花丸・生喬・つく枝・こごろう ラクゴリラ戦士@江戸
10月6日、お江戸日本橋亭にて、「ラクゴリラ」を観てきました。関西で定期的に行われている林家花丸・笑福亭生喬・桂つく枝・桂こごろう 四師匠の会で年に2回東京にもこられているみたいです。東京版は今回で11回目とのこと・・・
いやぁ・・・、楽しみましたよ。各師匠の高座にはそれぞれに感じたこともあるのですが、全体としては観るものをぐぐっと引き寄せる力感溢れる落語会でした。
(古典落語についてのお話ですが、演劇でいうネタバレに近い内容が含まれますので、読まれる方はご留意ください)
桂 佐ん吉 「道具屋」
開口一番ということで、元気に登場。でも、ただ元気なだけではなかったです。勢いで押すというよりは場にちゃんと奥行きをもった噺をする・・・。雛人形で落語をするくすぐりにあえなく陥落しましたが、そういうくすぐりが成立するための、登場人物間の関係というか場の作り方に無理がないのです。若手の噺家さんにはめずらしく噺のテンポを崩さずに大きく噺をつくっていくことができる・・・。全編とはいいませんが、何度か聴くほうがすっと体を前に引かれるような部分があるよい高座でした。
林家 花丸 「あくびの稽古」
やわらかい語り口ですっと客を噺に巻き込んでいく感じ・・・。たまたま出番が浅いということもあるのでしょうが、観客をゆっくりとこなれさせていくような語り口から始まりました。噺に入ってもポーンと勢いつけて客を持っていくのではなく、客を自分の陣地に引き入れながら少しずつ高揚させていくような感じ・・・、で客が懐に引き込まれたあたりが浄瑠璃の稽古で保健所を呼んで象を殺させます。「あくびの稽古」(あくび指南)は他の方でも何度か聞いたことがあって浄瑠璃のひどさについての描写は噺家さんによってちがうみたいですが、花丸師匠のには噺全体の流れを崩さずに、一方でちょっと気を緩めた客を一気に持っていく力がありました。そのあとの浄瑠璃のお師匠さんの後日談が追い討ちで・・・、いやぁ、やられましたね。習い事が浄瑠璃に入ってからも噺がしつこくなるわけではなく、さらっと切れがすごい。それまでは堅実かつ緩やかに客をあっためておいて、ここ一番で狙いをはずさない・・・、ちょっとしたスパイナーの風貌すら師匠の横顔に感じました。
ただ、しいて言うなら、噺が佳境にはいってからは、あくびの師匠がちょっと怒りすぎるかなとも思いました。一度沸かせた観客を多少なりともペースダウンさせるのは演者にとって勇気のいることなのかもしれませんが・・・。もちろんサゲを際立たせるために、師匠の苛立ちは出さないとだめなのでしょうが、あくびの練習自体はもう少しのんびりと不毛にやってもらうのが良いのではと思います。素人の感覚かもしれませんが、最後にあくびをする人間の退屈さがもうすこし伝わってきたらなぁ・・・とそこだけがちょっと残念でした。
笑福亭生喬 「雑穀八」
生喬師匠は声に張りがありました。笑福亭一門の噺家さんは、声がしっかりと大きい方が多い。先代の松鶴師匠の影響なのでしょうかねぇ。生喬師匠も例外ではないのですが、ただ、笑福亭の他の噺家より声が澄んでいる。だから江戸言葉がぽんぽんと出ても、デフォルメ感がないというか違和感やよどみがない・・・。主人公の鶴さんが江戸言葉でまくし立てる部分の気風がすごくよくて・・・。これで前半の因縁話にずっと引き寄せられました。また後半言葉が関西弁に戻った部分でも鶴の気性がきちんと引き継がれていて、全体として凛とした緊張感が途切れない高座でした。
ただ・・・、「雑穀八」という噺ははじめて聴いたのですが、これは語り手にとってずいぶんと難しいのだろうなと思いました。噺のスケールが大きい上に3つの色あいの違った物語が繋がっていて、一貫性のようなものがなかなか取りにくそう・・・。。前半の人情話のようなトーンが、雑穀八再生の物語に代わり終盤には犬も喰わない夫婦喧嘩のちょっとコミカルな噺に変質していく・・。勢いで押し切ってもらえると噺が泥臭く繋がって違和感がないのですが、きれいにやられると、最後の夫婦喧嘩の部分が噺のながれから浮いてしまう気がします。正直いって生喬師匠でも鯛のやりとりまでは緊張感を持続して押していってたのが、最後の部分だけ、ちょっとそれまでの話と分離したような感じに聞こえてしまいました。
とはいうものの、この噺を語る生喬師匠の高座には気迫と繊細さが同居していて独特の魅力があります。噺がもう少しこなれたら、生喬師匠のまさに十八番になっていくのではと思いました。
桂 つく枝 「壺算」
つく枝師匠は枕の部分から愛嬌があって好感触・・・。話の積み重ねに、いきなりちょっとグルーブ感を感じさせたりもします。語り口に天性の明るさがあって高座が華やぐ感じがいいですね。
壺算は、まあ有名な噺ですから、料理の仕方も人それぞれなのでしょうが、つく枝師匠のは壺屋の番頭より買い手側の表現に比重がつよい印象を受けました。歳がばれますが、昔故枝雀師匠の生高座を観ているだけに、この噺においては未来永劫、枝雀師匠の番頭が陥る狂気の表現に勝てるものはないやろと思っていたのですが・・・。つく枝師匠の高座を聞いていて、だまされる側のうろたえぶりばかりはなくはめる側の快感もまたこの噺の魅力になっていることに気がつきました。もちろん、壺屋の番頭の錯乱でもたっぷり笑わせてくれるのですが、同時に買い物上手の徳さんがとても丁寧に描かれているのが大きいですね・・・。枝雀師匠の時には、もうエンジン全開で噺が膨らんで、挙句の果てには壺屋の番頭が「ずっと便秘でいらいらしていた」みたいな生理的なボヤキをいうくだりまでがあったような覚えがあるのですが、つく枝師匠のは、そのあたりが省略されて、壺屋の番頭の箍が完全にはずれなくても噺として遜色なく成り立っていて・・・。
まあ、壺屋に行く前の、「お前は布袋さんの気持ちがわかって、なんでわしの気持ちがわからない・・・」にもはまりましたが、(これが言いたいために壺が割れるくだりでしっかりと仕込みをしていた)、つく枝師匠というのは一見大雑把なキャラクターを作っているものの、実は噺の尺や仕掛けを念頭にいれたすごく緻密な落語をやられる方なのだと思います。
そう、先日天どん師匠で聴かせていただいた
江戸落語の「お見立て」あたりをつく枝師匠でも聞いてみたいですね・・・。「お見立て」が上方落語にあればの話ですが・・。
桂 こごろう 「ちりとてちん」
眉毛!眉毛にやられました。目は口ほどのものを言いなんてことを申しますが、まさにこごろう師匠の眉毛はその上げ下げだけでちゃんと物を言うのです。結果として師匠の表現にはつねにちょっとデフォルメされたような大きさがついてきます。また師匠はその大きさの使い方がうまい・・・。
「ちりとてちん」については、笑福亭福笑師匠の高座の印象が非常に強くのこっています。それまでにも江戸落語の「酢豆腐」を含めて何度も聞いた噺だったのですが、以前福笑師匠の噺を聴いて、それより過去にあったこの噺の印象が全部塗りかわりました・・・。冷静に考えるとちりとてちんを食べて竹さんがリバースするところもまでやるのって福笑師匠くらいのものなのですけれどね・・・、あの印象はすごかった。その印象があるからNHKの連続TV小説のタイトルが「ちりとてちん」と聴いたときにはなんちゅう汚いタイトルをつけるんやって一瞬思ってしまいました。
こごろう師匠のちりとてちんは旦那の表現がとても良かったです。もちろん、竹さんがちりとてちんを口にするところがクライマックスなのですが、物語の比重は旦那のいたずら心に重くおかれていたような・・・。そのいたずら心を表現するときに眉毛が生きるのですよ。顔の表現がしっかりしているから、体の動作が大きくなっても違和感がない・・・、ちょっと奇抜な動きをしても、表情が支えてくれるから噺から浮かない・・・。結果として、喜ぃさんが料理を慶んで見せるところから旦那が「長崎名産ちりとてちん」を作るくだりまでのすべてがぱぁっと華やかで大きな印象になりました。
福笑師匠のを聴いたときもおもったのですが、「ちりとてちん」という噺は、旦那と喜ぃさんの食事光景が華やかでないと、竹さんが現れてからの噺の展開が陰湿になってしまうような気がします。ふたりがこそこそしていると、体育館の裏でいじめをしているような印象になる・・・。こごろう師匠の眉毛は喜いさんの座をもりあげる表情にあらわれる艶のようなものや、旦那のちょっといけないいたずら心までも、デフォルメして明るく大きく見せていきます。それは竹さんの表情まで引っ張って、デフォルメがさらにしっかりと効くまでに噺を大きくしていく・・・。良い循環が噺をどんどん面白くして行く感じ・・・。
オチを語る時に垣間見える竹さんの「素」がそれまでのデフォルメのおかげですっと浮き立って・・・
役者でも落語家でも同じなのかもしれませんが、天性のなにかを持った演者っていうのはやっぱり強いですよね・・・。さすがに福笑師匠のちりとてちんを超えた名演とまでは申しませんが、こごろう師匠の味付けがしっかりと立った「ちりとてちん」がしっかりと存在して観客を巻き込んでいました。
しかし、余談ですが、これだけのクオリティをもった落語会にお客様がちょっと寂しい・・・。席が50%くらいしか埋まってませんでしたから・・・。確かにご出演の師匠たちの芸って完成された型にはまりきっているわけでもなく、今回かかった噺も将来の演じ方についてはまだ、ゆれるのかもしれません。、でも旬というのはそういう不安定さが煮きられてしまわない面白さだともおもうのですよ・・・。不安定さがあるということは、まだ大きくなるスペースを抱えているということでしょうし、さらにチャレンジをする志の表れともいえるわけで。
世にいう名人上手の完成された至芸をみるのもすごく楽しいし感動も大きいのでしょうけれど、だからといって旬の芸をみないのはあほです。ほんと、今回の会にはその旬がたくさん詰まっていたような気がします。この会のことを教えていただいた方には大感謝です。
次回は来年4月26日だそうな・・・。鬼が笑うような噺ですけれど、勝手連で思わず宣伝をしたくなるような(チケットがとれんようになったらこまるけど)催しでございました。
いやぁ・・・、楽しみましたよ。各師匠の高座にはそれぞれに感じたこともあるのですが、全体としては観るものをぐぐっと引き寄せる力感溢れる落語会でした。
(古典落語についてのお話ですが、演劇でいうネタバレに近い内容が含まれますので、読まれる方はご留意ください)
桂 佐ん吉 「道具屋」
開口一番ということで、元気に登場。でも、ただ元気なだけではなかったです。勢いで押すというよりは場にちゃんと奥行きをもった噺をする・・・。雛人形で落語をするくすぐりにあえなく陥落しましたが、そういうくすぐりが成立するための、登場人物間の関係というか場の作り方に無理がないのです。若手の噺家さんにはめずらしく噺のテンポを崩さずに大きく噺をつくっていくことができる・・・。全編とはいいませんが、何度か聴くほうがすっと体を前に引かれるような部分があるよい高座でした。
林家 花丸 「あくびの稽古」
やわらかい語り口ですっと客を噺に巻き込んでいく感じ・・・。たまたま出番が浅いということもあるのでしょうが、観客をゆっくりとこなれさせていくような語り口から始まりました。噺に入ってもポーンと勢いつけて客を持っていくのではなく、客を自分の陣地に引き入れながら少しずつ高揚させていくような感じ・・・、で客が懐に引き込まれたあたりが浄瑠璃の稽古で保健所を呼んで象を殺させます。「あくびの稽古」(あくび指南)は他の方でも何度か聞いたことがあって浄瑠璃のひどさについての描写は噺家さんによってちがうみたいですが、花丸師匠のには噺全体の流れを崩さずに、一方でちょっと気を緩めた客を一気に持っていく力がありました。そのあとの浄瑠璃のお師匠さんの後日談が追い討ちで・・・、いやぁ、やられましたね。習い事が浄瑠璃に入ってからも噺がしつこくなるわけではなく、さらっと切れがすごい。それまでは堅実かつ緩やかに客をあっためておいて、ここ一番で狙いをはずさない・・・、ちょっとしたスパイナーの風貌すら師匠の横顔に感じました。
ただ、しいて言うなら、噺が佳境にはいってからは、あくびの師匠がちょっと怒りすぎるかなとも思いました。一度沸かせた観客を多少なりともペースダウンさせるのは演者にとって勇気のいることなのかもしれませんが・・・。もちろんサゲを際立たせるために、師匠の苛立ちは出さないとだめなのでしょうが、あくびの練習自体はもう少しのんびりと不毛にやってもらうのが良いのではと思います。素人の感覚かもしれませんが、最後にあくびをする人間の退屈さがもうすこし伝わってきたらなぁ・・・とそこだけがちょっと残念でした。
笑福亭生喬 「雑穀八」
生喬師匠は声に張りがありました。笑福亭一門の噺家さんは、声がしっかりと大きい方が多い。先代の松鶴師匠の影響なのでしょうかねぇ。生喬師匠も例外ではないのですが、ただ、笑福亭の他の噺家より声が澄んでいる。だから江戸言葉がぽんぽんと出ても、デフォルメ感がないというか違和感やよどみがない・・・。主人公の鶴さんが江戸言葉でまくし立てる部分の気風がすごくよくて・・・。これで前半の因縁話にずっと引き寄せられました。また後半言葉が関西弁に戻った部分でも鶴の気性がきちんと引き継がれていて、全体として凛とした緊張感が途切れない高座でした。
ただ・・・、「雑穀八」という噺ははじめて聴いたのですが、これは語り手にとってずいぶんと難しいのだろうなと思いました。噺のスケールが大きい上に3つの色あいの違った物語が繋がっていて、一貫性のようなものがなかなか取りにくそう・・・。。前半の人情話のようなトーンが、雑穀八再生の物語に代わり終盤には犬も喰わない夫婦喧嘩のちょっとコミカルな噺に変質していく・・。勢いで押し切ってもらえると噺が泥臭く繋がって違和感がないのですが、きれいにやられると、最後の夫婦喧嘩の部分が噺のながれから浮いてしまう気がします。正直いって生喬師匠でも鯛のやりとりまでは緊張感を持続して押していってたのが、最後の部分だけ、ちょっとそれまでの話と分離したような感じに聞こえてしまいました。
とはいうものの、この噺を語る生喬師匠の高座には気迫と繊細さが同居していて独特の魅力があります。噺がもう少しこなれたら、生喬師匠のまさに十八番になっていくのではと思いました。
桂 つく枝 「壺算」
つく枝師匠は枕の部分から愛嬌があって好感触・・・。話の積み重ねに、いきなりちょっとグルーブ感を感じさせたりもします。語り口に天性の明るさがあって高座が華やぐ感じがいいですね。
壺算は、まあ有名な噺ですから、料理の仕方も人それぞれなのでしょうが、つく枝師匠のは壺屋の番頭より買い手側の表現に比重がつよい印象を受けました。歳がばれますが、昔故枝雀師匠の生高座を観ているだけに、この噺においては未来永劫、枝雀師匠の番頭が陥る狂気の表現に勝てるものはないやろと思っていたのですが・・・。つく枝師匠の高座を聞いていて、だまされる側のうろたえぶりばかりはなくはめる側の快感もまたこの噺の魅力になっていることに気がつきました。もちろん、壺屋の番頭の錯乱でもたっぷり笑わせてくれるのですが、同時に買い物上手の徳さんがとても丁寧に描かれているのが大きいですね・・・。枝雀師匠の時には、もうエンジン全開で噺が膨らんで、挙句の果てには壺屋の番頭が「ずっと便秘でいらいらしていた」みたいな生理的なボヤキをいうくだりまでがあったような覚えがあるのですが、つく枝師匠のは、そのあたりが省略されて、壺屋の番頭の箍が完全にはずれなくても噺として遜色なく成り立っていて・・・。
まあ、壺屋に行く前の、「お前は布袋さんの気持ちがわかって、なんでわしの気持ちがわからない・・・」にもはまりましたが、(これが言いたいために壺が割れるくだりでしっかりと仕込みをしていた)、つく枝師匠というのは一見大雑把なキャラクターを作っているものの、実は噺の尺や仕掛けを念頭にいれたすごく緻密な落語をやられる方なのだと思います。
そう、先日天どん師匠で聴かせていただいた
江戸落語の「お見立て」あたりをつく枝師匠でも聞いてみたいですね・・・。「お見立て」が上方落語にあればの話ですが・・。
桂 こごろう 「ちりとてちん」
眉毛!眉毛にやられました。目は口ほどのものを言いなんてことを申しますが、まさにこごろう師匠の眉毛はその上げ下げだけでちゃんと物を言うのです。結果として師匠の表現にはつねにちょっとデフォルメされたような大きさがついてきます。また師匠はその大きさの使い方がうまい・・・。
「ちりとてちん」については、笑福亭福笑師匠の高座の印象が非常に強くのこっています。それまでにも江戸落語の「酢豆腐」を含めて何度も聞いた噺だったのですが、以前福笑師匠の噺を聴いて、それより過去にあったこの噺の印象が全部塗りかわりました・・・。冷静に考えるとちりとてちんを食べて竹さんがリバースするところもまでやるのって福笑師匠くらいのものなのですけれどね・・・、あの印象はすごかった。その印象があるからNHKの連続TV小説のタイトルが「ちりとてちん」と聴いたときにはなんちゅう汚いタイトルをつけるんやって一瞬思ってしまいました。
こごろう師匠のちりとてちんは旦那の表現がとても良かったです。もちろん、竹さんがちりとてちんを口にするところがクライマックスなのですが、物語の比重は旦那のいたずら心に重くおかれていたような・・・。そのいたずら心を表現するときに眉毛が生きるのですよ。顔の表現がしっかりしているから、体の動作が大きくなっても違和感がない・・・、ちょっと奇抜な動きをしても、表情が支えてくれるから噺から浮かない・・・。結果として、喜ぃさんが料理を慶んで見せるところから旦那が「長崎名産ちりとてちん」を作るくだりまでのすべてがぱぁっと華やかで大きな印象になりました。
福笑師匠のを聴いたときもおもったのですが、「ちりとてちん」という噺は、旦那と喜ぃさんの食事光景が華やかでないと、竹さんが現れてからの噺の展開が陰湿になってしまうような気がします。ふたりがこそこそしていると、体育館の裏でいじめをしているような印象になる・・・。こごろう師匠の眉毛は喜いさんの座をもりあげる表情にあらわれる艶のようなものや、旦那のちょっといけないいたずら心までも、デフォルメして明るく大きく見せていきます。それは竹さんの表情まで引っ張って、デフォルメがさらにしっかりと効くまでに噺を大きくしていく・・・。良い循環が噺をどんどん面白くして行く感じ・・・。
オチを語る時に垣間見える竹さんの「素」がそれまでのデフォルメのおかげですっと浮き立って・・・
役者でも落語家でも同じなのかもしれませんが、天性のなにかを持った演者っていうのはやっぱり強いですよね・・・。さすがに福笑師匠のちりとてちんを超えた名演とまでは申しませんが、こごろう師匠の味付けがしっかりと立った「ちりとてちん」がしっかりと存在して観客を巻き込んでいました。
しかし、余談ですが、これだけのクオリティをもった落語会にお客様がちょっと寂しい・・・。席が50%くらいしか埋まってませんでしたから・・・。確かにご出演の師匠たちの芸って完成された型にはまりきっているわけでもなく、今回かかった噺も将来の演じ方についてはまだ、ゆれるのかもしれません。、でも旬というのはそういう不安定さが煮きられてしまわない面白さだともおもうのですよ・・・。不安定さがあるということは、まだ大きくなるスペースを抱えているということでしょうし、さらにチャレンジをする志の表れともいえるわけで。
世にいう名人上手の完成された至芸をみるのもすごく楽しいし感動も大きいのでしょうけれど、だからといって旬の芸をみないのはあほです。ほんと、今回の会にはその旬がたくさん詰まっていたような気がします。この会のことを教えていただいた方には大感謝です。
次回は来年4月26日だそうな・・・。鬼が笑うような噺ですけれど、勝手連で思わず宣伝をしたくなるような(チケットがとれんようになったらこまるけど)催しでございました。
R-Club
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント