映画「バベル」が見せる見えない塔(すこし改訂)
ことわざとも違うのでしょうが、日本語には便利な表現が一杯あって、たとえば予想できない因果を示すときに「風が吹けば桶屋がもうかる・・・」とか言ってみたり、小さな物事が大きく波及していくことを「波紋が広がる」なんていうと、それだけでニュアンスが伝わったりします。まあ、「風が吹くと桶屋が儲かるっていうから、アメリカの竜巻街道で桶屋始めたら家ごと吹き飛ばされちまったよ・・・」なんて話になると、もうこれは落語の枕になってしまうわけですが・・・。
昨日(11日)の夜、映画「バベル」を観ました。日比谷スカラ座の最終回。本当に久しぶりにまだ明るいうちに会社を出て・・・・。気がついたらこんなに日が長くなっていて・・・。ちょっと空に光が残っているだけで会社を出てからの周りの雰囲気って全然違って見えるのですね。そこには東京の夕刻があって、風が強い日常があって、人が普通に流れている。
(この先ネタばれしてます!!ちゃんと書きましたよ!!)
映画には三つの話がゆるい因果で重なりあっています。アメリカとメキシコの国境の話、モロッコの片田舎の話、そして東京都心の話・・・。時系列が多少ずれたまま、それぞれの地域での物語が交互にスクリーンで語られていきます。風が吹いて桶屋が儲かって、小石を投げ入れられて波紋がひろがって・・・。ただ、波紋は桶屋が儲かるきっかけとなる風に微妙にゆがんだりするのです。
旧約聖書に語られる「バベル」の塔は、高い塔を築いてやがては天に至ろうとする人間の物語です。しかし天を目指す人間の傲慢に怒った神がその塔の建築を中止するため、また2度と人間がそのような野望を持てない様に、言葉をいくつにも分けて通じなくしてしまう・・・。それ以降、人はさまざまな言語の壁で隔てられ異なった文化を持つようになっていったとのこと・・・。映画「バベル」では2つの言語が交差し、文化やコミュニケーションギャップが生まれます。東京の物語では菊池凛子たちが聾唖者を演じて2つの言語(手話・読唇と音声)の世界を作り上げています。
3つの物語の日和見でルーズなつながり、ある意味主人公達が意図することもなく、どうすることのできないつながり・・。
始まってからしばらくは少し不安なトーンを持ってランダムにやってくる3つの物語をただ追っているだけでしたが、映画の後半になると、なぜ「バベル」というタイトルがこの映画に付けられたのか、私の中で次第に理解できるようになってきます。「あ、そうか・・・、すべてはバベルの塔の中での物語なのだ・・・」って。バベルの塔は崩れかけていて、それでも人はその残骸の中で生きていて・・・。誰かが動けばどこかで揺れて、誰かの動きで崩落したものが誰かの頭に当たる・・・みたいな・・・。
だれもが塔の廃墟で生きていること、世界とは実はバベルの廃墟の形をしていることが、3つの世界の出来事のなかで次第にあきらかにされて行きます。神の罰の結果としてのコミュニケーションの遮断の中で、誰もが自分の事情に忠実に生きている・・・.。
自らが置かれた環境の忠実に生きる人々の姿なら、これまでにも数え切れないほど多くの映画で表現されています。でも、それは小石を投げどのように水面に波紋が広っていくかを描いた一本道のような話。あるいは風が桶屋を儲けさせる詳細な過程の話。一方「バベル」という映画にはいくつもの石による波紋の複雑な連鎖や、儲かったり損をしたりする桶屋達の群れが存在するのです。
塔の中で無数に起こる出来事やそのたびにかすかに揺れる塔の鉄骨、時にはほんの小さな出来事が塔全体に広がることもあり、一個人にとっての大激震が塔のなかで吸収されてしまうこともあって・・・。さらに、大小の振動が別の出来事を引き起こすトリガーとなり、その振動がまたバベルの塔を大小さまざまに揺すぶっていく・・・。しかも、映画の中では表現されていませんが、この物語の外側にはさらにたくさんの揺れがひそんでいます。たとえば弟に着替えを見せていた姉、その家に銃を渡した男、撃たれたバスに乗っていた他の人たち、子守の女性、その女性の息子・・・・。手紙をもらった刑事・・・。語られてはいませんがバベルの塔の揺れはきっとその人を彼らの意図しないところへ導いていくはず・・・。観ているうちに、この映画はバベルの塔に生きることを強いられた人々を描いた悲劇なのかと思えてきました。
しかし終盤に至ってこの映画にはさらに奥行きがあることを知ります。人はバベルの塔で、時には言葉が違ったり通じなかったり、あるいは文化がちがうことや自らの想いが伝わらないことに苦しみながらも、自らの根源にあるものを伝えようとします。桶屋達の姿だけではなく、桶屋達の持つ他の桶屋への想いがしっかりと表現されているのです。
小さなシーンですがとても印象に残ったのは、撃たれた妻をヘリに乗せる時に財布から金を渡そうとする男とそれを必死で固辞する現地ガイドの姿。男とその妻を助けようとするガイドの真摯な気持ちとそのガイドへの感謝をなんとか表そうとする男の気持ちがすれ違いながら通い合った瞬間・・・。
他にも心に残るシーンはたくさんあります。バベルの塔の揺らぎのなかで、、撃たれた兄と銃撃を省みずに助けに行った父を見て自らの行いを認めて警察官に投降する少年。警察で自らが連れた2人の預かった子供への想いを話す女、全裸で自らの想いを伝えたあとたたずむ聾唖の娘を抱きしめる父・・・。
タイトルロールをぼんやりと眺めながら、この映画が描きたかったのはバベルの塔ではなく、その意識すらなく塔で生き、日和見にお互いが揺れる中で他を思いつつ真摯に生きる人々の姿であることに気づきます。
それらは自分が過去に感じたバベルの揺らぎやその時の自らの姿とあやふやに重なり、鉛のような重さを持った不思議な感動がゆっくりと心を満たします。
映画館を出るとそこは人工の明かりで照らされた日比谷の街、明るい時間に歩いたのと同じ場所なのに、風景がとても異なって見えたのは、映画にインスパイアされたのも一因かもしれません。金曜日の10時すぎの街では道端で小さな喧嘩があり、周りに人が群れていました。それもまたバベルの塔の小さな揺らぎ・・・。もちろん、そのうちバベルの塔に暮らすというような意識は日々の生活に埋まってしまうのでしょうが、そのときばかりは、喧嘩をながめながら、ふっと揺れもしない地面を見つめてしまいました。バベルの塔など見えるものではないはずなのに、地面の揺らぎをかすかに感じたことでした。
PS:
演劇の感想同様、少しだけ役者さんのことも書きます。
菊池凛子はアカデミー賞のこともあり本当に話題になっていましたが、評判に違わぬ演技でした。聾唖者を演ずることのナチュラルさを健常者が演じきれるというのはそれだけでもかなりの驚きなのだそうですが、それよりも彼女の内に秘めた自分でも押さえ切れない炎のような感情がしっかり見えるところに彼女の非凡さを実感しました。下着を脱いで何気に男達にさらすあたりの表情を見ていると、この人が持つ演技の強さやデリケートな心の動きに対する表現力をひしひしと感じました。あと、役所広司の演技のゆとりにも惹かれましたが、二階堂智の焼酎をあおるあたりの表現もとても心に残りました。菊池凛子の友人たちも演技がすごくしっかりしていて、映画の幅を広げていました。
Brad Pittはつい最近ビデオ屋で「Mr&Mrs スミス」という映画を借りて観て、冷たさと温かさのバランスのよさにいまさらながらに良い男優だとは思っていたのですが、今回、感情の起伏や心が融けていく過程の表現のうまさを見て、私的な評価がさらに上がりました。ガイド訳のMohamed Akhzamも好演でした。誠実な気持ちがまっすぐに観客に伝わってきましたから。経歴などはパンフレットにも載せられていませんでしたが、強い印象がのこりました。子役ですがBoubker Ait El Caid、バスを実際に撃った少年の演技も泣かせます。子守役のAdriana Barrazaも貫禄の演技でしたね・・。
まあ、舞台に比べると映画での役者の演技というのは伝わってきにくい部分もあるのですが、でもどこかに輝きをもっている役者の出る映画というのは、なにかそれだけで見たあとの充実感が違う感じがします。バベル、充実感は十分すぎるほどでしたが、役者が良かったのも一因かと思います。
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コメント
おひさしぶりです! Yumiもバベル観ましたぁ!
旅行に行く前にですが!
あっ、今日はそのことではなく、大銀座落語祭に関してのご連絡です!
ただいま、中央会館のみの先行発売を行っております! (すみません。。11日からでした。。)
なので、もう残りわずかになってしまったので多分一般を待ってお目当てをゲットしたほうがいいかもしれませんが。。。
大銀座落語祭の情報は下記にアップするのでそちらチェックしてみてくださぁい!!
お詫びとお知らせのコメでしたぁ テヘ
あっ そうそう 今日黒門亭に行く予定です!!
たのしみだなぁ!!
=yumi!
投稿: yumi! | 2007/05/14 13:55