的なもの・・・。単に台本上に書かれたであろう「想いが通い合った」ということだけではない、第7官界を刺激するような説得力というか、役者の見えない部分での演技の連携が作り出す淡い香りのようなものがしっかりと舞台から感じられるのです。

いずれにせよ、この一年の三谷作劇・演出がこれまでと比べてまた一段と腕を上げていることに間違いはなく、まさに今回は1枚の当日券のために電話にしがみついても観るべき傑作でありました。今回電話がつながってこの公演を見ることができたこと・・・、天からの恵みとも思えるほどラッキーだったと思います。

でもね・・・、芝居好きというのは貪欲なものなのですよ・・・・。この作品、もう一度みたい!木戸銭は高いけれどもうお金じゃない・・・。

私にとって、偶然なのかもしれませんが、たまたま堀内敬子さんご出演の作品3作は、すべて当日券が取れて、しかも良席だったので、そこを希望の糧にして12月になったら、もう一度電話にしがみついてみようと思います。この記事を書きながら、前半1ヶ月の公演がこの作品をどのように進化させていくのか、すごく興味がわいてきて・・・。

師走の忙しい時期に何をやっているのだろうとお叱りの向きもおありでしょうが・・・。たぶん我慢できないような気がします。

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ヤング軒のパフォーマンスにみたされて@新宿2丁目

久しぶりにちょっと夜遊びがてら・・・。ダンスパフォーマンスを観てきました。

新宿2丁目の路地を入ったところ・・・。ちょっと非現実にひたるには抜群のロケーション。そこで演じられた秀逸なパフォーマンスはいずれも観客の心を絡めとるような創意と力に満ちていました。3部構成で間に休憩が挟まるのですが、どんどん深みにはまっていく感じ・・・。そして、久しぶりになにかを越えた感覚を味わうことができました。

出演者は

じゅんじゅん[ヤング軒]・たかぎまゆ[ヤング軒]・すがぽん・べてぃこ・楠原竜也・陽茂弥・横山良平・須藤剛・長谷川寧

出演者ごとに印象を書かせていただくのが、一番心に残ったことを伝えやすいとおもうので・・・。順番は特に意識せずに、主催のふたり(ヤング軒)はトリに回して、それ以外のパフォーマー達についてはおもいつくままに・・・。

(ネタバレとは言わないかもしれませんが、ここからは具体的なパフォーマンスの内容がふくまれますので、ご承知おきのうえお読みください。表現を伝えられるほど優れた文章を書けるわけではないので大丈夫だとは思うのですが、一応念のため・・・)

べてぃこ

1・2Stageでそれぞれパフォーマンスがありました。

ひとつは「キャバレー」、衣装やメイク、さらには振り付けも映画が下敷きになっているように思えるのですが、力より切れが勝ったダンスにはライザミネリの世界とは違ったテイストがありました。スクリーンの退廃を2割減じて光を1割増した感じ・・・。結果として映画より強い躍動感が伝わってきたように思います。そもそも「キャバレー」の主人公、サリーのキャラクターってサム・メンデスとボブ・フォッシーの描き方もなにか違っていましたが、ぺてぃこサリーはボブ・フォッシーよりさらにナイーブで繊細な印象・・・。でも、そういう比較がすっと浮かんでくるのは、彼女のパフォーマンスのクオリティが他のサリーに決して負けていないから。舞台だけでなく客席の風景までもが彼女のパフォーマンスに取り込まれて素敵な空間を作り上げてくれました。

もうひとつは、「ぺてぃこ体操2007」。観客を巻き込んで指の体操をさせるところから入って場を和ませておいて、一瞬にプロの動きに入り込んで観客を突き放す・・・。彼女のパフォーマンスには飛びぬけた切れがあります。まるで追いかけてくる子供をあざわらう蝶のように、力を感じさせないほどしなやかなに観客を自分の懐に誘い込んでおいて、、ある一瞬に研ぎ澄まされた鋼のような切れ味で観客を支配していきます。一瞬でナチュラルな表情が消えて、彼女の世界に放り込まれるのですから、観客は身構えることもできない。彼女のもつ表現力を誇示するための工夫が見事に生きた作品だったと思います。ほんと、あの切れをみせられると観客は粟立ちぐっと引き寄せられます。すごく芸の立つ上方落語家が小拍子をびしっと鳴らして場面を一気にかえるような・・・・。小柄で華奢な躯体から一気にあふれ出すオーラに息を呑みました。

かぼちゃボーイズ

男性3名のユニット(陽茂弥・横山良平・須藤剛のお3人だと思います。)

なんというのだろう、かぼちゃ風(ハロウィンで中を削るようなやつ)の短パン・・・をはいて3Stage全てに登場します。あとからわかることなのですが、衣装にもちょっとした仕掛けがあって・・・。

2Stageの「シンデレラ」は特に秀逸。ディズニーの方が見たら腰を抜かすような表現ですが、そこには高いリアリティが存在するのです。なんというのか、大根が真っ白ではなく泥付きのままで売られているようなリアルさ・・・。馬・シンデレラ・かぼちゃの3点セットは強烈なデフォルメがほどこされているのに、その中に高貴な包み紙を解いた田舎娘のシンデレラの心情のようなものがしっかりと見えるのです。

彼らは空気を演じることに長けているのかもしれません。3人の緩慢さを表現した動きはどうしようもなくおかしかったりもするのですが、ではなにをおかしいと感じるかというと、たぶん彼らの存在する空間に漂う空気なのです。シンデレラにしてもそう・・・。時計の音とともに崩れていく世界が、ディズニー映画や絵本のように美しくあざやかな訳もなく・・・。そのなかであがくようなシンデレラ、見た瞬間には「なんじゅこりゃ」なのですが、見終わって時間がたっていくと、次第にそのシンデレラが心になじんでいく。それはシンデレラの存在する空間の空気を、彼らが見事に想像の海から掬い取って、したたかに演じて見せたからなのだろうと思います。

・すがぽん

ダンサーとしての力量はぺてぃこさん、まゆさんとともに冒頭に踊った「誘われてフラメンコ」にて証明済、そもそもこの演目がスーパーで特売されている素材に一流料理人が最高級のスパイスで味付けしたようなお味、寸評を加えるなら「いと怪しくいとおいし」・・・。最近深夜番組で流行の「おば芸」なんかも、万一彼らがやるとなるとすごく洗練されたパフォーマンスになってしまうのでしょうね・・・。

しかし強烈だったのは2・3ステージに登場する「西葛西ダンス教室」。

サラリーマンNEOのセクスィ部長を想起させるすがぽん氏の妖しさと、たかぎまゆさんの本物より本物らしい駅前の広告放送アナウンスのコラボレーションには参りました。ちょっとしょぼい駅前商店街を支配する下世話な感覚をプロの洗練された動きや発声でやるのはすごく卑怯(褒め言葉)です。普通に考えると乖離してしまうような「ダンス」という言葉と食べ物の匂いが漂うような通りの風景をあの独特の広告放送口調をマドラーにして混ぜ合わせ成り立たせてしまうのですが、その無茶から浮かび上がってくる、場末のダンス教室が持つリアルなうそっぽさがたまらない・・・。しばらく笑いを止められませんでしたが、同時に印象が強すぎてそのうち夢に出てくるような世界でもありました。

・長谷川 寧

映像とパフォーマンスの共存は、特に珍しいものではないと思うのですが、そのシンプルさにはふっと目をひかれました。機材の制約などもあって凝ったことはできないということもあったのでしょうけれど・・・。作り手側が意図したこととは違うのかもしれませんが、「映像技術の急速な進化は舞台空間のイメージを容易にひろげてしまうけれど、結局空間を作り上げ、ささえているのは映像ではなくパフォーマーなのだ」ということを暗に証明して見せているようにも思えました。悪い意味ではなく、ある種の生真面目さが彼の舞台にあって、その匂いが私にそんなことを想起させたのかもしれません。

・楠原 竜也

物語のアウトラインはすごくシンプルで、モンティパイソンにでも出てくるような掌編のイメージなのですが、見せ方に技があります。後半にある落ちというかサプライズへの道をなまものの観客を相手に見事に作り上げていく・・・。客のテーブルを占拠する仕草の美しさ、たった一つの光るボールに導かれた作り物の危ういゴージャスさ・・・、それは飾られたトラップのようにも思えます。前ふりでシェーカーを振る姿は、本当にカクテルを作る姿とちょっと違うなと思ったのですが、これが落ちの部分で生きてくる・・・。

あとから考えると、時間がすごくうまくコントロールされているのだと思います。小道具のひとつずつを観客に見せる長さ、不確定なお客に酒を飲ませる時間もリズムだけは崩さずに進めていく。女性をシェークする時間も絶妙で・・・。

この人はトータルの尺をきちんとみて、そのなかに物語をうまく詰め込んでいく。きわめて演劇的な構成力を備えたフォーマーなのだと感じました。

・ヤング軒

男女(じゅんじゅんたかぎまゆ)のユニットなのですが、ユニットとしてべったり合わさっての表現というわけではなく、舞台上の必要に応じてお互いのの表現を引き立てあうよう感じでした。

じゅんじゅんには1stageの最後にソロ的なパフォーマンスがありました。なんというか、物語を観客に積もらせていくような演技というか・・・。時間が進むにつれて少しずつ重さが観客にやってくるというか・・・。演者の意図とはちがうのかもしれませんが、なごみのようなものも少し感じたり・・・。なにか惹かれるのですが、一方でこの人の作品を真に受け入れるにはてもう少しゆったりとした時間が必要なのかも知れないと感じました

たかぎまゆさん、春に野毛山(急な坂スタジオ)でみた野外のパフォーマンスがいまでも強烈に心に残っています。しかし、今回のパフォーマンスを観て春のパフォーマンスが彼女の力量の氷山の上っ面であったことがよくわかりました。

1Stageの氷雨、彼女はマイクを渡され、伴奏を求め、ゆっくりとその場を歌謡ショーの雰囲気にもっていきます。歌が始まり取り出されたのは小さな傘。ポーズが決まり、小さな傘がさされると、魔法のように歌にこめられたニュアンスが見事に現出していく。ほんのすこしだけ守られて、でもそれが不幸せではない・・・・。彼女の歌はちょっぴりチープなテイストで、だけどデフォルメされた仕草と重なったとたんに息をのむような訴求力が生まれて・・・。気がつけば歌詞のフレーズが色を発し、大きく深く舞台上にひろがっているのです。

2Stageのパフォーマンスでも、彼女の表現は冴え渡ります。同じものをみた春にも同じようなことを書いたのですが、彼女の歌とポーズから伝わる、歌手を目指す女性の想い、その熱さや強さと、それらの想いをコントロールできない不器用さが言葉や理性をこえてダイレクトに観客の脳髄に伝わってくる感じ・・・。動悸のようなジャンプ、力を抜く事をしない四肢・・・。多少アレンジは違っても一応既知の演目なのに、春同様に視線を釘づけにされてしまいました。彼女のすごさ、表現されるものの豊かさが瞬殺で観客の心をみたしてしまうのです。どこかわざと薄っぺらにつくってあって、でも覗き込むと奥行きがものすごくある世界・・・。だれも作りえないであろう彼女の世界がするっと入ってきて心の中に居座ってしまいます。

しかし、たかぎまゆワールドはそれだけでは終わりませんでした。3Stageに入ると彼女の表現力は箍をはずしたように広がり牙をむきます。最初の「クワイエット」は圧巻でした。不協和音のなかでのやわらかい動きはたとえばムンクの描く世界をみるよう・・・・。その動きはまるで概念の束縛の鎖を解く姿にもみえるし、何かへの依存にも思える。また、解き放たれた彼女の世界へのゲートウェイにも思えます。高い芸術性に裏打ちされた表現がさらっと観客に提示される。

そして、観客の感性をたっぷりと暖めておいて、「アン カフェ」・・・。個人的な嗜好の問題なのかもしれませんが、私にとってはまさにツボ。これはやばいです。椅子に座った彼女の動き、指はおろか爪の末端まで神経がピッっと行き届いたような四肢の動きを観るだけで快楽すら伴うようなグルーブ感があって・・・。選曲のすばらしさ、それを支えるダンスの熟度、振り付けのセンス・・・、それらが混在して観客を溺れさせるような洗練されたパフォーマンス。見ていて目いっぱいときめく。楽しい。それも理性が介在してたのしいのではなく、うまく表現できないのですが、生理的に楽しい。酒の薫りや紫煙に揺らぐライトがさらにパフォーマンスを引き立てて・・・。もうわくわくなんて生易しい範疇で語れる感覚ではありません。ここまで感覚を舞台にゆだねてダンスパフォーマンスをみるのって、昔ミンスコフ劇場でスウィートチャリティーのダンスシーンを観たとき以来かも・・・。この域まで連れてこられると、もう虜状態。彼女の世界に取り込まれて、彼女の感性のなすがまま。さらに2演目あってパフォーマンスが終わったときには、ただ座ってほげっと見ていただけのはずなのに、こちらの息が切れていた・・・。

ほんと、たかぎまゆワールドにはまってしまいました。

ちなみに今回のタイトル、「じゅんじゅん&たかぎまゆ プレゼンツ、ヤング軒with飲食ディナーショーにあこがれて」、場所はBar「非常口」、最初に書いたとおり、新宿2丁目の地図があってもちょっと迷いそうな場所。

それは機材の不備があったり、いろんな掛け声が飛んだり、紫煙がライトにちょっと影をつくったり、たとえば新国立劇場のように観客が品よく舞踏を楽しむなんて雰囲気ではなかったけれど、でもあの場所だからこそより輝いたパフォーマーの表現もたくさんあったのではないでしょうか。

あの場所で、あのクオリティのパフォーマンスを供給する・・・。、作り手側にとっては本当に大変なワンナイトショーだったとは思うのですが・・。少なくとも、観客にとってはまがいものじゃない、本物を受け取ったこの上なくぜいたくな時間でした。まあ、一度本物でできたおいしいものを味わった子供や観客は、まがい物の味を見分けるようになるし、ひごろはまがいもので我慢していても、心は本物を欲するようになるわけで・・・・。作り手側の苦労も省みず、贅沢ついでに身勝手を承知で言わせていただくとすれば、「こんなのまた観たい・・!」。

なにはともあれ理屈抜きに豊潤で楽しい水曜日の夜でございました。おかげさまで、本業のサラリーマン仕事は地獄に落とされて閻魔様の手も借りたいくらいに忙しかったのですが、別にいらだつこともなく、ほくほくした気持ちで週末まですごすことができました。それだけ心の隅まで満たされていたのだとおもいます。

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