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The Hit Parade ミュージカルレビューとしてのパワー

しばらく前でしたがNHKBSでザ・ピーナッツの特番をみました。歳がばれますが、私にとってザ・ピーナッツはリアルタイムの世界で・・・。まあ、まだJazzなんてわからない子供でしたけれど彼女たちが「シャボン玉ホリデー」で歌ったりコントをやったりしていたのをよく覚えています。今にして思えば「スターダスト」という番組の一番最後に彼女たちが歌うナンバーは私が一番最初にメロディを覚えたスタンダードナンバーだったかもしれません。特番で見た彼女たちは私が小さなころ見た彼女たちのイメージを持ちながら一方で稀代のエンターティナーでもありました。映像を見ながら「ウナセラディ東京」の情感に浸って・・・。「恋のバカンス」の躍動感に心を躍らせて・・・。彼女たちのコーラスのクオリティ、寸分も狂わないハーモニーでありながらハーモニーに縛られることなく情感深く伸びやかに歌い上げるその姿に、何十年も前の映像でありながらそんなことどこかに飛んでしまって・・・。もしも願いがかなうなら彼女たちのコンサートを是非に見たいものだと思ったことでした。

さて、「ザ・ヒットパレード」です。渡辺プロダクションの創始者、渡辺晋・lミサ夫婦の半生を描いたミュージカル・・・サブタイトルに「ショーと私を愛した夫」とあります。実は予定がたたなくてあきらめていたのですが、ひょんなことから会社を定時退社できる日(27日)があって、当日券に並んでみることができました。

もし、この作品をミュージカルとして一元的に点数づけするとすれば・・・たぶん90点くらいでしょうか。物語の構成や脚本、ダンスのクオリティなどを見るとやっぱりブロードウェイミュージカルからは1ランク下がる感じで・・・。まあ、和製ミュージカルといわれる作品群の中では構成もきわめて良質なほうだと思うし、とくに振付などにはウィットを感じさせる部分も多くスピード感もあったのですが、まだ100点ではない・・・。入場料は10000円と来日した「プロデューサーズ」などとそんなに違わない・・・。もしこのミュージカルを渡辺夫婦の評伝ととらえるならば物語が希薄というか、線描で時代を描いた程度の内容だし・・・。時間的な制約があるにしても、もっと上手な表現をすれば、特に黎明期の渡辺プロダクションの物語はもっと膨らんだに違いない・・・。

しかし、このミュージカルを見終わって、駄作だとはまったく感じませんでした。それどころか私が見た国産ミュージカルとしてはまさに出色の出来・・・。物語が多少疎であっても、ダンスが多少ゆるくても、この作品には間違いなく観客を引っ張っていく力がある・・・。渡辺プロが創りだした音楽たちのレビューとしてみるならば、これは非常にクオリティの高い作品・・・。

(このあたりからネタバレ入ります。お気をつけくださいませ・・・)

とにかく音楽がキャッチーですごいのです。昭和30年代から40年代、さらには50年代くらいまでのヒット曲が次々と登場してくるのですが、その見せ方の見事なこと・・・。出演者たちも歌という点では、そのころの音楽を夢のように歌えるのです。主人公の原田泰造や升毅の歌はご愛嬌にしても、戸田恵子は歌でストーリーを構築していくことなどお手のものだし、北村岳子もここ一番のボーカルはしっかりと聞かせます。一幕最後のメドレー、ナベプロが世に送り出した曲たちはきらめくばかり、オンステージバンドにのって至福の時間が流れます。Rag Fairがステージのグルーブ感をしっかりと支えているのが大きい。オンステージのバンドにも切れがある。それらの100点仕事を土台に北村、戸田達がもう一段上の世界を積み上げていく・・・。ふたりとも安定感は抜群で観客が安心して身をゆだねられるのが、舞台全体の贅沢な心地よさにつながっていきます。

しかし、なんといってもすばらしいのが瀬戸カトリーヌと堀内敬子のザ・ピーナッツです。前半はどちらかというと全体の中の女声を支える部分が多いのですが、それでも彼女たちの声が観客を酔わせるような部分がいくつもある。2幕に入ってザ・ピーナッツとしてのスタイルでの歌が中心になるとその輝きは一気に増します。2幕の「ラバー・カムバック・トゥミー」のスキャットは99.9%乱れることなく重なり(ミキシングのせいかもしれないけれど1箇所だけほんの少しばらついて聞こえた)、観客は心地よさと高揚感に一気に浸される感じ・・・。

圧巻はそのあとの「ザ・ピーナッツメドレー」でしょう。たぶん当時ピーナッツが歌っていたのとまったく同じアレンジだったのでは・・・。小さなころテレビで観たときのザ・ピーナッツのハーモニー、「恋のフーガ」、「恋のバカンス」、モスラのテーマソングのあと「ウナセラディ東京」、テレビのなかで観たものの再現というよりは、テレビの中の世界がリアルに飛び出してきた感じ・・・。120%重なり乱れることのない独特のハーモニーやリズムに乗ったからだの動き、オンステージバンドとの一体感、観客を浮かび上がらせるようなリズムを超えたのり、なにより瀬戸・堀内の表情が、本来の役柄を超えて、歌うことの至福を目いっぱい楽しんでいるような輝きに溢れていて・・・。それがさらに観客の高揚を高めていきます。

いつまでも終わらないで欲しいという想いの中、「ウナセラディ東京」の歌詞のごとく舞台ではひとつの時代が美しく夕暮れの光を落とし、自分たちが幼いころブラウン管を通じてみていたものがリアルではこれほどまでにすごいものだったかと気づく・・・。一気に心に流れ込んできたものが、ゆっくりと観客自身の時間と同化していく。なにか本当に豊かで満たされた気持ちになりました。NHKBSで描かれたザ・ピーナッツの世界を眩いばかりに目の前に再現して見せた、彼女たちの「歌力」にはただ瞠目するばかりです。

あと、この舞台にはもうひとつすばらしいなと思えるところがありました。なんていうのだろう、このミュージカル、指の先までしっかりと演技がなされている感じがするのです。場ごとの緊張感がちゃんと舞台の隅々までつたわっているというか、その場に登場する役者たちの緊張感が舞台の一番すみであってもぴんと残っているというか・・・。そのため舞台全体が非常に締まった感じで見ていて実に気持ちがよかった。指の先まで神経が行き届いている舞台には不協和音がないというか、力強い一体感が感じられるのです。

さらには、それが渡辺プロダクションの伝統なのかはわかりませんが、舞台の役者だけではなく当日券販売への対応からホワイエ、ロビーのスタッフにいたるまできちっと指先まで神経のこもった仕事がされていました。エレベーターの対応から物販、開演時・開演中の観客の誘導にいたるまで・・・。こういうことはノウハウの集積であると同時に舞台を作る事に対してのスタッフの意識の問題でもあるのでしょうか、スタッフの行き届いた対応は観客にショーへの期待/余韻を大きく膨らませる力になるのだと感じました。

最初に書いたようにこの舞台をミュージカルとしてとらえるならば、もっとクオリティを上げうる余地があるし、評伝としてとらえるならば、ものたりない。でもこのミュージカルには100点満点で130点の部分が何箇所もある・・・。

考えてみればミュージカルというものは構成要素が全部及第点であってもおもしろくもなんともないものなのかもしれません。80点あればベースの部分で観客はそれなりに満たされる・・。観客を満足させるために必要なのはベースを100点にまで持っていくことではなく、たとえ1箇所でもいいから130点の見せ場を持つことなのかも・・・。そして、この作品にはそのような130点が何箇所もあったということなのだと思います。

帰り、人通りが若干少なくなった銀座通りを大満足で歩きました。心を浮き立たせる舞台というのは人の足取りを軽くするのです。仕事帰りで疲れていたけれど地下鉄の駅までが素敵な道のりになりました

R-Club

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NAMの発表会、目から再び鱗が・・・(少し改訂)

21日の夕方、私が注目している劇団、空間ゼリーさんがかかわっていらっしゃるワークショップの発表会を拝見してまいりました。前回拝見したものがあまりにも興味深かったので、歌舞伎(十二夜)の帰りに寄ってしまいました。場所は川崎ラゾーナの5F。

前回はリーディングなどもあったのですが、今回は3つのオリジナル戯曲を元にした発表会。但しそのうちのひとつは二人芝居なのですがひとりだけ役者を変えて2回演じられます。

正直いって役者さんのレベルにはかなりばらつきがあります。でも、それをあまり感じずに戯曲に没頭できたのは、3つの戯曲とも戯曲の屋台骨を支える力をもった役者さんがちゃんと配置されているから・・・。芝居というのは役者の個人的資質が問われると同時に役者間のバランスが問われる表現なのだということなのでしょうね。

一番おもしろかったのは、「時給800円シリーズVol2」。この戯曲の舞台になっているマンガ喫茶は前回の発表会にも登場しました。人間関係のバランスや登場人物それぞれの想いがしっかりと浮かび上がる脚本なのですが、たぶん一番難しいであろう新たにマンガ喫茶に面接を受けに来てかき乱すロールの役者さんにはしっかりとした人が配置されています。

最初、導入の部分の出来を見て、実はすこし不安な感じがしました。舞台空間全体に張りがないというか、役者さんが役をこなそうとしている雰囲気がなんとなくあって、芝居がざらついた感じがしたのです。しかし、乱し屋さんが入ってきてから雰囲気が一変します。その役者さんが舞台空間にはいった瞬間舞台が明らかに締まりました。表裏を持つ女性を演じるその役者さんには、舞台空間に色をつけるような力があって、空間全体がばらけずに均一な緊張感に包まれていきました。

結果として、その役者さんがはけたあとの芝居の出来も最初と見違えるよう・・・。古参の店員と店長代理、さらにはどじばかりしている店員が出てくるのですが、それらの会話や想いが、魔法でもかけられたようにきちんと、しかもスムーズに観客に伝わってくるのです。ちなみに、この戯曲には、防犯カメラで漫画喫茶の中を監視する女性刑事(?)役が設定されているのですが、彼女の設定がとてもよく出来ていて物語の幅を大きく広げていたように思います。刑事を演じた役者さんもしっかりと抑制された演技で物語にくびれとボリュームを作っていました。

夏子と二つの眼鏡」は設定におもしろさがある戯曲です。2回演じられました。夏子さんと同棲しているつもりの2人の男が部屋であってしまうという、不条理とまではいかないにしてもちょっと不可思議な設定ですが、2回ともおなじ役を演じた役者さんにきちんとした勢いがあって、それぞれの相手役の役者さんがそれにうまく乗った感じの仕上がりでした。相手役の役者さんも特に演技に不安があるとかではないのですが、舞台の強弱をつくっているのは同じ役を演じた役者さんの方、そのコントロールが上手で、観客は戯曲自体の後ろにある夏子像というか彼女の価値観や姿のようなものをかなり明確に感じることができました。どちらかというと戯曲というよりは短い物語の断片のような印象もありますが、内包している2人の想いの落差もおもしろく描かれていて秀作だと思います。

シャンパンレディー」も前回発表会にあったシリーズです。コンサルティング営業の教科書のような部分があってちょっと仕事を思い出してしまいましたが、戯曲のフレームはよく出来ていたと思います。また、店員の女性がスカートを売る手順が流れるようで・・・。この物語を支えていたのは彼女と客のナチュラルなやり取りだったと思います。ふっと引き込まれるような流れが舞台にあって魅せられました。

まあ、正直いうと物語の尺に対して登場人物がちょっと多すぎる感じは否めなくて・・・。それで物語全体が散漫になり緊張感のようなものが希薄になった感じがしました。特に店長のフィアンセの女性が販売に成功する部分っていうのは感動的なシーンなのですが、その場にいる人数の気配が多すぎるような・・・。みんなロールを持ってはいるのですが、空間にメリハリをつけるためには気配を消す演技というのも必要な気がしました。

合計で1時間ちょっとの時間ですが、終わってみれば時間が非常に短く感じられて・・・。今回も前回同様マジで楽しむことができました。発表会というだけでなく、観客を取り込んだ公演としても成立するクオリティをもっていた。エンターティメント的な成功要因としては演じられた戯曲ごとに見せるものがはっきりしていたのが大きいかもしれません。構造的にも良くできた作品だったし…。ちゃんと役者の演技から垣間見ることができるものが用意されている感じ・・・。さらに演じることにまだためらいがある役者がいても、上手な役者が空間を操って引っ張っていくところなども興味深くて・・・・。それらの環境がととのっている上に、観ていて演じる者の真摯さがすごく伝わってくるのですよ。それは演技の技術だけではなくその場で役者自身が与えられたロールとして溢れさせる意思のようなもの…。その意思が観客の重心をふっと舞台側に引き寄せるのです。

前回もそうでしたがワークショップに参加されている役者だけではなく、観客にとっても演じるということの本質を感じさせる力がこの催しにはあったような気がします。

今回もまた目から鱗が落ちるような部分もいくつかあり、帰り際、思わず、小額であってもどうしてもカンパを出したくなってしまうような魅力のある催しでございました。

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同じ幹からでたちょっと違う枝 野田MAP 「THE BEE ロンドンバージョン」

これもちょっと間があいてしまいましたが、15日に野田MAP 「THE BEE」のロンドンバージョンを見てきました。

昼間はポツドールで三鷹、夜はポツドールで三軒茶屋、台風を気にしながらの移動でしたが、雨にもあわず風もそんなになく・・・、心配しただけ損をした感じ・・・。本当に騒いだときっていうのは案外物事がうまく運ぶようです。逆に翌日の中越沖大地震のニュースにはびっくりしました。

(ここからネタばれです。未見の方はご了承の上お読みくださいませ)

ロンドンバージョンと日本バージョン、台本が同じだから、舞台上のせりふはほぼ同じです。しかし後半部分の印象はやや変わったものになっていました。

実は事前情報から野田秀樹の女性役と主人公女優(キャサリン・ハンター)の男性役がどのような効果をもたらすかを一番注目していましたが、これは日本版とほぼ同じようにというか、ごく普通の男女関係として機能していたように思います。英語のニュアンスだとなにかあるのかもしれませんが、私には男女を入れ替えたキャスティングに特別な意図がまったく感じられませんでした。キャサリン・ハンターは一貫して男性としての誇張がなく男性を演じていたし、野田秀樹は女性の誇張をすることなく女性を演じていただけ。。野田は、たとえば「贋作罪と罰」でも女装をして老婆を演じましたが、その時には男性が女装をすることで役が持つ因業な部分を強調するような意図を感じました。しかし、今回は女性であることへの強調自体がまったくないのです。しかも女性だった。

たぶん、それでもニュアンスの違いを感じたことについての一番の理由は舞台装置だったかもしれません。。紙を大胆につかった日本語バージョンに比べてロンドンバージョンは透き通った壁、モールドっぽいゆかとゴム紐で舞台を作っていきます。前半の感じはそれほど変わりなく、登場時の主人公にある種の小心さが現れていた日本バージョンに比べてロンドンバージョンではビジネスマンとしての成熟が感じられたくらい。このあたりはサラリーマンの国民性の違いなのでしょうね・・・。後半、主人公の立てこもりに入ってから物語のニュアンスが日本バージョンとロンドンバージョンで若干変化したように思います。紙であらわされた床や不透明な壁は立てこもった世界の閉塞性を強調し、紙が千切られてぼろぼろになっていくさまは、暴力の果てに崩れていくものの暗示のように感じられました。一方ロンドンバージョンでは広報の壁の外側がより見やすくなっており、立てこもられた壁の中での崩壊とそれにあわせて閉塞的であるはずの家の外でルーティンが回るというか暴力を前提としたシステムがあたりまえに家の外にまで構築されていく様が強調されていきます。

最後のニュアンスも違います。日本語版では蜂が映像として具現化し、やがて家ごと消えていってしまいましたがロンドンバージョンではあくまで主人公はそこに存在し続けます。そこで、観客の狂気に対する視線が変わるような気がする・・・。日本語バージョンでは狂気が個人の錯乱の中で霧散するように収束していくイメージなのに対してロンドンバージョンでは主人公がその狂気を最後までまとっていくイメージになります。

結果として、ロンドンバージョンでは狂気が淘汰した世界のなかに生まれた日常を主人公がしっかりと背負っていくというような印象になる・・・。日本バージョンでは主人公が狂気なかに生まれた日常に埋没していく感じなので、幕が下りたあとの印象というかテイストがその分(実はかなり)異なって感じられたような気がします。

どちらにしても、狂気が発露してさらに安定していくことの恐怖については同じように強く観客に衝撃を与えていたと思うのですが、(実際私は物語がわかっていてもその空気に息が苦しくなった)、その収束の差は日本とイギリスの根源的な文化の違いもあるのでしょうね。とても興味深かったです・・・。

ところでちょっと役者のこと、ロンドンバージョンの役者もよかった・・・。動きに無駄がなく、表情や体のこなしだけでも物語を観客に伝えてくれる・・・。英語が理解できない部分が何箇所もありましたが、字幕に目をやる前にニュアンスだけは肌で伝わってくるような・・・。その伝わり方がダイレクトなのでちょっとびっくり。野田秀樹が完全に女性になりきった演技にも感服しました。過不足なくぴったりと女性でしたものね・・・。

同じ芝居をいろんな表現で見るということも面白い体験でした。今回も単に二度同じ芝居を見るということ以上にその戯曲に対する理解の幅が深まった様な気がします。また、いろいろな解釈や表現が生まれる戯曲というのはやっぱり秀逸であることなのだと思います。正直両バージョンを見ることができてとてもラッキーだったなと思っています。

R-Club

PS:そうそう、自戒をこめてなのですが、劇場に足を運ぶ前にはあまり匂いの強いものなどを召し上がらないようにしましょう。この公演で私の隣に座られた方、ものすごい口臭をお持ちでかなり閉口しました。ドリアンとにらとにんにくを生ごみにしたものを召し上がったような匂いが波のように押し寄せてきて、扇子にしみこんだ香料でなんとか我慢する始末・・・。思わず舞台上の主人公が銃を放つ時天井ではなく彼を撃ってくれたらと念じたことでした。

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人間失格 ポツドールの描く柔らかな腐敗

ちょっと書き込みが遅れましたが先週の日曜日にポツドールの「人間失格」を観てきました。

台風が近づいていたのでどうなるかと思ったのですが、意外なことに三鷹駅についたら雨はあがっておりまして、ちょっと拍子抜けでした。

<span style="color:#ff0000"><span class="large">(ここからねたばれです)</span></span>

お芝居は、ポツドール風静かな演劇で始まります。部屋にはひとりの男、どうやらバイトを一週間無断で休んでいるらしい・・・。携帯電話でパートナー探しにはまっている。

その一日、彼の生活に出入りする人間は彼から借金を取り立てようとします。男と金を美人局で毟り取ろうとする男と女。友人だったり昔の同級生だったり・・・。彼は抗うことなく、自分のプライドを失わないために友人に嘘をつき母から金を借ります。自ら蒔いたたね、しかし他人事のようにそこからくる精神的なつらさを別れた彼女に話します・・・。

彼の中で何かがゆっくりと腐敗していくのが痛いほど伝わってきます。とことんまで追い詰められたわけではない。母や元カノへ甘えることができる。現に甘える・・・。自分ですべてを受け入れるわけでも反発するわけでもない、その甘さが次第に腐っていくのです。

夢の世界で彼は自らの欲望を満たします。欲望と不満と怒りが混ざり合った腐敗の膿が噴出するように金を毟り取った男を殴打し美人局をした女を強姦します。

しかし、現実に戻ったときの彼の情けなさ・・・。怒りがしぼんだ中で、彼はふたたび惰眠をむさぼるのです。

演出がとても秀逸で、淡々とした会話劇に近い構成の中で、主人公の想いが劇場の空気に拡散するように観客に伝わってきます。オーソドックスな作劇の中で主人公の鬱屈がみごとに醸成されて・・・。それゆえほとんど闇のなかで繰り広げられる暴力的なシーンすらおぞましいだけでなく切なく見える・・・。行き場のない憎しみのようなものが切なさに変化していく・・・。

昔、村上春樹の初期の作品を読んだとき、「ねずみ」と呼ばれる登場人物の心が腐敗していく部分に戸惑ったことがあります。それまで生きながら腐っていくというような感覚に思いあたらなかった・・・。この舞台にはその「ねずみ」が抱えた腐敗とどこか同じ匂いがあって・・・。しかも村上春樹のような文字での概念ではなく、腐敗は肌を通じて舞台上から伝わってくる・・・。

本当に追い詰められることなく溜め込まれた不満は音もなく腐るのです。自分を擁護してためた不満は腐るとまとわりつくような腐敗臭を放つのです。その腐敗臭がうっすらと舞台を包むとき、現実の腐敗臭が漂う中に身をおく自分や世の中に思い当たり、その匂いを完全に遮断できない、あるいは自らがその腐敗臭の根源になっているかもしれないことが恐ろしくも感じられて・・・。

地味ではありますが、綿密に築き上げられた脚本と役者たちの演技には間違いなくその匂いを醸し出して舞台に送り出す力がありました・・・。演出の勝利だし役者たちに自らが具現化しているものに耐えるだけの力があるということでもあるのでしょうが、観客にとっては「良くできました」と拍手するにはちょっと重過ぎる何かが懐に放り込まれてしまってた感じで・・・。

以前のポツドールに比べて扇情的な演出が抑えられた分、心の深い部分に漂うものがあぶりだされたような・・・・。今後のポツドールの作品からはますます目が離せない雰囲気になってきました。

R-Club

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志の輔の静 福笑の動 小三冶の枕とバランス感覚

中越沖地震、大変でしたね・・・。いや、実は16日、大銀座落語祭を見に銀座にいくので池袋で有楽町線を待っていたのです。すると電車が地震で遅れているとのこと・・・。まさかこんな地震が起きているとは思わなかったので、やんじゃそれは位に思っていたのですがまさかこんなことが起こっているとは思いませんでした。本当に大変なことが起こったときにはニュースなどでもすぐには伝わらないものなのですね・・・。

ところで、その大銀座落語祭、本当にたっぷりと楽しませていただきました。12日夜、16日昼と中央会館、それから14日夜には博品館劇場でたっぷり落語の世界に浸ることができました

12日の中央会館は

・桂雀々 代書屋   ・桂南光 ちりとてちん  ・桂ざこば 遊山舟 

・立川志の輔 柳田格之進

米朝一門の中核3人のそろい踏みはなかなかに聞き応えがありました。ざこば師匠の一言でぽーんとはめものが入り一瞬にして中央会館を夏の大阪の町に色をかえるところは本当に見事でした。ちょっと湿った夏の風まで吹いてきそうな感じ・・・。

雀々師匠の代書屋には勢いがあって、枝雀師匠のエッセンスをちゃんとついでいらっしゃるのが本当によくわかる出来で・・・。それに比べて南光師匠のちりとてちんにはしっかりとした落ち着きがある・・。オーソドックスですががっちりと手のひらに乗っているというか、安心感のあるちりとてちんでした。

上方落語の三師匠がそれぞれに華を持った高座であるのに対して志の輔師匠の高座はある意味侘びの世界に入り込んだような高座で・・・。「柳田格之進」、難しい噺だとおもうのですよ・・・。元は講談の世界の物語だったものを古今亭志ん生師匠が落語に焼きなおしたのだそうで、それゆえ噺に折り目のようなものが求められると思うのです。きちんと語られていなければならない・・・。でも、しゃちほこばって演じると、この噺が持っている含みと余韻のようなものがでない。

志の輔師匠の語り口、特に柳田格之進と番頭の会話はこのバランスが本当に見事で・・・。感情をぐっと呑み込んだような一言ずつにこめられた武士の思いがしっかりと伝わる・・・、しかもしなやか・・・。誘い込まれるように聞き入ってしまいました。あの密度、どう表現すればよいのでしょうか・・・。気がつけば息をつめるようにして聞き惚れておりました。しかもサゲの部分まで本当に丁寧な演じ方で最後のお辞儀の指先まで神経が行き届いている感じ…。感服しました。

14日は爆笑新作落語会@博品館劇場・・・。新作落語なのでお題は省略しますが、

・笑福亭瓶成 ・春風亭栄助 ・笑福亭たま ・林家彦いち ・月亭遊方 ・桂三象 ・三遊亭歌之介 ・林家しん平 ・笑福亭福笑

初見の噺家さんも半分以上いらっしゃいましたが、一人ひとりの出来のよいこと。まあ、台風が近づく中での高座でしたので、そんな中やってきた酔狂なお客を、目一杯たのしませてやろうというような気迫がぎらぎらしていて・・・・。なんかぐいぐいと演者が観客を押してくるような感じすらしました。ただ、噺家さんによっては自分の勢いを自分でコントロールできなくなるような場面も多々あって・・・。それでも噺家さんの汗が観客を沸かせ観客の笑いが演者をさらに盛り上げる。よい高座と客席の循環が現出していました。その中で歌之介師匠の熱い冷静さは特筆もの・・・。しっかりしたスキームをもってそれを粛々とこなしていくような堅実さがありながら、同時に観客に熱を伝える強さがあって・・・。観客を力技でねじ伏せるだけの技量がある・・・。思わず聴き惚れてしまいました。

しかし、そんな中でも、トリの笑福亭福笑師匠の高座はやはり別格です。お題は「葬儀屋さん」、父親が死ぬ愁嘆場がたちまち遺族の欲と非常識の博覧会にかわり、そこに関西弁でいうええキャラクターの葬儀屋さんが絡んでいくわけですが、その緩急が抜群で・・・。ネタばれになりますから内容はあまり書きませんが、葬儀打ち合わせのシーンでの積み重ねるような笑いだけでも十分濃いのに、本葬のときのたたみかけるような笑いのさらにすごいこと・・・。客を休ませない、過呼吸を引き起こさせるほどのスピード感と力量をもった笑い。斜め前にお座りになられていた品のよいおば様が身を捩じらせて椅子から落ちそうになるほど・・・。私も腹筋をやられた…。

今日の時点でも、私は福笑熱の後遺症で・・・。某スープの名前を聞いただけで思い出し笑いがどわっとやってくるし、お葬式の看板みると猿の逆立ちや猫のさかってるのを思い出しそうになる。「xxxがなくても葬式できる」の名言はしばらく耳をはなれませんね・・・。正直笑い疲れた。こんなにぐったりするほど笑ったのは久しぶりで・・・・。こんなんいつ以来やろと考えてみたら去年の夏に行った福笑師匠の独演会以来でした。

余談ですが、福笑師匠はもっとちゃんとDVDやCDを発売しないとあかんと思います。中央会館で山野楽器が落語CD・DVDの臨時売店を出していたのですが、福笑関連のものはひとつもありませんでした。お店にいってもやはりほとんど見つけられないですね…。至芸の域に達したものは何らかの形で残しておけば、、ファンも喜ぶしこれから落語を愛するであろう新しい聴き手にとっても、落語の世界を楽しむための素養につながるというというものです。そして、これからうん十年後に噺家の修行する方たちにとってもかけがえのない財産になるはず…。ご本人の落語に対する考え方とかもあるのかもしれませんが、米朝師匠などのやり方(55歳までに自分の仕事を整理しておく)なども一理あるわけで・・。ふっと20年後の危機感のようなものを感じてしまいました。

16日はちょっと親孝行をかねて母をつれて中央会館へ・・・。

最初に加藤武・小沢昭一の朗読芸(?)がたっぷり一時間・・・。加藤さんの朗読は昔徳川夢声さんがラジオなどでやられていた感じではなかったでしょうか…。司馬遼太郎の「宮本武蔵」から(かざぐるま)の部分を読まれていましたが、何気に入り込んでしまった。私もリアルタイムで聞いたわけではないですけれど、テレビの特番などで徳川夢声さんの朗読が再現されているのを聞いたことがあって、心に染み込んでくるような朗読のスタイルはなんとなく知っていました。小説の内容が立体化されたような・・・。不思議な時間でした。

小沢昭一さんの朗読は、鉦や木魚などの鳴り物をつかって、もっと立体感を出していました。永井荷風作の「榎物語」の朗読でしたが、地の部分と音に合わせてラップのように語る部分のコンビネーションが抜群で・・・。元は市井の雑芸なのかもしれませんが、エッセンスが昇華されてすばらしい芸になっていました。語りにリズムがつくと説得力が飛躍的に向上することがよくわかりました。

米朝師匠とのトークショーがそのあとあったのですが、小沢昭一さんと米朝師匠って旧知の仲だったのですね・・・。昔話に花が咲いて、気がつけば米朝師匠の若かりしころの姿が舞台に浮かび上がっている・・・。小沢昭一恐るべしです。米朝師匠、舞台の上手にはけるときに舞台の後ろにおいてあった高座をちょっとの間見つめていらっしゃいました。やっぱり舞台に出たからにはなにか噺をしたく思われたのかもしれません・・・。見ていてちょっとだけ切なかった・・・。

最後は柳家小三冶師匠の高座、枕からぐっと人を惹きつけます。びっくりしたのは数ヶ月前に高座で突然話が出てこなくなった話。「茶の湯」をやっているときに隠居所の場所が突然出てこなくなったのだそうです。七転八倒してなんとか思い出したのは良いがこんどは隠居と小僧がサツマイモで饅頭を作るのを忘れてしまった。有名な噺なので客が心配したそうです。でも師匠が気がついたのがサゲのちょっと前だったので取り返しがつかない・・・。実は・・・と突然饅頭の説明がはいったのだとか・・・。ある意味聞いてみたかったような気もする高座ですが・・・ご本人は大変だったようで・・・。先代の正蔵(彦六)なら「勉強してまいります」といって終生高座にあがらなかったというお話にも妙な説得力がありました。

噺は「天災」でした。小三冶師匠の語り口というのは地がしっかりしていて客がよりかかれるような安心感があります。表情にうちょっと遅れて言葉が出てくるような間が絶妙で・・・。特に紅羅坊名丸先生が本当によい味・・・。八五郎のべらんめえ口調とのテンポの違いが流れるような語り口にきれいに乗っていて(表現がちょっと変だけれど)α波すら感じるほど・・・。派手さはないのですが聞いていて飽きがこないというか聞けば聞くほどじわっと味が染み出してくる感じ・・・。そしてゆっくりと笑いが熟成されていって終盤大きな笑いがやってくる。大局的に噺を捕らえて観客を手のひらに乗せていく。そりゃ枕だけもちろん超一級品ですが、枕が枕の位置にちゃんとおさまるだけのクオリティが噺にあって・・・。枕も噺もバランスよく高座になじんでいる。本当によいものを聴かせていただいたと思います。

なんかものすごく楽しんだ4日間、来年もがんばってチケット取って・・・。今からなんかわくわくしてしまいます

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「THE BEE」 野田秀樹の正しい狂気

6月30日のソワレ、シアタートラムで野田マップ番外公演「The Bee」を見ました。

原作は筒井康隆の「毟りあい」という小説、家の本棚、整理が悪くてすぐに出てこないのですが、確か「メタモルフォセス群島」という短編集に収録されていたような気がします。定年を迎えた男性が家族に食べられてしまうという短編小説(確か「定年食」というタイトルだった)もその本に収録されていたような…。あと、マムシに食われた旦那に代わって奥さんが飛行機を操縦するっていう「五郎八航空」も同じ短編集だったように記憶しています。

脚本自体は小説をほぼそのまま踏襲していたように思います。でもニュアンスはかなり違った印象でした。

(ここからネタバレです。読んで後悔してもしりませんよーー!!)

野田MAPの作品って他の芝居と肌理が違うような気がします。ハイビジョンを観ているといってもよい。その切れのよさというか精緻さがあるから、紙の舞台装置が具象化するものがとても明確に伝わってきます。

ある日突然、家を占拠されて妻と子供を人質にとられた勤め人、犯人の妻に面会を求め、こともあろうに犯人の家で同行した警官を殴打し銃を奪って妻と子供を人質にとってしまう。そして自分の家族を解放するように要求するのです。

はじめは自分の家族を取り戻すためのやむ終えない行為だったはずが、一発の銃が発射されその威力に勤め人の脳裏を狂気と錯乱が支配します。銃を撃ったのは羽音を立てる蜂(The Bee)に対して・・。一時的に閉じ込めてもふとした動作や行動からふたたび羽音がよみがえる。この段取りや感情の具象化が実に見事・・・

まあ、冷静に考えるとひどい話なんですよ。犯人と直接話して要求が受け入れられないと知った勤め人、銃によって自らの内なる何かが開放されると、なんと犯人の子供の指を切って犯人に送りつけます。刑事を運び人にして送られた指に対して、報復として勤め人の子供の指が男のもとに戻ります・・・・。子供の指が再び切り落とされ、封筒に入れて犯人に届けられる・・・。その繰り返し。子供の指がなくなれば妻の指を切り落とし・・・、犯人の子供も妻も死ぬ。

暴力的なシーンもたくさんある芝居です。しかし、この芝居の怖さが直接暴力によって表現されているわけではありません。指を折る、もしくは切るシーンなど、(鉛筆などを使って抽象化されていますが)、確かに見ていて嫌悪感を感じるシーンではあります。しかし、それらはこの芝居が表現する一番の恐ろしさのための小道具にしかすぎません

本当の恐ろしさは子供の指を切った後、舞台上で表現される勤め人と犯人の生活のルーティンにあります。子供と妻の指の数だけ繰り返される修羅場。目覚めて、男はひげをそり妻は食事の準備をして、男は背広を着る。勤め人の息子の指が報復として届けられる。さらにその報復として子供の指を切る。妻に封筒を要求する。妻は家の一部となっている舞台の紙をちぎって封筒をつくる。男はそれを運び役の刑事に託し、妻とまぐあい寝る。狂気の中に生活が生まれ、生活がルーティンとなり・・・。その狂気から次第に精彩が失われていく。犯人の息子の指が尽きて息子は死に、妻の指が尽きて妻が死に・・・、・。それら一連のことが、ありふれた生活のスケッチのように表現されていく。マダムバタフライの音楽のなかで・・・。かすかに抗うことはあってもそれは日課に飲み込まれていく。形骸化したルーティンの中で舞台が収束していく・・・。

これをハイビジョン的クオリティで見せられるのですから、観客は息を呑んでその仔細を眺めるしかありません。

昔、筒井康隆の原作を読んだときには、常人のなかに潜む復讐心や暴力性、あるいは狂気がエスカレートして歯止めが利かなくなることに人間の本質を感じ印象にも残りました。この芝居では、その次のプロセス、人間の暴力性や狂気が発露したあとでも、狂気の上に日常が存在することに底知れぬ人間の業のようなものを見せ付けられた気がします。静かに粛々と演じられていくその場面は極めて鮮烈です。非日常の日常に従属していく人の心理。やってきた狂気にどこかが麻痺し壊死してしまった心、それは犯人の妻や子供のものでもあり、恐怖のコアになっているはずの勤め人自身のものですらあるのですが、突然やってきた非日常から壊れた心を抱いた日常がさしたる違和感もなく現出して、それが受容されていく過程に観客は慄然とするのです。

役者のこと、秋山菜津子さんというのはすごい女優さんです。前半の切れのよい演技も卓越したものでしたが、犯人の妻役となった後半、暴力に抗いきれず感情をなくしていく演技はまっすぐに観客の心を掴み鎖をかけます。彼女の無表情が観客に伝えるニュアンスの重さははんぱじゃありません。野田秀樹さんの凛とした演技、最後の台詞があんなに重く生き生きと感じられたのは、かなりの部分秋山さんの演技の果実なのだと思います。近藤良平さんの演技は細かい部分の卓越した切れが積み重なっていく感じ、浅野和之さんは舞台のペースを裏でしっかり支えていたと思います。しかし、野田さん、老けませんねぇ・・・。あと、舞台装置の紙がとても効果的だった。たとえば指を入れる封筒を作るとき家の床になっている紙をちぎるのですが、秋山さんの紙をちぎる動作やそのときの彼女の表情は様々なことを重ねて象徴しているようで含蓄が多かったです。

話は少しずれますがNODAMAPのお芝居って、通常の公演は強いテンションと大きなテーマがあって圧倒されるのですが、終わったあとには満たされたというか充足感が心に満ちてくれるような気がします。あの「ロープ」でさえも、見終わったあとにはどこか希望と満たされた感じがありました。「走れメルス」なんてましてやですよね・・・。しかし番外編を見たあとは心に鉛のような重さが残ることが多い。「赤鬼」しかり、「農業少女」しかり。SISカンパニーの公演だったかもしれませんが、大竹しのぶさんの「売り言葉」なんかもそうでした。会場が比較的小さいところでやる野田芝居って観客が消化できないほどのなにかが客席にやってきているのかもしれません。

さらに余談、芝居がはねた後、ロビーから楽屋口にかけては有名人がいっぱいでした。中村勘三郎さんと上記の大竹しのぶさんがすぐそばで拝見できたのはまさに眼福、大竹しのぶさんは舞台で拝見するととても大きく見えるのですが、実際はかわゆい感を失わない小柄な女性という印象。でも存在感がすごくある・・・

存在感があるといえば勘三郎さんも同じですね。そこに彼がいるだけで、ふっとそこだけが明るい・・・。華があるというか・・・。役者としての天性を撒き散らして歩いている感じ・・・。ご本人は気付いていらっしゃらないのかもしれませんが、男から観ても色気があるんですよ・・・見ているだけでぐっとその場を作るような力を感じる。ただ劇場の通路を歩いていらっしゃってるだけなのですがすれ違ったわたしにはびっくりするようななにかがやってくる。

あと松金よね子さんなどもいらっしゃっていて・・・。

まあ、余談はともかく、ふっと重力を忘れるような良いお芝居でした。日本語バージョンは7月9日まで。ハッピーな気持ちで劇場を出ることができる芝居ではありませんが、観て決して損のないお芝居だと思います。

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劇団本谷有希子の描く世界は淡々と

たまに、本当によい芝居を観たと心が満たされているのに感想を書けないことがあります。たとえば、観ていてこれはこういう芝居だと頭のなかで組み立てができても、別の声が聞えてくるのです。「違うよ・・・。自分で違和感があることわかっているくせに!」って・・・。

劇団本谷有希子の「ファイナルファンタジックスーパーノーフラット」を観て久しぶりにその状態がやってきました。この芝居、観終わったとき、心の中では希望と絶望がなかよく縁側でお茶を飲んでいたりするのです。

(公演がもう終わっているのでネタバレといってもしょうがないのですが、ここからは芝居の内容が含まれますので一応申し添えておきます)

お芝居では、ひとりの男性とその理想として存在しようとする何人もの女性達の遊園地での共同生活が前半に描かれます。そしてそこに取り込まれたひとりの女流作家と夫(編集者)、さらには夫の部下で女流作家があけた連載の穴まで埋めている夫の部下・・・。さらには女性達を統率する役目の一人の女性・・・。

遊園地に住み着く男女には濃密な関係があるように見えるのですが、物語がすすんでいくと、実はその関係がおどろくほどに希薄であることに気付きます。女性達はそれぞれ自分に満たされないものを得るためにそこにいるし、男は自分が失いたくないものにしがみつくために遊園地を維持しようとしている。

呉越同舟というか同床異夢というか・・・。結局自分を思いやっているに過ぎない。

破綻自体は簡単に訪れます。遊園地が維持できないというゆさぶりから、それぞれが求めているものの違いがあっけなく露出してしまう・・・。本谷有希子は冷徹なタッチでその崩壊を描いていきます。

終盤、「お時間です!お時間です!」砂上の楼閣を維持するためのお祈りの時間を告げるそのタイマー音はいつしか、男のモラトリアムの終了を告げる音に変わって聞こえて・・・。痛みとか苦痛をふっと乗り越えて男は観覧車に乗り、うさミミをはずす。

男も他の女性達も、遊園地がなくなることで、実はなにも失っていないのです。ただ、遊園地に来る前に戻っただけ。

遊園地のライトがすべてを象徴しています。理想の女性に永遠の愛を告げるときその電気は消えて、すべてが元にもどるとき再びライトが点滅して、男は理想を捨てはかないかもしれないその愛に身を託すことになる・・・。

「現実に逃げる」ってな表現がありました。逆に言うと遊園地でくらす人々は現実のなにかに背を向けている人ということになります。遊園地にいることで正当化されたモラトリアムが維持できなくなったときの男や女達の姿を本谷は冷徹に描いていきます。その先に希望があるか絶望があるかを観客に告げないままに・・・。そう、現実に戻るしかないことが希望につながるのか絶望を招くのか、芝居は何も描こうとしません本谷さんは、遊園地の外側にあるものが、希望であれ絶望であれ、受け入れるしかないのだということを示すだけです。

そして、観客は希望と絶望の茶飲み話の結論を考えるとき、本谷さんの表そうとするものの深さに感嘆してしまうのです。希望なり絶望なりは所詮人が自分の事情でつけたもの・・・。そして自分で背負うもの・・・。

劇場を出たとき、ふっと、自分が勝手に自分の思いで色をつけていたその日が、少し無機質に感じられたことでした。

役者の話をすこしだけ、すほうれいこの演技にはクリアさと勢いを感じました。吉本菜穂子の怪演じるにも目を奪われました。他の役者達も堅実な演技で見ているものに違和感を抱かせることはありませんでした。高橋一生さんは、芝居にきちんとしたトーンがあって、そこから逸脱しない演技を続けたことが今回彼の役の説得力につながっていたと思います。

「遭難」、さらには今回のお芝居を拝見していて、彼女の表現はこの先どんなベクトルへと広がって行くのかと思います。ダンダンブエノの彼女の作品(砂利)も本当に楽しみになりました。

R-Club

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