« あひるなんちゃら「毒と音楽」、価値観をずらしての脳マッサージ・・・ | トップページ | 「THE BEE」 野田秀樹の正しい狂気 »

劇団本谷有希子の描く世界は淡々と

たまに、本当によい芝居を観たと心が満たされているのに感想を書けないことがあります。たとえば、観ていてこれはこういう芝居だと頭のなかで組み立てができても、別の声が聞えてくるのです。「違うよ・・・。自分で違和感があることわかっているくせに!」って・・・。

劇団本谷有希子の「ファイナルファンタジックスーパーノーフラット」を観て久しぶりにその状態がやってきました。この芝居、観終わったとき、心の中では希望と絶望がなかよく縁側でお茶を飲んでいたりするのです。

(公演がもう終わっているのでネタバレといってもしょうがないのですが、ここからは芝居の内容が含まれますので一応申し添えておきます)

お芝居では、ひとりの男性とその理想として存在しようとする何人もの女性達の遊園地での共同生活が前半に描かれます。そしてそこに取り込まれたひとりの女流作家と夫(編集者)、さらには夫の部下で女流作家があけた連載の穴まで埋めている夫の部下・・・。さらには女性達を統率する役目の一人の女性・・・。

遊園地に住み着く男女には濃密な関係があるように見えるのですが、物語がすすんでいくと、実はその関係がおどろくほどに希薄であることに気付きます。女性達はそれぞれ自分に満たされないものを得るためにそこにいるし、男は自分が失いたくないものにしがみつくために遊園地を維持しようとしている。

呉越同舟というか同床異夢というか・・・。結局自分を思いやっているに過ぎない。

破綻自体は簡単に訪れます。遊園地が維持できないというゆさぶりから、それぞれが求めているものの違いがあっけなく露出してしまう・・・。本谷有希子は冷徹なタッチでその崩壊を描いていきます。

終盤、「お時間です!お時間です!」砂上の楼閣を維持するためのお祈りの時間を告げるそのタイマー音はいつしか、男のモラトリアムの終了を告げる音に変わって聞こえて・・・。痛みとか苦痛をふっと乗り越えて男は観覧車に乗り、うさミミをはずす。

男も他の女性達も、遊園地がなくなることで、実はなにも失っていないのです。ただ、遊園地に来る前に戻っただけ。

遊園地のライトがすべてを象徴しています。理想の女性に永遠の愛を告げるときその電気は消えて、すべてが元にもどるとき再びライトが点滅して、男は理想を捨てはかないかもしれないその愛に身を託すことになる・・・。

「現実に逃げる」ってな表現がありました。逆に言うと遊園地でくらす人々は現実のなにかに背を向けている人ということになります。遊園地にいることで正当化されたモラトリアムが維持できなくなったときの男や女達の姿を本谷は冷徹に描いていきます。その先に希望があるか絶望があるかを観客に告げないままに・・・。そう、現実に戻るしかないことが希望につながるのか絶望を招くのか、芝居は何も描こうとしません本谷さんは、遊園地の外側にあるものが、希望であれ絶望であれ、受け入れるしかないのだということを示すだけです。

そして、観客は希望と絶望の茶飲み話の結論を考えるとき、本谷さんの表そうとするものの深さに感嘆してしまうのです。希望なり絶望なりは所詮人が自分の事情でつけたもの・・・。そして自分で背負うもの・・・。

劇場を出たとき、ふっと、自分が勝手に自分の思いで色をつけていたその日が、少し無機質に感じられたことでした。

役者の話をすこしだけ、すほうれいこの演技にはクリアさと勢いを感じました。吉本菜穂子の怪演じるにも目を奪われました。他の役者達も堅実な演技で見ているものに違和感を抱かせることはありませんでした。高橋一生さんは、芝居にきちんとしたトーンがあって、そこから逸脱しない演技を続けたことが今回彼の役の説得力につながっていたと思います。

「遭難」、さらには今回のお芝居を拝見していて、彼女の表現はこの先どんなベクトルへと広がって行くのかと思います。ダンダンブエノの彼女の作品(砂利)も本当に楽しみになりました。

R-Club

|

« あひるなんちゃら「毒と音楽」、価値観をずらしての脳マッサージ・・・ | トップページ | 「THE BEE」 野田秀樹の正しい狂気 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 劇団本谷有希子の描く世界は淡々と:

« あひるなんちゃら「毒と音楽」、価値観をずらしての脳マッサージ・・・ | トップページ | 「THE BEE」 野田秀樹の正しい狂気 »