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天切り松 闇語り 小股が切れ上がった女を見る

最近「読み語る」という表現を見る機会が増えています。読むと演じる、考えてみるとその区切りって難しくて・・・。「ラブ・レターズ」のように読むという要素の強いものがあれば先日大銀座落語祭りで観た小沢昭一さんのように読むという要素を取り入れながらも芸で膨らまして広がりを作り上げているような舞台もあります。同じ大銀座落語祭でみた加藤武さんなどはやっぱり読むという要素が強かったですね。

読み語るという表現、必ずしも演じるという表現にくらべてあらわすものが少ないというわけでもなくて・・・。ただ、具体的に演ずるものを観る舞台にくらべて、より読み手と観客双方に素養が求められるとは思うのです。読むだけではどうしても伝わらないものというのがでてくる。自然とそこに読み手側から行間の感情のようなものがこめられ物語は咀嚼される・・・。でもそれを受け取る観客にも読み手の思いを感じるだけの資質が問われる。

演じてくれれば、観客側での資質の足りない部分も、役者の演技が埋め合わせをしてくれるのかもしれません。それでもすべてを演じて見せたからといって観客はそのすべてを受け取ってくれるわけではない。たくさん見せれば観客はその分自分がみているものへの依存を強くします。映画はもっと具体的に物語をみせてくれますが、その分、観客が自分の中でふくらませることの出来る部分は減ります。

具体的に演じる側が伝えたものを観客側がどれだけ受けて、それが観客側に持っているものをどれだけ膨らませるか、あるいはどんな色に膨らませるかが世の「表現」における勝負だと思うのですが、舞台上で読み語るという表現は、観客にゆだねる比率が高くなりやすいのでしょうね・・・。言い方を変えれば面でなく線描で表現される感じ・・・。ただしよい線の描き方がされていれば観客はそこからより芳醇な世界を膨らませることができます。線は読み手の声の強さ、間、表情までもとりこんで観客の資質のなかで見事な形を作っていく。

うまく言えなのですがバランスの問題なのかとも思います。

読み語るということだけではなく、何かを演じるということすべてにいえるのかもしれませんが、見せる物、ゆだねるもの、咀嚼するもの、観客側で膨らませるもの・・・。それらの要素がしっかりとかみ合ってバランスのとれた表現に至る作品を作り上げたり、観客からみてめぐり合ったりというのは、舞台の上と下双方にとって僥倖な出来事なのかもしれません。

(ここからネタばれがあります。公演期間中の書き込みにつきご留意をお願いいたします)

さて、8月13日に俳優座劇場で「天切り松 闇がたり」を観ました。朗読劇と称していますが、要は読み語りと芝居がが合体した作品です。

表現という意味では上記の僥倖が授かりもののようにやってきた作品でした。

すまけいさんはその中で自らが浅田次郎作の小説を、一人称の天切り松として読み語っていきます。本を読む中に虚虚実実の現実を織り込んで・・・。始まっていきなり携帯を鳴らした阿呆な客をしかりつけるところはハプニングでしょうが、仕立て屋銀次直系の誇りと寛容さを黒子役の増田英治との掛け合いで見せながら、ひとたび藤原道山の尺八の音色から物語に入ると、たちまちのうちに、昔語りとばかりに読む世界と演じる世界が溶け合って天切り松入門の下りに至ります。一門の男たちの気風のよさがまざまざと伝わって、その筋金入りの粋に聴いているほうの背筋が伸びてしまうほど。

落語などの極上の人情噺でもそうなのですが、演者の小さな息遣いやふっと投げやる視線までがしっかりと張り詰めています。自分のなかに物語を受け取っているはずの観客が、物語のなかに自分を放り込まれている感じ。尺八の音がさらにひろがって、その季節の風や建物の匂いまでがそこにあるようにすら感じます。

中盤、舞台転換や、仕立て屋銀次を上野駅に出迎える場面を経て(これも鮮やかなものでした。インパネスを翻し仁義をきる親分の描写には震えがくるほどでした)、鷲尾真知子さん演じる女掏りおこんが、舞台下手に登場します。明治の元勲山縣有朋の金時計を2度までも掏り取ってそれを大川に投げ込んで、司直に捕まったはずが、山縣の別荘古稀庵に連れて行かれたという設定。すまけいさんの語りが墨絵の味わいとすれば鷲尾真知子さんはそこに涼やかな色をもって浮き出す感じ。

そりゃ舞台上の作り事かもしれません。役者が演じているだけといえばそれまでなのですが、しかしこんなに凛とした女性の立ち振る舞いをみたことがない・・・。すっと風がとおるがごとき粋な物言いに、自らを貫く潔さ、なによりも相手を慮ったうえでの強さのようなものが鷲尾真知子さんの立ち居姿から伝わってくるのです。小股の切れ上がった女なんて表現がされるようですが、すまけいさんの作り上げた世界のなかで眩しささえ感じるその姿にはただ見とれるばかり・・。こればかりはどんなに朗読表現されても伝わってくるものではない。演じられたからこそ伝わってくるものでした。

山縣有朋との情感あふれる会話にも心溢れる感じがしましたが、それ以上にひたすらああ、よいものを見た・・・とため息が先に出てしまうのは観客としての私の力不足なのでしょう。それでも、ここまでやられると、そりゃ山縣有朋の葬列をとめて、その棺に古稀庵でもらった槍を納めてもらおうとするおこんの心意気が熱をもって伝わってきます。葬列をとめる無茶が何の疑いもなく納得できる・・・。凛としたものに秘められた熱を感じるなんてそうあることではありません。

舞台の納め方もほんとうによくできていで・・・。黒子のお茶の継ぎ足しをねたに語りを打ち切るところは、「終わり」の言葉をすまけいさんの演じるキャラクターにうまく乗せて、客に恨みを残さない粋なやり方だと思います。

来年の3月に続編があるそうですが、これはもう今から楽しみです。DVDなども出ているようですが、この雰囲気だけは生でなければ・・・。

観客の資質を慮り、見せるものと語るものを見事に綾に織った、まさに珠玉の90分でありました。こうなると劇場帰りに洋食や中華なんぞを食べる気がしません。きりっとしたおそばをいただいて帰り道についたことでした。

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