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限界の先に見えるシュールなロマン 笑福亭福笑独演会

9月24日に笑福亭福笑独演会@下北沢「劇」小劇場、たっぷり楽しんでまいりました。

三遊亭天どん 「お見立て」

開口一番は三遊亭 天どん師匠、去年は仕込を忘れてぼろぼろになり、福笑師匠をして「下手や」と言わしめた噺家さんですが、今年は味がある高座でした。お題は「お見立て」、新作でしくじったから、仕込みを忘れないように古典を選んだというちょっと自虐的なところ、その流れで枕のちょっとぶっきらぼうなところが、登場人物の喜助のキャラクターにすっと重なり合って噺の視点が定まったところが一番の勝因だったかと・・・。

田舎者の客、木兵衛大尽の得体の知れないキャラ設定と、花魁喜瀬川の場末の飲み屋のホステスを想起させるような演じ方が枕から作り上げた高座全体の雰囲気にしっかりとはまって、間に挟まった喜助の開き直りの妙なおかしさがぐっと観客を包み込んでくれました。こういう味が出せるのってある種の才能ですよね…。毎週聴きたいとは思わないにしても、時々飢えたように噺を聴きたくなる落語家っているもので・・・。そういう地位を獲得しうる噺家さんなのでしょうね、天どんさんって…。

笑福亭福笑 「江戸荒物」

福笑師匠の最初の話は「江戸荒物」、東京で「江戸荒物」を演じるっていうのもなかなか勇気がいることだと思うのですが、「おうこ」とか「いかき」などの昔の言葉の解説に混ぜてさりげなく「切り藁」がたわしのことだとか、昔の大阪では「How much?」と聴くときに「いくら?」といってもわからないことを説明して、観客に噺の基礎知識を授けていくあたりの語り口にもしっかりと力があるのになめらかで・・・、だみ声からなんであんなアルファー波がでてくるのかわかりませんが…。「よそで言うたらあかんよ」ってな感じで観客を引き込むペースをつかんで、枕から気持ちよくわくわくさせてくれます。

噺に入ると高いテンションで一気に押し切る芸風全開、主人公の気合の入り方もさることながら奥さんが途中でいやになるところがもう絶品、客を前に夫婦喧嘩に発展するところなんてもう観客が息を詰めてしまうほどで・・・・。苦しくなるほど笑いながら師匠の表情から目が離せない。場内はマイクなし、肉声で、席が前から3.5列目の中央ですからそりゃ迫力が違います。

で、この噺、福笑師匠の繊細な部分がしっかり出てるんですよ。江戸っ子がお店にやってきたくだりでのちょっとためらうような仕草、田舎からでてきた奉公人を演じるときの表情、勢いのなかにしっかりと至芸を詰め込んではる・・・。そういう芸で客の無意識の領域を取り込んでから勢いを一気にあげるから客が噺にのったまま疾走ができる・・・。なにせ「劇」小劇場ですから、大きい劇場だと見過ごしてしまうような細かい部分までたっぷり味わえて贅沢この上ない。

サゲをゆっくりと語り終えての満足そうなお辞儀にも納得でした。

神田茜 講談 「幸せの黄色い旗」

今回は仲入りがありません。まあ、あの小屋で途中休憩があっても場内が大混乱になるだけでしょうけれど、休憩なしで福笑師匠の後に出てくる人はかなりきついやろうとちょっと心配していたのですよ。

しかし神田茜さんは強かったですね・・・。動じてませんでしたもの。張り扇のバリエーションも大爆笑でしたが(特に立って講釈ができるようにとつくったという飛び道具風の扇の企画倒れぶりは思い出しても笑える)、本編はなかなか人をひきつけるもので、なんというか講談を身近に感じることができました。ここ一番の声の張り方、凛としていて聞いているほうも背筋がしゃっと伸びる・・・。講談に新作があることも初めて知りました。初心者には馴染み深くて…。講談ってほとんど聞いたことがなかったのですがいっぺん長いやつも聞いてみたいと思ったことでした。

笑福亭福笑 「絶対絶命」

(落語でネタばれもなんですがここからは新作落語のネタがらみの話がありますので、「絶体絶命」を聞いたことがない方は要注意です

福笑師匠の2本目、かねがね噂に聞いておりました「絶対絶命」です。枕を聞きながら、若いころの過激な福笑師匠からすると確かに丸くなったなぁなどと思っていたら、噺にはいるやいなやいきなり便意をこらえる女性の描写から始まります。田舎のガソリンスタンドにトイレを借りに来た女性、ガソリンスタンドのトイレが故障中で回りにも民家ひとつないという状況で、その切羽つまった描写とガソリンスタンド従業員のゆとりのギャップがめちゃくちゃおかしくて・・・。まあ、下ネタといえば下ネタなのでしょうが、デフォルメをしっかり加えた人物描写が下ネタの下卑な部分や猥雑感をみごとに拭い去って物語をまっとうな落語として成立させていきます。すぐちかくにラーメン屋があると知らされて、よく聞いたらトイレなど望むべくもない屋台だと知ったときの女性の絶望感の表現はまさに大向こうをうならせるほど。仮眠でとまっている10トントラックの下りには、福笑師匠独特ののりがぐっと感じられて、笑いが逆落としのように降ってきたりぐぐっと盛り上がるようにやってくる。

しかもこの噺、予想だにしなかった方向へ展開します。結局近くの肥溜めで野グソをすることになった女性、紙を持っていなくて桑の葉で拭くようなはめに陥るのですが、ふっと夜空の満天の星を眺め、また極度の緊張から開放されたせいか、なんとロマンチックな気持ちになって、野つぼまでついてきてくれたガソリンスタンドの従業員に恋心を打ち明けるのです。しかも排泄しながら・・・。怒迫力の排泄音とロマンチックな乙女心のものすごいミスマッチ、さらには、排泄しながらの求愛の言葉がかもし出すこっぱずかしい甘さ、その一つ一つの表現が芸に裏打ちされた完成度の高さで来るわけですから、これはもう不条理にちかい世界、まったく両極にあるたぐいの羞恥がいっぺんに混ざって、しかも「さもありなん」とばかりに存在するその摩訶不思議さ・・・。もう笑いを通り越して別の世界に飛んでいってしまうような不思議な感覚・・・。これだけのものを創造し具現化できるのは落語の世界だけだろうし、また作品として構成し演じることができる当代の噺家を私は福笑師匠のほかに思いつきません。最後のサゲの妙に生々しいところなんて女性の業すら見るようで・・・。それこそぞくっとするような感覚までやってきて・・・。

何回も言いますが、下ネタといえばおっしゃるとおり・・・、しかし下ネタもここまで昇華すれば人間のカオスをも表現する立派な芸術の粋だと思います。それをわずか100人強の劇場で肉声で堪能できる幸せ・・・。

こういう会は年に1度では少なすぎます。季節ごとにやっていただかないと・・・。四半期に1度ということで年間通し券とか発売したら絶対売れまっせ・・・。「劇小劇場での独演会をつづけていただけるのであればこんな贅沢なことはないですし・・・、回数を増やしても絶対観客は集まると思うし・・・

まあ、会場の設営の仕方とかにはちょっと不慣れさもあったのですが、それも回を重ねるごとによくなっていくのだろうし、(バックに白幕を引くだけでもずいぶんと感じが違って噺家さんが映えるだろうにと思ったり、演劇用の照明だと噺家さんにはちょっと強すぎるように感じたりと次回は改善したほうがと思う点もありましたが)

首都圏の皆様、あんまり人に教えたくないけれど、福笑師匠がお近くに来たときにはぜったいきいておかないと損でっせ。会場には関西弁が充満していましたが、上方落語ってもう関西人だけのものではない。関西人の方以外でもお勧めでございます

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アメノクニ ヤマトブミ innerchildの壮大な座標軸の元で・・

開演前、舞台を観て、神社を思い出しました。中央に鏡を想起させるような大きなスクリーンがしつらえられ、その下にはつづれ折りになったような紙が飾られ、さらに上手と下手には太陽のようなマークのついた赤い幟状の物がつるされている。客席としても広々とした舞台にやや圧倒されます。

これが吉祥寺シアターでなければ、ある種の静けさと緊張感に新しいタイプの宗教の布教集会でも始まりそうな雰囲気…。しかし、舞台が始まるとそんな雰囲気は一変します。舞台ごと時間がダイナミックにゆり動かされていく、そのまえの静けさにすぎません。

物語の輪郭がみえるまで30分くらいは情報を蓄える時間が続きます。芝居が始まるとスクリーンに映し出される八百万の神々の物語からの引用があったり、住民たちの会話もなんとなく終戦直前の日本と重なるようなプロローグが演じられる。連作の後半ということで、前作のダイジェストシーンも流れ終戦の混乱が演じられる中で芝居のタイトルが映し出されます。

タイトルシーンにも一工夫あって、登場人物を演じる役者がライトアップされて紹介されるとき、彼らがある時代の中から切り取られているかのごとき印象が与えられます。それは、舞台上での登場人物の交差が舞台上の物語における世界観の象徴のようにも見えます。

やがて、物語が進むうちに観客はRPGのような設定のなかで第二次世界大戦後の日本の状況を見せられているような感じになります。物語は戦後の日本が置かれた環境とほぼ重なった形で展開していくのです。但しリアルに日本の戦後を舞台としたドラマそのままではない。実験室に置かれたシミュレーターの中の出来事のようにどこかが抽象化されていて、しかも分厚いガラスの内側の出来事のようにかすかにぼやけて見えている感じ。

さらに、前回公演の映像やいくつかのエピソード、そして北極点からみたような地図がスクリーンに映し出され、愛親覚羅溥儀が登場するに及んで連作の後半から入り込んだ観客にも、前作には満州国建国に至る経緯、神道による統治の裏側に神道をつむぐ物語が存在したらしいことがわかってきます。

微妙にモディファイされ、抽象化されたポツダム宣言受諾、連合国軍進駐、GHQ創設,極東軍事裁判、その一方で平安時代の藤原家を想起させるような施政者による宮中支配の野望崩壊から天皇の人間宣言、新憲法の発布や教科書の改訂まで・・・。

観客の中にある極東の戦後史や神話に関する感覚がてこの支点になって物語はより大きな世界観や史観へと発展していきます。時代をさかのぼるときのやわらかいGのかかるような感覚、これまでどんな芝居においても体験したことのない、質量を失った重さのようなものを肌で感じて・・。過去を俯瞰する未来は千年の先、史観は行きつ戻りつ、いつか創作の世界へと昇華していきます。

物語の底辺をささえる国の物語をつむいだ主人公の行く末、歴史の事実を恣意的に重ねていくことによって編み上げられていった国の民のアイデンティティ、時代のなかで語られ続けやがて埋もれていった神々の物語は再び掘り起こされ、あるものは尊きところの神格化のために大きく飾り立てられ、ある物はその神格化の妨げとなるために矮小化されていきます。施政者によって神格化された物語は現人神をして民をひとつにまとめていく力の象徴に祭り上げられて・・。それとてもとは人の物語なのですが、神格化された物語は国をひとつのベクトルに纏め上げて、国の王には神として民を導いていく根拠となっていきます。、民はアイデンティティと国家の形態の一致がなされるという砂上の整合に身をゆだね、そして、国家のアイデンティティ維持の名において戦がなされ、国は敗れ・・・。神は人となりアイデンティティは崩壊していく。

それでは、砂上の整合が敗戦によって崩れたときに、物語は終わるのか・・・。人のつくりし神の言葉はさらに綿々と書き綴られていくのです。新しく神となりたるもの、千年前に戦いに敗れ憲法によって戦いを封じられた国の意図により、実は新しいアイデンティティの下で、新しい物語がさらにまとめられ書き加えられていきます。新しい物語はそこにあり、つみあげられて・・・ふたたびこの国のアイデンティティにいざなわれるのを静かにまっているかのよう・・・。

観終わってまず思い出したのが曼荼羅でした。人は国につながり、国は正しかろうがそうであるまいが人の思いの束ねによって形成され、国は他の国との関係のなかでさらに世界を作る。一方人の想いはたくさんの神を語り、語られた神は時間に埋もれながらもこの世界のシノプスのように存在し続ける。さらに曼荼羅の面に時間軸というもうひとつの広がりが加わると、想いの重さと儚さが驚くほどリアルに観客の心を捉えて・・・。物語ひとつずつの重さも儚さもすべて世界に繋がっている壮大さを感じたことでした。

物語の料理人としての小手信也は、自らも身をおくこの曼荼羅を、常人と異なるやり方で、たとえば薄くスライスするように切り取って、そっと裏返し連作風に重ねて口当たりよく供してみせました。何気に口に入れたその物語の味わいの奥深さに思わず観客は何度も咀嚼を重ねます。そしてシェフが包丁をしまうころには、深いため息をはき、行き場のない称賛をつぶやくことことになるのです。

役者たちの演技にはいずれも切れがありました。複雑な物語にエッジの立った芝居で風を通していた感じ・・・。このことで物語の輪郭がずいぶんとはっきりしました。また、演出のうまさでもあるのでしょうが、役者たちが自らの演技が表す時間の質感や流れをしっかりコントロールしていたことも大きい。時間を一気に流すところと緩やかに進めるところ、そして留めるところをメリハリをつけて演じていて、これが物語の全体像をくっきりと際立たせました。

それにしても、この前作、是非みたいです。台本を売っていたので買いましたが、やっぱり生でみるのとは実感が違います。歌舞伎のように通し狂言風の再演をやってくれませんかねぇ・・。

作:  演出 出演 小手伸也

出演: 進藤健太郎 石川カナエ 土屋雄 宍倉靖二 春名舞 三宅法仁 善澄真記 小田篤史 三原一太 山森信太郎 松崎映子 石橋晋二郎 菊岡理沙 高山奈央子 窪田芳之 高見靖二 前田剛 狩野和馬 金順香 古澤靖二 

 

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「穢れ知らず」2回目 ワンステップ内側へ 

9月8日にソワレにて「穢れ知らず」をもう一度観ました。ひとつはダブルキャストということで、前回観ることができなかった役者も見たいとおもったし、芝居というのは生き物ですから、公演期間の前半と後半で変わっているかを確かめたいという気持ちもあってあらかじめ前売りを買っておいたのです。

結論からいうと、9月1日の観劇時に比べて8日の舞台は全体が高揚していた感じがします。役者のシーンごとの感情に道筋がついたというか轍が生まれた感じで、1日時点ではシーンによって戸惑いながら小出しにしていたような役者の想いが(この表現も結果的にリアリティがあった)、8日の舞台では溢れるように観客席に伝わってきました。特に大きな変化を感じたのは、冬月ちきと岡田あがさの二人…。

冬月ちきはラストに近い全てが明らかにされるシーンで、1日の時点にくらべてより近い部分で家族を観ていたような気がします。最後に舞台を退場していくときにも、家族の外側にいる人間として何ができるかという感じから、家族の痛みを感じながらも耐えるような表情へと変わっていて、舞台の印象をより深いものにしていました。

岡田あがさはあふれ出る想いに惑いがなくなっていたように感じました。内側で押さえていた思いはやわらかく重い感情表現となって観客を巻き込み、そこから派生する深く強い思いは単一の感情ではなくいくつもの色に染まりながらラストシーンの激しい想いへとのぼりつめて、場内全体を包み込んでいきました。

1日の舞台では思いの脆さや儚さをゆっくりと感じて、闇の中でラストテーマの曲とともに観客が彼女の思いに満たされていった終演部分でしたが、9日の舞台では誰も留めることができないような熱く深い情念が岡田あがさの全身からあふれていて・・・、やがて舞台の闇に包まれるひととき、情念が儚さにかわって行く姿を観客はただ息を詰めて見つめるしかないような、そんな構成に変わっていました。

また、他の役者たちも1日の舞台にくらべて色がしっかりついた演技だったように感じました。演技に力みがないのは1日と同じなのですが、一人一人の肺活量が増えたというか、動きや台詞で観客に投げかける想いの量が明らかに増しているし、それらはより豊かな中間色に染まって観客に伝わってくるのです。

舞台というのは日々を重ねるごとに醸成されていくものだと・・・、これは何かの芝居の台詞の台詞からのぱくりですが、実感としてそんなことを感じさせる8日の舞台でした

それともうひとつ、ダブルキャストで何人かの役者さんが違っていたのですが、いずれも好演でした。たとえ同じ台詞を話していても役者がかわることによって舞台の印象が若干かわっていることにも気が付きました。

猿田瑛は同じ役を演じた佐藤けいこより透明感の強い演技で、都会へのあこがれより田舎への嫌悪が強く出た演技でした感じがしました。感情はやや潜伏する感じになりましたが都会へのあこがれの深さが透き通った声からしっかりと伝わってきました。声が感情をしっかりと表現できる女優さんでもありました。

豊永純子はふっと魔がさすような女性の感情を良く表していました。一途な印象をしっかりと作れる女優で破綻を導くに足りる演技で、同時に同じ役を演じた榎本万里子に比べて逃げざるを得ないという切迫感をより強く演じていました。

鈴木雄三も屈託のなさを演じきることで、残酷な結末たちを自然に導いて見せました。

ちょっとぐったりしましたが、精神的には満たされた感じ・・・。こういう芝居だとリピーター割引の制度も生きるのかもしれませんね・・・

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アロッタファジャイナ夏祭り・・・、6時間でもてんこ盛りを感じない・・・

これも少し前の話で恐縮なのですが、アロッタファジャイナ夏祭り、9月2日の楽日を見てまいりました。

これは、贅沢な企画でした。観客が50人はいればきつくなる様な空間(渋谷 Le Deco)で、プロの役者のいっぱいいっぱいの芝居を観ることができるのだから・・・。役者と観客の距離は最長でも10m未満、観ているほうが緊張するほど・・・。

ワンデーチケットを買えば、その状態で、一時間前後の舞台を5本に加えて野田秀樹の「農業少女」まで観ることができるのです。

見所も満載で・・・。クオリティもいろいろで・・・。でも全部が同じタイプでクオリティもそろってというよりは絶対に面白かったと思います。おかげさまで時間の長さをまったく意識しない充実の時をすごすことができました。

一応私なりの寸評なども・・・。

新津組「夏に遅れます」

導入から虚実入り混じった感じで開口一番としてすっと客を取り込んでいました。関西出身の私としては小さなツボがいくつもあって思わず吹いてしまったのですが、全体を通してみると「もっと弾けられる器なのに」という感じはしました。コメディアンとしてベースになる技量は舞台の端々から強く感じるのですが、物語の引っ張り方やはずし方が安全牌で通している印象もありました。もっとどろくさく演じるかとことんまで淡白に演じる力は絶対あるのに・・・。たとえ10のうち8すべっても残りの2で十分覆いかぶさるような笑いが波状攻撃でとれるのに・・・。途中で出かかっていたグルーブ感が霧散してしまうシーンの切り方があったりして歯がゆかったです。でも、このユニット、また観たいですね・・・・。ユニットとして継続的なライブとかやっていらっしゃるのでしょうか。

出演:新津勇樹 西島浩舗

藤澤組「一日の必要量の1/3のコント」

いくつかの話のそれぞれにモトネタの影があってある意味パロディを観ているような印象を受けました。第一話はパンチラインを言う為に延々と物語を仕込んだような感じすらして、個人的には好きだったのですが、やるならもっと最後を際立つように決めてくれないと観客も頷きにくい感じがしました。2話、3話ともどこかシュールな側面があって嫌いではなかったのですが、あれをやるなら舞台や演技がもっとソリッドなほうが観客には伝わります。センスが根底にちゃんとある分、建物にあたる演技ももっとデザインされていてもとは思うのです。化けるとコアなファンを魅了するようなカプセルをいくつも内包しているような気がするのですが・・・。

作・演出・出演 藤澤よしはる 

出演 大石綾子 齋藤新平

安川組「恋」

安川結花という役者の才に瞠目させられました。彼女が演技を始めると、そこには糸が一本ぴんと張られた感じ。その糸を感じたときにはもう彼女に取り込まれていました。子守唄を聴いた赤ん坊が眠るのに理由がないように、彼女の言葉に身を任せる心地よさには理由なんてありません。誘い込まれるように物語のなかにいました。

そして、もっとすごいと思ったこと、彼女はちゃんと風景を作るのです。それも鮮明に・・・。彼女の読み上げる物語にはしっかりと風景がみえる。それどころか図書館の独特の匂いが観客を落ち着かせる。最初はライトや音響のうまさかと思ったのですがそうではない。音楽からずれた風景が彼女の後ろに見えましたから・・・。会場が狭かったから?。なら他の役者の演技にも彼女と同じような背景は見えたはず。やっぱり私が感じた風景は彼女の演技の賜物なのです。

はじめの数行で彼女の世界が私の心に浸潤し、あとは彼女の紡ぎだし織り上げられていく物語に遊ばせていただきました。まるでバーチャルリアリティのなかにいるように・・・。共演した菅田将輝の淡々とした演技がますます安川の演技を引き立てたのも事実ですが、やっぱり安川さん自身がただものではありません。

松枝佳紀の台本も、言葉にリズムがあり物語のながれにも無理がなく秀逸だったと思います。ただ、上演時間の関係もあるのでしょうか、結末に物語を導くときのやり方だけ、物語の尺からみてほんの少しだけアンバランスだったというか急いだ感じがしました。

作 松枝佳紀

出演 安川結花 菅田将輝

野木組「月落トのみなも」

物語の構成がびっくりするほどユニークというわけではないのですが、きちんとした骨格があったのが勝因、それゆえいくつかのイメージが重なり合ったとき破綻がなく大きく広がっていったのも勝因、でも一番大きな勝因は舞台に上がっていたすべての役者のテンションがしっかりと保たれていたことだと思います。感心したのは、終盤滝野裕美の長めのせりふの美しさが舞台に立つ全員の芝居で保たれていたこと。滝野のまなざしの美しさにも目を奪われたのですが、誇張でもなんでもなく、舞台に立つ他の役者一人ひとりの表情がそれぞれ一条の宝石の輝きにさえ思えて・・・。

井川千尋の演じる芯の強さの向こうに儚さが垣間見えたのも、秋山裕美の中に潜む絹糸のようなデリケートさが浮き上がったのも、シーンの中心で演ずる役者の力であると同時に同じタイミングで舞台にたつ役者全体強い意思の賜物だったと思います。

女優陣の息を呑むようなテンションに加えて男優陣もよかったですね。台詞の芯の強さやタイミングが観客にストレスをまったく与えませんでしたから。あと、これは偶然かもしれませんが、役者たちの声の異なるトーンがすごくよいバランスで、その美しい台詞とともにまるで一遍の詩篇の朗読にさえ聞こえるのです。

静かで美しい風景を舞台に感じながら、一方で観終わったときには強い高揚感がありました。硬質なガラスに固められたような感覚は役者たちの集中力に心が縛られていたからに違いありません。やがて場内にざわめきがもどって心が融解していくときに、急に目頭が熱くなりました。

作・演出・出演 野木太郎

出演 滝野裕美 井川千尋 近石博昭 峯尾晶 秋山裕美

松枝組「農業少女」

私にとっては野田MAPの番外編にて初演されたときの印象を今でも忘れることが出来ない作品です。野田秀樹の世界観が彼の作品群の中ではコンパクトな広さのなかで具現化していて・・・。一方で当時の時代に対しての切迫感が従前の作品にくらべて切実に感じられました。松尾スズキの退廃感や明星真由美の持つ毒、一方で深津絵里のベクトルを定めぬ一途さとそれらを包括するような野田秀樹の刃物を含んだ柔軟さ。これらが重なり合ってある種のカオスが生まれ、霧が流れるようにカオスが霧散した後に、少女のベースになるものだけが残っていた、そして残らざるを得なかった・・・。深津の苗を植える姿の美しさと対比をなすようなカオスから発せられる匂いが野田独特の色付けで、今から思えばバブル崩壊に疲弊しつくした時代を投影し、軽薄とも思える世俗の流れをとりこみ抽象化していました。

今回の松枝組「農業少女」は野田版にくらべると非常にマイルドになった印象があります。初演時には物語を外側から眺めていた印象があったのですが、今回松枝演出ではずいぶんと物語が近くなりました。その結果として観客は物語をより現実に近い世界で感じることが出来た気がします。一方でそれぞれの登場人物が内に持っていた感情や感覚が伝わりにくくなって、結果として農業少女が田植えを続ける最後のシーンの必然が弱くなった感じは否めませんでした。観客にとって具体的に実感できるものが多くなるとその分概念が入りにくくなる・・・。二律背反のさじ加減はまさに演出の感覚なのでしょうし、時代が演出家にそれを変えさせる部分もあるのかもしれませんが・・・。

役者は粒がそろっていました。岡村麻純は感情の出し入れに長けた役者さんであると同時に意思の強さを内側に持った演技をする力もありました。ただ感情の起伏をもっと大きく持った表現が見たいとも感じました。ナカヤマミチコは演技にぶれがなく物語をしっかり安定させるバランス感覚も十分で観ていて安心感がありました。松崎裕にはある種の懐の深さがあって物語に陰影を作っていたし藤澤よしはるの演技には切れがあり物語のコアにいたる道程をしっかりと作っていました。

そう、「農業少女2007」とでも呼びましょうか・・・。野田初演とはかなりテイストも違っていたけれど、でも、岡村麻純がゆっくりと稲を植える仕草を重ねるごとに戯曲がもつ普遍性が観客に伝ってきます。物語の秀逸さを感じると同時に、「変わり続けるけれど変わらない、それは舞台芸術が根源的に持ちえる特質なのかもしれない・・・。」そんなことまで考えさせてくれる作品でした。

作 野田秀樹  演出 松枝佳紀

出演 岡村麻純 ナカヤマミチコ 松崎裕 藤澤よしはる

 

終わったのは予定を30分押した6時半、最後はすこしせわしなかったけれど、それもまた手作りの味・・・。申し訳ないくらい楽しませていただいた日曜日の午後でした。

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空間ゼリー「穢れ知らず」 炭が熾り崩れるがごとく

劇団空間ゼリーの公演「穢れ知らず」を観てきました。前回公演(「空間ゼリー」)が非常に印象に残っていただけに、今回はいかにと、期待9割不安1割ぐらいで劇場に足を運んだのですが、結果は期待をはるかに超えるものでした。

(この先ネタばれがあります。公演をごらんになる予定の方は十分ご留意ください)

物語は息がつまるような閉塞した田舎の織物工場を営む一家とその周辺の人々の話、、東京に出て6年、父親の葬儀にも戻らなかった長女が帰省してきたことで、それぞれの想いが複雑にかさなりあって現出していきます。

登場人物個々の想いは、たとえば火鉢や七輪の炭のようにつみかさなっていて、一本が熾るとその熱で別の炭が熾り、さらに別の炭が熾っていきます。その炭の重ね方が秀逸で熾り方が一様ではなく・・・。空気の通り方ですぐに熾る炭、あるいは別のものが燃え崩れる中で次第に芯が輝く炭・・・・,さらには灰に隠れてくぐもり続ける炭・・・。

作者の坪田文は登場人物たちの内外を実に緻密に描いていきます。この緻密さが観客の視点の先を舞台全体の傍観の位置ではなく、登場人物ひとりひとりのディテールに引っ張っていきます。ディテールは人物に限りません。ルーティンとなっている生活、食事、夏休みの登校日、おやつのスイカ・・・、それらが登場人物の姿を瑞々しく浮かび上がらせていきます。

結果としてふつうの芝居と解像度が違うというか・・・。密度を持ちながら驚くほどの視野が確保された物語が観客に提示されます。それぞれの炭の熾り方から、炭から発せされる光、さらにはドミノが揺らぎ倒れるがごとく不規則に崩れるもの、崩れてさらに伝わっていく熱・・・。やがて重なり合って炭たちが舞台全体に熱を発散し始めても、坪田描写の虜にされた観客はお互いに熱を与え合う炭たち一本ずつの行く末から目をそらすことができません。東京から帰ってきた長女はもちろんのこと、舞台となる佐伯家の家族、おじ夫婦から長女の昔の友人、さらには工場の従業員まで・・・・。それぞれの言葉や動きには必然がしっかりと内在しています。坪田の緻密には必然が裏打ちされているのです。必然は因果を生み、因果はやがて重なりあい、想いが交差しあからさまになっていきます。観客は、瑞々しい生活に潜んだやわらかなカタストロフへの道程を、因果の行きつくさき、さらには崩れていく炭たちそれぞれの強さやはかなさとして舞台から肌で感じることになるのです。

役者たちもこの緻密さをしっかりと具現化する演技を見せます。すごいとおもったのは役者たちが自らの役柄が持つ感情をノイズやデフォルメを感じさせずに伝えていること・・・。演出 深寅芥の秀逸さの証でもあるのでしょうが、役者たちの感情表現に力みがないのです。観ているほうからするとあるがままにまっすぐに入ってくる感じ・・・。悲しみ、不安、怨り、よろこび、・・・。前回公演のとき同様、少し台詞が走ったり、台詞が一瞬詰まったりがまったくないわけではないのですが、それらのことも流れのなかで受け入れうるような空間を役者たちは構築していきます。

役者の中で今回も一番目をひいたのは細田善加でしょうか・・・。しなやかな演技のなかに鋼のような強さと繊細な感情の出し入れが同居していて・・・。キーとなる場面で、物語をしっかりと回せるパワーがあり、せりふがない場面での立ち居振舞いにもゆとりがあって場をしっかりと作って見せました。

目をひいたといえば下山夏子もそう、強さをもった台詞回しとは真逆ににじみ出てくる登場人物の繊細さがとても印象にのこりました。彼女が作り出す陰影には観客を引き寄せる硬質な磁力があります。怒りなどの表現も前回公演よりしっかりと足が地に着いた感じで、勢いを失わずなおかつ抑制が効いたよい演技だったと思います。

藤けいこの演技には役柄が持つ建前と本音をひとつの表情に収めるような器用さが良く出ていたように思います。一瞬の表情の作り方が本当に上手で、特に都会を思う表情には、場の雰囲気を染めかえるような力がありました。笑顔にいろんな感情を差し込める、良い意味でユーティリティーが高くマルチパーパスな・・・・。器用貧乏ならぬ器用リッチな女優さんで、こういう人が舞台にいると舞台全体の流れが豊かで滑らかに見えます。

河野真衣が演じる役柄が持つ不器用さの表現にも感心しました。演技に芯の太さとやわらかさが同居していて、役柄が持つある種の鈍感さ、特に鈍感であることの強さや弱さがしっかりと表現されていました。彼女は感情に重量感を持たせることができる役者さんで、今回の舞台にもその才が生かされていたと思います。

冬月ちきが演じる役柄には周りが崩れていく中でのニュートラルさが求められていたように思います。そのせいでしょうか、彼女の演技には色を消すような冷静さが感じられました。観客側から観ると彼女が随所で舞台の密度のスタビライザー役をしていた印象があります。地味な役回りなのかもしれませんが、暗転のほとんどない舞台の流れの中で、彼女の役割は大きかったように思うし、それに答える着実な演技でもありました。

篁薫には存在感がありました。役者の中で唯一デフォルメの匂いを強く感じましたが、その果実として役柄が持つ狂気がしっかりと観客に届いていました。彼女の狂気が十分観客に伝わらないと、物語の因果が明確にならないばかりか夫の出奔シーンの説得力が半減するのでしょうし、その狂気を最後まで支えきってみせたパワーには驚かされました。

出奔シーンという意味では榎本万里子も本当によい仕事をしたと思います。出番的には比較的少ないのですが、伏線となるべき部分の演技がとても安定していました。。全体を通しての地道とも思える演技の裏側で彼女の想いは観客の潜在意識に見事に焼き付けられ、何かがこと切れたような出奔のシーンに大きな説得力をあたえてくれました。

岡田あがさには舞台の視線を引っ張るほどの華があって、田舎に東京から戻ってきたという設定やその母が男をまよわせたという設定に十分な説得力を与えていました。彼女が持つ透明感には独特のやわらかさがあり、彼女が隠し持つ想いや真実は乳白色のベールで覆われているような印象すら受けます。そのベールの翻り方で高潔さと生々しい女性としての感情がゆったりと出し入れされて行く感じ…。不安や怯えの表現には多少脆さもあるのですが、彼女の内側から溢れるような感情には観客を瞠目させるほどの力がありました。

男優陣も安定していました。尾浜義男が妻を介抱したあと、出奔を決心する表情は観客の心をきちんと捉えていました。水谷一人は相手の演技を受けるタイミングというか間がとてもよく、彼がからんだ会話のシーンはとてもビビッドに見えました。宮原将護は重い役で、物語の基幹ともなる部分を背負いましたが、相手の演技を支える力が内側に感じられて女優陣の演技に対してもしなやかな対応にも好感が持てました。

前回公演ではカーテンコールの間、驚愕の中で拍手をしていましたが、今回はエンディングテーマが流れる闇のなかで、ふーっと長い息をはきたくなるような充足感に満たされていました。冷静に考えれば、行き場のない悲劇的な物語の顛末を観ていたのに、なぜか満たされた感覚が心を支配していました。

それは語られた物語の起承転結がすっと入り込んで心を潤したからかもしれません。ぶっちゃけた言い方をすれば「ええもんを観た…!!!」という満足感があって・・・。そしてしばらくしてから、語られた因果の形状の美しさと重さに瞠目することになるのです。

まあ、さらに言うと、その次にはとんでもない空腹感がやってきます。知らないうちに自分が舞台に取り込まれている間に使ったカロリーの大きさをしっかりと感じられます。途中、舞台で使われていた煮物やそうめんなどの消えモノがほんとうにおいしそうに見えて・・・。細田さんの演技の賜物でスイカも本当に甘そうだった…。しかし、そこまでカロリーを消費するような集中を無意識の観客から引き出すこの舞台、まさに恐るべし・・・。

もちろん第一級のお勧めです

空間ゼリー VOL8

「穢れ知らず」 (蜜柑組)

作:坪田文 演出:深寅芥 

出演:岡田あがさ ・ 下山夏子 ・ 河野真衣 ・ 細田喜加 ・ 篁薫 ・ 冬月ちき ・佐藤けいこ ・ 榎本万里子 宮原将護 ・ 尾浜義男 ・ 水谷一人

@ 阿佐ヶ谷ザムザ 9月9日まで上演中とのことです。 

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花はどこへいった さらに一瞬のクオリティが加われば・・・さぞや・・

8月28日に知り合いが出ているからと会社の人に連れられて、3人連れで松崎しん・プロデュース公演、「花はどこへいった」を見てきました。5人のダンサーにアクターが入り、さらにnoge_farmの写真が入ったパフォーマンスでした。

コラボレーションのメソッドやクオリティ自体はびっくりするほど斬新なものではありませんでしたが、イメージの表し方は観客に対してまっすぐで好感が持てました。ダンサーたちの動きには観客のイメージを引っ張り出すようなトリガーが少なく、表現についても具体性にもかけるイメージの集積が多かったのですが、そこには呼吸をする世界が確実に存在していて、見ていて飽きなかった・・・。朗読の内容も、パフォーマンスとは直接交じり合わないのですが、ダンスとせりふの互いが互いの借景になっているような部分があって、後半になるにしたがって、風景が舞台のなかに浮かんで来たように思います。マネーネ、デートリッヒ(?)の歌唱映像と舞踏が重なり合って世界を作ったパートでは、青年の一途な感じがまっすぐと観客に届いたし、女性3人が椅子を使ってのダンスなどからはやわらかくかつビビットな世界感が伝わってきました。

ただ、作り手がイメージし、表現しようとしたものは、きっと私の心に留まったものよりはるかに大きかったのだと思います。それをきちんと受け取れなかったのは、たぶん表現者の座標軸のようなものが舞台から十分に浮かび上がってこなかったから・・・。舞台上に存在するものについて、ただ、「そこにある」以上の意味が伝わってこないのです。

たぶん空間を一番しっかりと表現したのは松崎しんさんで、かれのダイナミックな動きは空気を積み上げて形にするだけの力があって、存在する事象を想起させるのに十分でした。横山絵美さんのダンスにも力がありました。彼女の動きからはやわらかい空気の動きや心の躍動のようなものが伝わってきました。それらが写真や映像、さらには朗読と重なるとき、ふっと心に共鳴するような立体感のある鼓動を感じたのも事実です。個々のダンサーや、役者、映し出される写真には想起したものを伝える力があるのだと思います。

しかしながら、一連のパフォーマンスから、色が浮びあがっても、色がかさなり新しい色へとひろがったり、舞台上の世界がふくらむことはあまりなかったような。たとえば、歌から感動をもらうとき、もちろん歌手の技量やスピリットが一番に問われるのですが、それだけではなく、伴奏の技量や曲のアレンジなどにより感動の大きさは著しく変わってくるじゃないですか・・・。ダンスパフォーマンスも同じで、ひとつずつの動きに心を揺さぶるものがあっても、それが増幅されない限り個々の発するイメージは舞台の上で霧散するしかない・・・。

ユニゾンの部分、意図してずらしていくような振り付けなのかもしれません。シンメントリーな動きのずれは舞台全体にやわらかさを生んでいたような気もします。でも、それらのイメージは次の動きの感動に重なることがない・・・。ユニゾンであれば鉄板のユニゾンが表現されて、その上でずれがトランジットになりえるのだろうし、シンメントリーな動きは髪の毛一本ずれることなくシンメントリーであってはじめてそのあとの崩れが生きてくるのだろうと思います。たとえ一瞬でもいいのです。観客の心を刺して舞台と観客の間にある幕を切り裂いてくれないと観客はクリアに舞台上の出来事を自らの思いに置き換えることができない・・・。

ソロの部分、あるいは一人ひとりの動きには力を感じただけに、さらには映し出される写真に想起される世界とダンサーひとりひとりの動きが重なる瞬間になにかがぷるっと震えて見えただけに・・・、それらの重なり合いにもっと力があればと感じたことでした。

とはいうものの、前述のとおり、現実の世界からふっと離れてイメージの世界に心を浸した感覚、とても心地よく、「花はどこにいくの」のタイトルチューンにのったソロダンスや前述の女性3人の椅子を使ったダンスのイメージがやわらかに心を満たして、それなりに満足はしたのですが・・・。

どうも半分膨らんだ風船を持たされれたような感じも否めないのです。

花はどこへいった」(松崎しん・プロデュース公演)

2007.8.28 シアターバビロンの流れのほとりにて

Cast::松崎しん・木村 幹・横山絵美・根耒裕子・佐藤信光

Actor:大森啓祠郎   Photo:noge_farm

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