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犬顔家の一族の陰謀 この枠組みにしてこの役者

ちょっと前の話で申し訳ありません。

Mixiやいろんな劇評をみるにつけ、新感線、「犬顔家の一族」はやっぱり生で観にいきたいと思っていたのですが、たまたまお盆後の土曜日に早起きができたので、意を決して当日券に並ぶことにしました。12時30分開演のお芝居の当日券発売開始は11時30分から・・・。まあ、その時間に行っても買えないだろうから、とにかく並ぼうと思って家を出たのが9時20分、10時ちょっと前について、当日券売り場をみたらもう列が出来ていました。その数20人弱、あわてて最後尾につくとバックで順番を取って当日の販売枚数を確認に・・・。40枚ということでとりあえずは一安心・・・。

補助席でしたけれどよい席でしたよ、真ん中の列の前から3番目・・・。サンシャイン劇場の補助席は意外と疲れないし、下手に前売り券で後ろの席になるよりずっとよいかも・・。役者の細かい表情をたっぷり楽しむことができました。

新感線の役者さんというとまず浮かぶのが古田新太、橋本じゅん、高田聖子なんかも有名ですが、なにせ、ここには芸達者な役者さんがてんこ盛りでいますから・・・。おまけに今をときめく宮籐官九郎、勝地涼、木野花、川原正嗣、前田悟などの客演を得て、なんと「ネタもの」・・・。最近の新感線にはいのうえ歌舞伎で一種の美学を極めたような部分を感じているのですが、その美学へのパワーがお笑いに全部振り向けられた「ネタもの」だとすれば、そりゃ観る前から観客の血も騒ぐというものです。

(ここからネタばれします。これから見る方はお読みにならないようお願いいたします。)

で、結論、血を騒がせただけのことはありました。細かいところまで作りこんであるというか、観客と勝負するかのごとく笑いどころを編みこんである感じの舞台。油断したら笑いどころを見過ごしてしまうという緊張感すら観客に与えるような。たとえば、ベースになっているのが映画作品(「犬神家の一族」)ということで東映映画のオープニングロゴが映し出されるのですが、海と波飛沫に東映ならぬ「新」の文字、そのパロディに目を奪われていると、映倫の審査番号の部分のギャクを見落としてしまったりします。(以前からのネタで有名ではあるのですが、映倫の「映」の文字が変わって男性がすごく元気な様子をあらわす言葉になってしまっている)。

その一方でわかりやすい大技のギャグも満載です。「Phantom of Opera」、「Cats」、「Chorus Line」などのミュージカルへのオマージュとも思える冒頭の部分は力があり、なおかつ非常にセンスのよいギャグになっていたし(個人的は「Chorus Line」のワンを犬が歌うところが一番うけた)、中盤の木野花・高田聖子・山本カナコのドリームガールのパロディもすごく良かった。歌の部分については役者が衣装までばっちり決めて、歌えて踊れてしかもネタというところが本当に新感線であり、なおかつ、Forbitten Broadwayすら髣髴とさせるほど・・。

このレベルのお芝居ですから、当然に作りこまれたかぶりもの衣装も満載だったし…。猫のかぶりものの下に猫化粧とか、門鍬茄子の小道具とか・・・。仕掛けで笑いを取る部分がこれでもかというほどある…。

しかも、この仕掛けに耐えうる猛者というか濃い役者がこれだけそろっているというのは本当にすごい。おバカをやる時に、あの古田新太や池田成志ですら抜きん出てみえないというか、舞台に呑み込まれてしまうような場面がけっこうあって・・・。新感線役者という概念のなかでのネタものでは彼らとて特別なスーパースターにはなり得ない。出演者のひとりひとりに十分な力があることの何よりの証です。村木よし子の「はみけつ」衣装をものともしない体の張り方なんかを観ていると、お互いの切磋琢磨のようなものも感じられて・・・。一方でひのうえひでのりの構成・演出のうまさなのかもしれませんが、一人ひとりの出演者が気持ちよくねたをやっている用に思えて。この気持ちのよさが観客席にもちゃんとつたわってくるのです。

そういう状況のなか、客演の宮籐官九郎は彼のペースで広々とした演技が出来ていた感じがします。役者としてもとても器用な面を持つ人ですが、細かい演技をしているときの彼から感じる一種の底知れなさが影をひそめ、観客席に彼が本来持っているおおらかさのようなものが広がる感じがしました。木野花も、緊張を切らして心ならずも吹いてしまう場面があるほど(宮籐官九郎がうつむいて我慢している木野花を見て結構おおっぴらに笑っている姿がまたおかしくて・・・)彼女のペースでの演技ができていて・・・。あんなにのびのびと演技をしている木野花を観ていると、旧のタイニーアリスで青い鳥を率いて芝居をしてたころを思い出すような・・・。観ていてとても懐かしくなってしまいました。いのうえ流個性の生かし方というか、見事な役者の使い方を垣間見た思いがします。

それと、もうひとつ思ったこと、役者の層が厚いというところにも繋がるのですが、新感線にはしっかりしたアンサンブル役ができる役者が多い。よい例が山本カナコで、一人のときは自らの存在を十分主張するパワーがありながら、誰とからんだ時には、打って変わって相手の色をしっかりと受け止めて、なおかつハーモニーのようなものを作り上げていくのです。その演技の秀逸なこと、自分を消して相手を立てるのではなく、相手を生かして自分も生かす…。彼女が出てくるとシーンにボリュームと味わいが生まれてくる・・・。昔「スサノオ」で羽野アキの妹役を最初に観てから、それでなくても結構ファンだった私は今回の舞台で彼女にますます惚れ直してしまいました。演技だけではなく歌にしてもそう、力があるし、ハモを彼女がとるだけで歌の迫力がぜんぜん違ってくるし・・・。

そして、中谷さとみや保坂エマにも同様の力が着実に育っていて・・・。主役であろうが脇役になろうが、舞台をひとりで持たせるだけの力がありながらまわりとしっかりシーンを作れる役者ぞろいだから、息を呑むような躍動感を持ったいのうえ歌舞伎と同じパワーをちゃんとネタもの芝居にかけられるのかもしれません。この役者のキャパの大きさこそが新感線躍進の源になっていることを痛感しました。

さらに言えば、関西系の劇団には多かれ少なかれ芝居だけではなくトータル戦略で客を楽しませるみたいなところはあるのですが、新感線のスタッフも役者に負けずようやってくれます。2800円のパンフレット・・・・。値段にもちょっとのけぞりましたが、おまけについてる文庫本にはもっとのけぞりました。普通ここまでやりますか・・・・。一番受けたのは「角川文庫発刊に際して」のパロディでしたが、新刊案内のすごさにはもう悶絶するしかない・・・。ここまでくると芝居をはなれてこれだけで十分芸の域に達している感じ。で、そのわりには文庫本にはさんである紙のしおりまで、角川文庫チックなものをしっかり作って、一方で中の文字(しおりとしてお使いください)にまで小ねたをしっかりはさむ・・・。個々までやられるとびっくりしたはずのパンフレットの値段が「まあ、しゃあないか・・・」になってしまう…。

ここまでやられると、もう観客はギブアップです。当日券に並ぶ方には何度もこられているリピーターが案外多いと聞いて、何でこの値段のネタもの芝居をまた見にくるのかと思ったのですが、実際に観てみると、その人たちの気持ちがよくわかりました。たぶん2回・3回と観ていってもこの作品は飽きないと思う・・・。食い尽くせない・・・。

同じ関西系のPiperにも同じようなところがあるのですが、新感線がもつ多層的かつしつこいまでのサービス精神には脱帽するしかない・・・。物語もきちんと筋を通しているし、役者の力は前述のとおり他の出演者を舞台上で観客化させるほどそれぞれの役者に舞台を引っ張っていくだけの力があるし、本当におバカをやっていても作りがちゃちい感じがまったくしないのです。ありがちな「おバカだからせこいやり方でもかまわない」みたいな発想が作り手にないから見ているほうも豊かな気持ちでおバカに浸れます。高い木戸銭取った分おまけを山盛りつけて返してやるみたいな勢いが舞台・役者、さらにはスタッフの仕事にまで感じられるのです。

帰り道、元を取ったような充実感がいっぱい…。うふっ。山本カナコさんの歌声がちょっと耳に残って・・・。

まあ、ほんとに、楽しませていただいたことでした。

R-Club

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「箱入り彼女展示会」の硝子の色は・・・(Rental Girl's Box)

まあ、世の中、いろいろな災難があるもので・・・。

ある芝居を観ていたら黒子役の役者さんが暗転中に舞台のポールを倒して、それが私の頭に落ちてくるというハプニングがあってちょっとびっくり。なぜそんなことが起きたかと言うと、その芝居が極めて狭く閉塞的な空間で行われていたからです。まあ、痛いというよりはびっくりした・・・。思わず帰りに宝くじを買ったくらい・・・。(自分のあたり運を生かそうと・・・)。

その芝居は「ITO SHINTARO IS A NICE STOKER」というユニットの「箱入り彼女展示会 Rental Girl’s Box」というもの。新宿眼科画廊で8月15日から17日まで上演されていました。

非常に小さなスペースで、中央の舞台の周りには一列の観客がやっと、正面だけ3列の客席で、全部あわせて40名程度の観客でしょうか・・・。その中で作・演出・出演の伊藤伸太朗は自らの演技をからめながら3人の展示物を丁寧に描いていきます。伊藤さんは双数姉妹のオキュパイで観たのが最初だと思うのですが、背筋のシャンと伸びた演技が印象に残っていました。今回も目鼻立ちのしっかりした演技をされています。

作品はお世辞抜きでクオリティが高くて・・・。ある程度女優をあて書きした部分もあるのでしょうが、女性の演じる力をゆっくりと引き出した伊藤の手腕が光ります。3人の女優に3つの服を着せて・・・。一方で物語の間をメールアドレスが買えるというゼッケンの提示と黒子による写真撮影という共通のトリガーで串刺しにしていきます。ひとつずつの物語だけでも十分おもしろかったのですが、3つのお芝居が共通のトリガーでつながれたことで、物語の外枠が生まれ、その先には男子がとらわれている普遍的な女性観のようなものが表現され、振り返ってみればそれぞれの物語が収まったケースにはめられた硝子の色に気づかされることになる・・・。硝子の種類を変えることは中の商品を美しく見せるための仕掛けなのでしょうが、一方でステレオタイプではありえない女性の個性に対して、えてしてステレオタイプな感覚しか持ち得ない男性の姿に気づかされることになります。

芝居は小杉美香演じる販売員のシステム説明から入るのですが、彼女は説明の途中で突然、シャツのボタンをはずし上半身をはだけて、水着の胸元と出演する女性たちが提示するラベル(番号と役名が書いてあるもの)のサンプルを見せます。それはフィクションの領域からみても、現実からも違和感のあるリアルな世界で・・・。目を奪われるような美しく豊かな胸元が観客にとっては虚実の境界線・・・。小杉さんのビジネスライクというか慇懃かつ没個性的なシステム紹介のアナウンスと躍動するような美しい肉体とのアンバランスがそのあと展開される男女の物語の象徴にもなっていました。

さて、3つのショーケースの話、

(本田留美が演じる野口あずさ)

最初の出品者、本田留美が演じる女性のショーケースには、淡い色がついたというか少しスモークがかかった、でも中をしっかり見通せるような硝子がはまっているような(実際はポールで囲まれた空間ですが・・・)感じがしました。イタコのような超能力のあると称する男の子に死んだ彼の友人を呼び出してもらう女の子の話なのですが、その無垢を装う部分と、裏返しに潜む自分に正直な部分を本田さんはかすかな雰囲気の変化で演じ分けていきます。笑顔に印象がある女優さんで、なおかつ彼女には小さな表情の変化だけで、感情をしっかり伝えられる才能があります。また、弱い演技のなかにときめき感のようなものをしっかり醸成できる。思いを表現するのに力みもないので、観客は舞台上の彼女と同じ空気にじわっと引き入れられてしまいます。もうすこし尺の長い芝居を観たくなるような女優さん・・・。ひと昔前なら、アイドルとよばれていたような人たちが持っていたフェロモンを彼女はコントロールできるような・・・。まるで、演じているキャラクターと同じように・・。

(百地香織が演じる斎藤愛子)

次に登場の百地香織が演じるのは大正ロマンに通じるような夢かうつつかの世界・・・。淡いすりガラスの中の光景をみているような・・・。百地さんの妖艶さというのを言葉で表現するのは難しいのですが、しいていうなら表情の豊かさと声質をうまく利用して、微粒子のような色香を作り出していくような・・・。色香が濁っていないのです。桃色の吐息って彼女の唇から漏れるものなのかと思えるほど。布団などの小道具と寝姿だけでは出しえない女性の芯に潜むやわらかく永続的に燃えるなにかが彼女の唇からふっとうかびあがってくるのです。小道具の野菜が魔法にかけられたように淫靡な色に見えて・・・。たぶん、もっと軽い感じの演技で色香を消すこともできる女優さんなのだとは思うのですが、今回は演じるキャラクターの想いそのままに、場内全体を彼女の香りに染め上げてしまいました。しかも彼女には懐にもっとすごい爆弾を隠しもつような底知れなさが感じられて・・・。伊藤伸太朗もすべては彼女の夢と収束させるしかなかったのかもしれません。

(帯金ゆかりが演じる友部友子)

最後は帯金ゆかりです。彼女が演じる女性にはどこか破綻があって、それが妙に今っぽく見えます。あたりまえのプレーンなガラスの内側をみるような・・・。以前観た北京蝶々の公演のときにも十分堪能させていただいたのですが、帯金さんは感情変化の演じ方がスムーズではやい・・・。しかも、それぞれの過程における感情の出し入れが悪魔のように上手であることから、演じるキャラクターの内部に存在する心の不整合をあたりまえのように演じ切れてしまうのです。結果として、彼女が演じるキャラクターについても表層的な器用さから、キャラクターが本来抱える不器用というか頑固な部分が浮かび上がっていきます。ジャージの下に着ていたスクール水着姿というのはある意味とても象徴的です。妙にコンサバティブでありながら、とてもラディカルになりえるような部分が彼女の演じていたキャラクターそのままだから・・・。携帯電話を壊すシーンがあって観客は息を呑んだのですが、それは携帯電話が壊れたことよりも、その一瞬に帯金さんからあふれ出た感情の鋭さに観客が囚われてしまったからにほかなりません。こういう女優さんがさらに場数を踏んで体力をつけていくと大竹しのぶさんのような感じになっていくのでしょうね・・・。

さて、これら3人の女優の熱演に対して、伊藤伸太朗が演じる男は、いずれも彼女たちの内側にまで入っていくことをしません。最初に小杉さんが胸元で示した境界線のあたりで彼女たちとかかわっていきます。境界線から中に足を踏み入れることがないから、かみ合わないものがあるし無理解が存在する・・・。しかし、とまどい怒ることはあっても、彼女たちの世界をそのままシェアすることはしない・・・。ただ、その水着姿を写真に収めるだけ・・・。

でも、思うのです。「写真に収めるだけ」とは言ったものの、現実に自分を含めた世の男は小杉胸元境界線を越えて彼女たちにかかわることができるのか。たとえ男女が相手に魅力を感じたとしても、そこにはショーケースのガラスが存在しているし、よしんばショーケースの中に踏み込んだとしても小杉さんがシャツのボタンをはずして表した境界線をこえることなど簡単にできるわけがない・・・。もしかしたら5年、10年・・・、あるいは30年、40年とショーケースの内側にはいりこんだとしても、超えられない境界線かもしれません。そしてこの舞台が成り立ったように、その境界線を越えなくても、ショーケースの外側にいたってこの世のことは成り立ってしまうものなのかもしれません。

扇情的なキャッチコピーの元、小さな空間で演じられたこの舞台には、男と女という2種類の生き物の根源的な関係論が含まれていて、熱い夏の夜の余興というにはあまりにディープな真理を見せつけられたような気がしました。

非常によくできた企みだったと思います。

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天切り松 闇語り 小股が切れ上がった女を見る

最近「読み語る」という表現を見る機会が増えています。読むと演じる、考えてみるとその区切りって難しくて・・・。「ラブ・レターズ」のように読むという要素の強いものがあれば先日大銀座落語祭りで観た小沢昭一さんのように読むという要素を取り入れながらも芸で膨らまして広がりを作り上げているような舞台もあります。同じ大銀座落語祭でみた加藤武さんなどはやっぱり読むという要素が強かったですね。

読み語るという表現、必ずしも演じるという表現にくらべてあらわすものが少ないというわけでもなくて・・・。ただ、具体的に演ずるものを観る舞台にくらべて、より読み手と観客双方に素養が求められるとは思うのです。読むだけではどうしても伝わらないものというのがでてくる。自然とそこに読み手側から行間の感情のようなものがこめられ物語は咀嚼される・・・。でもそれを受け取る観客にも読み手の思いを感じるだけの資質が問われる。

演じてくれれば、観客側での資質の足りない部分も、役者の演技が埋め合わせをしてくれるのかもしれません。それでもすべてを演じて見せたからといって観客はそのすべてを受け取ってくれるわけではない。たくさん見せれば観客はその分自分がみているものへの依存を強くします。映画はもっと具体的に物語をみせてくれますが、その分、観客が自分の中でふくらませることの出来る部分は減ります。

具体的に演じる側が伝えたものを観客側がどれだけ受けて、それが観客側に持っているものをどれだけ膨らませるか、あるいはどんな色に膨らませるかが世の「表現」における勝負だと思うのですが、舞台上で読み語るという表現は、観客にゆだねる比率が高くなりやすいのでしょうね・・・。言い方を変えれば面でなく線描で表現される感じ・・・。ただしよい線の描き方がされていれば観客はそこからより芳醇な世界を膨らませることができます。線は読み手の声の強さ、間、表情までもとりこんで観客の資質のなかで見事な形を作っていく。

うまく言えなのですがバランスの問題なのかとも思います。

読み語るということだけではなく、何かを演じるということすべてにいえるのかもしれませんが、見せる物、ゆだねるもの、咀嚼するもの、観客側で膨らませるもの・・・。それらの要素がしっかりとかみ合ってバランスのとれた表現に至る作品を作り上げたり、観客からみてめぐり合ったりというのは、舞台の上と下双方にとって僥倖な出来事なのかもしれません。

(ここからネタばれがあります。公演期間中の書き込みにつきご留意をお願いいたします)

さて、8月13日に俳優座劇場で「天切り松 闇がたり」を観ました。朗読劇と称していますが、要は読み語りと芝居がが合体した作品です。

表現という意味では上記の僥倖が授かりもののようにやってきた作品でした。

すまけいさんはその中で自らが浅田次郎作の小説を、一人称の天切り松として読み語っていきます。本を読む中に虚虚実実の現実を織り込んで・・・。始まっていきなり携帯を鳴らした阿呆な客をしかりつけるところはハプニングでしょうが、仕立て屋銀次直系の誇りと寛容さを黒子役の増田英治との掛け合いで見せながら、ひとたび藤原道山の尺八の音色から物語に入ると、たちまちのうちに、昔語りとばかりに読む世界と演じる世界が溶け合って天切り松入門の下りに至ります。一門の男たちの気風のよさがまざまざと伝わって、その筋金入りの粋に聴いているほうの背筋が伸びてしまうほど。

落語などの極上の人情噺でもそうなのですが、演者の小さな息遣いやふっと投げやる視線までがしっかりと張り詰めています。自分のなかに物語を受け取っているはずの観客が、物語のなかに自分を放り込まれている感じ。尺八の音がさらにひろがって、その季節の風や建物の匂いまでがそこにあるようにすら感じます。

中盤、舞台転換や、仕立て屋銀次を上野駅に出迎える場面を経て(これも鮮やかなものでした。インパネスを翻し仁義をきる親分の描写には震えがくるほどでした)、鷲尾真知子さん演じる女掏りおこんが、舞台下手に登場します。明治の元勲山縣有朋の金時計を2度までも掏り取ってそれを大川に投げ込んで、司直に捕まったはずが、山縣の別荘古稀庵に連れて行かれたという設定。すまけいさんの語りが墨絵の味わいとすれば鷲尾真知子さんはそこに涼やかな色をもって浮き出す感じ。

そりゃ舞台上の作り事かもしれません。役者が演じているだけといえばそれまでなのですが、しかしこんなに凛とした女性の立ち振る舞いをみたことがない・・・。すっと風がとおるがごとき粋な物言いに、自らを貫く潔さ、なによりも相手を慮ったうえでの強さのようなものが鷲尾真知子さんの立ち居姿から伝わってくるのです。小股の切れ上がった女なんて表現がされるようですが、すまけいさんの作り上げた世界のなかで眩しささえ感じるその姿にはただ見とれるばかり・・。こればかりはどんなに朗読表現されても伝わってくるものではない。演じられたからこそ伝わってくるものでした。

山縣有朋との情感あふれる会話にも心溢れる感じがしましたが、それ以上にひたすらああ、よいものを見た・・・とため息が先に出てしまうのは観客としての私の力不足なのでしょう。それでも、ここまでやられると、そりゃ山縣有朋の葬列をとめて、その棺に古稀庵でもらった槍を納めてもらおうとするおこんの心意気が熱をもって伝わってきます。葬列をとめる無茶が何の疑いもなく納得できる・・・。凛としたものに秘められた熱を感じるなんてそうあることではありません。

舞台の納め方もほんとうによくできていで・・・。黒子のお茶の継ぎ足しをねたに語りを打ち切るところは、「終わり」の言葉をすまけいさんの演じるキャラクターにうまく乗せて、客に恨みを残さない粋なやり方だと思います。

来年の3月に続編があるそうですが、これはもう今から楽しみです。DVDなども出ているようですが、この雰囲気だけは生でなければ・・・。

観客の資質を慮り、見せるものと語るものを見事に綾に織った、まさに珠玉の90分でありました。こうなると劇場帰りに洋食や中華なんぞを食べる気がしません。きりっとしたおそばをいただいて帰り道についたことでした。

R-Club

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ひーはー、Piperワールドを支える家族

Piperの「ひーはー」を見ました。

まあ、ひたすら笑って幸せなカーテンコールを見れて大満足だったのですが、冷静に考えると非常に緻密な演劇だったような・・・。2004年の暮れに見た「スプーキーハウス」の最後のシーンで後藤ひろひと氏がモアスプーキーハウスをといっていたのですが、その約束を見事に守った形となりました。

(ここからネタバレがあります。東京公演は終わっていますが、他地区の公演はこれからだそうです。十分にご注意ください)

この「ひーはー」、物語の設定はきわめてスプーキーハウスと似ています。使われていない大きな家(今回は潰れたステーキハウスという設定)に半ば不法占拠のように住み着いた3人親子、そこにいろんな人間がやってきて、ドタバタ喜劇が始まるというもの・・・。スプーキーハウスの時には、取材に来たテレビクルーと泥棒に加えて神経質なとなりの住人が加わって狂気をさらに広げていました。今回は同じ設定の親子に車を沼にはめてタレントを見捨ててきたイベント屋のふたり、西部劇ファンのオフ会をそのステーキハウスでやろうとするグループに狂気を広げるのは親子の親の同窓生です。

後藤ひろひとは、いわば同じ容器を使いまわして、微妙にテイストの違う物語を構築していきます。誤解が誤解を生み物語が大混乱に陥る部分などはスプーキーハウスよりパワーアップしている感じ、また、銃などの小道具の使い方も厚みがましています。そしてなによりも動きが若干早くなり伏線の数が増えている感じ・・・。同じフレームでありながら3年前の面白さにとテイストが若干変わって進化している・・・。

道具立ても相変わらず洗練されていました。クロードチアリがらみのネタと外人部隊がらみの話に広がりがさらに大きい感じになっていました。

そもそもいくつかの掛け違いからの発展する度合いがちょうどよいのです。バランスがよいというか・・・。おまけにひとつの掛け違いと他の掛け違いの引っ掛け方に創意があります。ロジックが通っているにもかかわらずタイトでなくどこかラフなところがあって、すっと観客に入って気持ちよく出て行く。きっかけが多少強引であっても貫き通すところにもセンスが見られます。それらを支えているのが役者の出入りの緻密さとシチュエーションにあわせた演技の見事さ・・・。いくつもの異なる状況を同じ舞台におくので役者の演技だけが観客はたより・・・。それに役者は十分に答えてくれるのです。

おまけに借景で古くからのPiperファンへの配慮をわすれないところもリピーターにはうれしかったりして・・・。スプーキーハウスのときにもPiperがらみの旧作「ニコラスマクファーソン」や「スリーテナーズ」のつながりで知るひとぞ知るみたいな感じになっていましたが、今回は前作「スプーキーハウス」ねたがうまくちりばめられています。いちげんさんにも十分楽しめるのですが、おなじみさんにはさらに楽しめる秘密がちゃんと隠されているのです。

しかもエンタティメントとしてのつくりもばっちり・・・。今回は水野美紀の踊りがなかなか秀逸で魅せられます。それと「もじゃげ君の歌」というのがあるのですが、これが耳に残るの何の・・・。どうしてこういう歌を考え付きますかねぇ・・・。また山内・楠見のコンビで歌うとこれがはまるのですよ・・・。

ラストシーンもスプーキーハウスをそのまま踏襲した形でちゃんとつじつまを合わせています。

こういうコメディは見ていて本当に楽しい・・・。

時間の忘れさせるだけの力がある気取らない上質なコメディに、観客の拍手はなりやまないのです。

公演の記録:
東京公演:7月26日~8月12日@本多劇場でした

作・演出・出演: 後藤ひろひと
出演 :山内圭哉 楠見薫 平田敦子 川下大洋 片桐仁 竹下宏太郎 水野美紀 腹筋善之助
 
このあと、仙台(17日)、名古屋(22日)、福岡(25日)、広島(28日)、大阪(30日~9月2日)と全国を回るようですが、超おすすめです。

R-Club

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「砂利」 本谷有希子的「0」の発見に三津五郎の「静」なる演技

7月28日にダンダンブエノの「砂利」を見てきました。作が本谷有希子、演出が倉持裕というのがそもそも話題で坂東三津五郎が小劇場芝居に出るというのがもうひとつの話題、坂東三津五郎は私もかなり興味がありました。

まあ、結論からいうと坂東三津五郎を本谷・倉持はよく使い切ったと思います。それも贅沢に・・・。

これまでの本谷作品って、温度差というか感情の差で物語に起伏をつけていたような部分があると思うのですよ・・・。登場人物はある部分が冷えていたり、逆にある部分に異常なまでの熱をもっているという人が多かった。でそれをスタビライズする人間は温度差が作り上げる風に吹かれて右往左往するわけです。前回私が観た彼女の作品、「ファイナルファンタジックスーパーノーフラット」においても作家の旦那兼編集者がその役をしていて、うさ耳の男の作り上げた世界と現実のとも綱の役割をはたしていました。

(公演は終了していますが一応この下にはネタバレがあります。ご留意くださいませ)

ところが、今回坂東三津五郎の演じるキャラクターは温度を発しないのです。熱くも冷たくもないという設定。そんな彼が役として舞台の中央にきているから、彼が他との相関関係を描いていくというよりは、彼が演じる蓮見田というキャラクターとの温度差をだれもが自らのペースでなんとか維持していこうというような感じになる・・・。

蓮見田がある意味一定の温度で支えられているのは片桐はいり演じる同級生を昔いじめて最後に受けた捨て台詞が記憶に残っているから・・・。その仕返しへの恐怖が不思議なことに彼に熱を与え平安を保たせているのです。また、彼の兄弟や居候たち、そして妻までもその環境を維持しようとします。その世界では優先順位が蓮見田が安定するためということでつながっているようにすら見えます。

ところがそのバランスはとあることから簡単に崩れます。実は蓮見田の妻の姉、際(名前です)こそがそのいじめられっこ・・・、それがひょんなことから同居をすることになります。蓮見田が恐れていた昔のいじめの仕返し・・・、ところがそんなことはいじめられた際のほうはまったく気にかけていなかった風なのです。

行き場のなさというかまわりの作られたテンションによって熱をもらっていた蓮見田はもはや熱を維持することができず、そこから悲劇のような喜劇がうまれていきます。これまでの本谷有希子はその段階であや織りにされたたてまえを解くようにそれぞれの本音を浮かび上がらせていくのですが、今回はいつものように登場人物をもろにすり合わせるのではなく、舞台の中央のブラックホールを利用することによって登場人物のキャラクターを照らしだしていきます。所詮行き場のない感情を吸い込んでくれていたものがその機能を止めたとき、それぞれの実態が浮かび上がっていく。本谷流「0」の発見とでも言うのでしょうか・・・。

倉持裕の演出は本谷有希子自身が演出する場合に比べて、個々のキャラクターをはっきりさせるような傾向があり、それゆえに三津五郎の「0」がさらにしっかり浮かんでいたような・・・。もし、本谷自身が演出すればきっともっとゆっくりとキャラクターの本質が立ち上がり、染み入るように観客に伝わっていくのでしょうが、倉持演出では当初からそれぞれの登場人物の細胞の形がしっかりと出るような感じなので「0」の存在も際立って見えて・・・。くっきりとした形で舞台に存在する行き場のなさが浮かび上がっていきます。

しかも、たぶん歌舞伎役者の方って動の演技だけはなく静の演技にも長けていらっしゃるのですよね・・・。見た感じには歌舞伎の歌の字もない演技の中に大和屋としての静の演技が隠れている感じで、それが砂利を踏むところで一気に溢れてくるような・・・。不安定な安定から一気に静の演技に落ちてそこからさらに溢れるものを出せる力がこの「0」をもう一段しっかりと見せたような気がします

一方「0」の距離感や強さで演じる役者たちも、そりゃ手練ですから当然に見ごたえがありました。近藤芳正の寄る辺のないところから距離を作ったり縮めたりするセンスは本当に観客を舞台に引き込んだし、逆に「0」を無視するように一定の間隔を取り続ける田中美里にも力を感じました。山西惇、酒井敏也はそれぞれ世界の両端(山西さんは観客側から中立の目で見ている感じ、一方酒井さんは物語のさらに深いところで象徴的に物語の端を定めている役回り)にいるのですが彼らが「0」の吸引力に時々足元をふらつかせながらも自分の位置をしっかり守っている感じが舞台に更なる深さを与えていたような気がします。

観客として舞台上に存在した感覚が好きかといわれるとかなり疑問なのですが、その「0」の感覚はしっかりと刻まれた感じがします。それは役者たちの技量によるところも大きいのでしょうが、このテイストを異なものとせずに受け入れられるまでに物語を作り上げたのはやっぱり本谷さんの力なのでしょうね。

ナチュラル演技の三津五郎の力と本谷さんのたくらみの深さがあとでじわっときた、一件だらだら風で実は力に満ちた2時間の舞台でした。

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