あひるなんちゃら「毒と音楽」、価値観をずらしての脳マッサージ・・・
やっぱりはまりました。不思議な時間でした。普通芝居を観ていると多少なりとも肩が凝ったりするのですが、なにか頭マッサージされたような感覚がある・・・。「あひるなんちゃら」、この劇団はやばいです。
70分の上演時間、大事件が起こるわけではありません。どこかルーズで「なるようになれ!」みたいな時間が舞台を支配します。しかし一方で色んな価値観がちゃんと舞台上を行きかいます。固定された視点とルーズな視点のアラベスクこそこの劇団の持ち味・・・。
(ここからネタバレです。警告です。心してお読みください)
そもそも、「毒と音楽」というタイトルの割にはバイエルのピアノ曲とカスタネット演奏以外に音楽は出てこないし・・・。ロックという概念が根無し草のように一人歩きするし・・・、でも妙におしゃれだったりもする。毒も実際には出てこない。概念がひとりでちょこっと遊んで見せるだけ・・・。
全体にルーズなバランスやルールで統制された世界,「ロック」や「フォーク」、「ピアノバー」などの言葉が定義する価値、それらをちょっとデフォルメするところからころがりはじめる物語、そして変化はあっても大勢に影響のない結末。
ふっと思うのは、ドリフターズ後期のコント、「ドリフの大爆笑」での不条理な志村けんの存在と同じ根をもっているなということ・・・。ドリフとあひるの見栄えは全然違うけれど、価値を作っておいて価値からナチュラルに逸脱させたなにかを提示して、その差がどんどん広がる様を見せていく手法は同じにおいがします。
まあ、ドリフターズはある価値観として手のひらにのっているものがどれだけ危ういかを爆笑という形にまで無理やり引っ張っていこうとするのに対して、あひるなんちゃらは観客のくすくす笑いを引き出しながら提示するところに主眼をおいているような気はしますが・・・。
それにしてもグレープフルーツジュースがらみの話などを見ていて、価値観をモディファイする手腕には驚かされます。バイトの店員とマスターの力関係が妙に逆転している店で客がグレープフルーツジュースを注文する。しかし、グレープフルーツジュースを切らしていたことから、マスターは買ってくるという。しかし店でふたりきりになりたくない客は自分の持っているグレープフルーツジュースを差し出す。さらにマスターこだわりの氷(2億年前の氷?)を切らしていることがわかりマスターが買ってこようとすると、やはり二人きりになりたくない客は氷抜きでよいという。で、マスターはグラスにそのジュースを注いで、観客が持ってきたグレープフルーツジュースはその瞬間からお店がだすお客様のリクエストに従ったグレープジュースという商品へと大変身・・・。
見方を変えれば客はその場にいるために、その場しのぎの妥協をくりかえして・・・。結果として 客>マスター>バイトという力関係が一般的な概念なのに、グレープフルーツジュースを切らしたというシチュエーションをトリガーにバイト>マスター>客という関係があひるなんちゃら的に構築してしまうのです。たてまえもしくは一般常識という仕組みの皮と仕組みの裏側に詰まっている実態というか本音のようなあんこが見えてくる。まるで饅頭に包丁をいれて二つにしたように。
そもそも、物語はバンドのリハーサルスタジオとバーという異なる二つの空間が交互に現れる仕組みになっているのですが、それぞれのちょっと価値観をゆがめられたような設定が「毒入り」ドリンクで結びつくとき、さらなるふくらみが舞台に生まれます。いい加減な設定がなんとなくふくらんで萎んで・・・。それが不思議におかしくて心地よい空間だったりする・・・。何なのでしょうね・・・。ちょっと脳をくちゅくちゅってもまれて、ふっとぼやけたものが見えてくるような心地よさ・・・。
脳内麻薬が少しだけ搾り出されて、何か癖になりそうなものが全身を包んで・・・。「あひるなんちゃら」の魅力、侮ってはいけません。一度見たら間違えなく癖になる何かを持った劇団です。
役者のこと、黒岩三佳の演技は、ベタな言い方だけれどまさに黒岩ワールドではまります。マスター役の田部寛之も黒岩パワーをしっかりと受けとめて好演でした。江崎穣のどこか超然としたところもよかった。スタジオ側の役者たちにも舞台になじむコントロールされたテンションがあって、それぞれに役割を十分果たしていましたが、特にウメノ役の金沢涼恵のどこか超越したようなトーンが目を惹きました。
王子小劇場の手作り演劇っぽいテイストも魅力的で、なんかほくほく幸せな気持ちで劇場を後にしたことでした。次も絶対観に行ってしまうような気がしまいます。この劇団・・・。ちょっと中毒になりそうです。
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