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薮原検校 芸に支えられた軽さ

正直言いますね。昔々、戯曲「薮原検校」を文庫(現在絶版)で読んだとき、「わけがわからない」というのが正直な感想でした。そもそも、そのころはまだ井上ひさしとは私にとって戯曲作家ではなく小説家だったし、戯曲を見て舞台を想像しようにも、そんな素養はからっきしなく、舞台の雰囲気すら想像できなかった・・・。

まあ、その後紀伊ノ國屋ホールで渡辺美佐子さんの「化粧」を見て、井上戯曲が舞台上で具現化される雰囲気みたいなものはわかったのですが、「薮原検校」は戯曲を読んでも相変わらずピンとこなくて・・・。で、生で見たいとはかねがね思っていたのです。地人会などでは地道に継続して上演されていたようですが、どうも機会がなくて・・・。

おまけに「天保十二年のシェークスピア」、やっぱり戯曲を読んだだけではすっと頭に入ってこなかったけれど、観てから戯曲を読むと本当に面白い・・・。

で「薮原検校」もチャンスがあればと是非にとの思いがつのっていたところに、古田新太主演の公演があるとのことで、必死にチケットをゲット。18日、念願の舞台を見てきました。ただし、地人会バージョンではなかったけれど、当代切っての演出家蜷川幸雄も魅力的だし、古田以外にも手練の役者達のご出演で場内は立ち見込みの超満員。

そりゃよかったですよ・・・。重い物を隠し持った戯曲ですが本当によい芝居ってやつは胃にもたれない・・・。多分、役者から伝わるものに不純物がないのだと思います。まっすぐにくっきりと伝わってくる。

六平直政さんの演技など、観ているだけでその世界に包まれていくような気がします。梅沢昌代さんの演技もすばらしかったですね・・・・。自由自在っていうのは彼女の演技のことを言うのではないのかと思うほど、やわらかくしっくり来る演技をされる。彼らが脇を固めるのですからそりゃ贅沢な舞台です。

でも、20幕を重ねていく薮原検校というお芝居には、それだけの贅沢というか、力量を持った役者が必要なのかもしれません。役者は猥雑さを出すための詳細な演技ができて、しかも猥雑さに埋もれてしまわない演技ができなければいけない・・・。ジョージ・シュラの点描画のように、色に染まって色が溺れることのないような演技が求められる・・・。

しかも、この芝居は幕の内弁当のようなところがあって、それぞれの幕を染める色の塊がなにげに前後左右とマッチしないといけない・・・。ギターや語りで幕や場を繋いでいくとはいっても、二代目薮原検校の一生として統一した感覚が求められる・・・。無茶な力技で幕をまとめあげると、たちまちその幕が全体の中で浮いたり沈んだりしてしまう・・・

緻密に組まれた仕組みのなかで、伸びやかに自分の力を発揮できる役者じゃないと、たちまち物語が隠す陰湿でどろどろしたものが顔を出してしまうような・・・。ある意味役者の力を試すような舞台。

でも、力のある役者は、そのハードルを楽しんでいるようにすら思える。

田中裕子さんの芝居を見ていて思ったのですよ。溜め込んで吐き出すような情念ではなく、ふっと沸いてくるような情念。溜めれば重さがでるけれど、涌き出て流れていく情念には重さがでない。でも伝わる・・・。すっと入ってきて心の中で広がる・・・。重さがあれば舞台が鈍る、トーンが変わる・・・。腐敗がないからこそ、この物語が共感をもって観客に受け入れられていく・・・。田中さんは脚を開く演技のなかで、艶のこぼれるような表情で、自らの息遣いに観客が揺れる気配を気持ちよさそうに味わっているようだし、古田「早物語」もそう、汗をかきながら必死に語る中で、観客も自分も、その空間全体をも酔わせる時間を心地よく肌で感じているように見える。その溢れ出すような充実感が観客にとっても役者に自らをゆだねられる至福になっていくのです。

で、休憩をはさんでの3時間があっという間にすぎていく。

極上のエンターティメントというのはこういうものなのかも知れない・・・と思いました。役者のもてあますほどの力量がしっかりと生きた舞台・・・・。
もっと歯ごたえをとか重厚なテイストをとか言う劇評も一部にはあったようですが、私にはこの芝居はこれでよいという感じがします。このレベルになると重さは一番大事な表現の汚れになる・・。

そんな汚れは粋ではないのです。

私の中でまるで別物になった「藪原検校」を読みながら、ゆっくりと満たされた劇場の時間を振り返ったことでした。

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「主人公は僕だった」、洒脱な鎧の脱がせ方

ちょっとだけ運が向いてきたのか、試写会に当たって「主人公は僕だった」を観てきました。

場所は、新橋ヤクルトホール・・・。勤め先からはとても近いので楽だった。

一般の多目的ホールより、本当は椅子が良い映画館での試写会の方が好きなのですけれどね・・・、そんな身の程知らずな我侭をあっさりふきとばす素敵な映画でした。

上品なユーモアに満ちたというか、品のよさがあるというか・・・。観ていて心にやわらかい風がふくようなというか・・・。一度観た映画をもう一度みたいと思うことってあまりないのですけれどね・・・。特にコメディ系は・・・。でもこの映画は終わって、ロードショーになったらもう一度みたいなと思える要素をいくつも持っていました。

(ここからネタバレしますよ!ちゃんと言いましたよ!!)

一言でいうと、いろんなことに縛られないで自由な発想で出来た映画・・・。闊達なかに緻密さがあって、観客の心への浸透圧のようなものをちゃんと持っている。

ある日突然主人公のハロルド(ウィル フェレン)は、自らの行動と同時進行する女性の声を聞きます。知らないでハロルドにリンクしたストーリーを書いている女流作家の声なのですが、朗読するような声とハロルドとの妙なシンクロ感が小気味良くて・・・。

会計監査官になってから12年間つづいたハロルドの驚くほど変化のない生活が文学風に表現されていく冒頭でまず物語に引っ張り込まれます、毎回変わらない歯ブラシを動かす回数や、バス停までほとんど変わらない歩数や寝る時間の正確さまで語られて・・・。さらに声で表現できないニュアンスもちょこっと今っぽいGUIをCGで出したり・・・。ハロルドのつまらない人間ぶりをうふっとなるほど面白く表現する工夫がたくさん・・・。見ていて飽きないのです。

当初は作家の声に混乱するだけのハロルドですが、その声が主人公の死を告げたことから、彼の人生は大きく変わっていきます。今までの決まりだらけの生活から次第に逸脱していく。惹きたかったエレキギターを買ったり・・・。しかもお店に並んでいるギターたちが彼に語りかけてくるところにもなんともいえない味があって・・・。恋も始まり・・・。

その主人公が惹かれるベーカリーショップの主人、アナ(マギー ギレンホール)もすごく魅力的。心優しさが素直に出てしかもそれがいやみにならないタイプ。彼女はつまらないハロルドに対しても偏見を持たない・・・。最初の出会いは国会計監査官としての主人公とベーカリーショップの経営者としてですから、本来相性が合うはずがない・・・。しかしハロルドは彼女に惹かれ、彼女もハロルドを本当に拒絶をしない・・・。おおざっぱな性格だけど頭の回転もはやく何かに偏見をもたない、腕にタトゥーをした一応ハーバード大学中退の才女。良い意味で中途半端なキャラクターがハロルドが自ら12年間まとっていた鎧をはずすのを助けます。

鎧をはずした本当のハロルドは普通の優しさにあふれたちょっと不器用な人間。中途半端なユーモアセンスを持った、でも誠実さを忘れない彼の姿が次第に浮かび上がってきます。花(Flower)の代わりにさまざまな粉(flour)を入れた箱を彼女にプレゼントするハロルド・・・、とてもよいシーンです。飛びぬけたユーモアではないのですが、はまり方がすごく気持ちいい・・・。

一方、もうひとり、しっかりと鎧を身に着けた人間がこの映画には出てきます。悲劇の小説家、ハロルドの運命をタイプライターに乗せてしまったカレン・アイフル(エマ トンプソン)です。彼女も、悲劇の小説を書くために鎧をまとっている。

彼女が主人公を殺す手段を考えるところがめちゃくちゃ面白い。一番笑うのは死にそうな人を見に病院へ行くところ・・・。ほとんど上方落語の世界です。

「死にかけている人ってどこにおりますか?」

「そんな人ごろごろおりますかいな・・・」

「え、おれへんの・・・、ほな、別の病院さがさなあかん」

「な、なんでやねん」見たいな世界ではありますが。。。

な別の病院あたみたいな世界・・・。カレンのちょっと妖に憑かれたような雰囲気がさらに笑いを誘います。彼女が鎧を脱ぐのは一番最後・・・。悲劇の完成度を少し下げて、それに納得する彼女の姿にふっと温かい彼女のぬくもりを感じる・・・。あ、彼女も着ていた鎧を脱いだのだと、観ている方もほっとするのです。

彼女のキャラクターは劇団あひるなんちゃらの黒岩三佳さんに通じるものがあるような。どこかずれたシリアスさと人間味を感じます。

ハロルドとカレンの不可思議な関係に、それぞれの立場を逸脱しないように番をしているのがヒルバート教授(ダスティン ホフマン)と出版社に雇われたカレンのお目付け役ペニー(クィーン ラティファ)。ハロルドやカレンの立場が明確になるためのよいスパイス・・・。ヒルバート教授役のダスティン・ホフマンの演技には本当に惚れ惚れします。重厚さを持ちながら映画から浮かない良質な軽さをちゃんと持ち合わせている。パヒュームのときにもすごいと思ったけれど、今回の方が彼の魅力はよく出ているかも・・・。

すごくバランスのとれた映画だと思うのですよ。このバランスだからこそ生まれる粋がある・・・。NYなどにくらべてねっとりしていないシカゴの雰囲気ともぴったりのトーンで・・・。5年とか10年の単位で脱げなかった鎧を少しもがきながらはずしたあとのハロルドとカレンそれぞれにやわらかく拍手を贈りたくなるような・・・

こういう映画って、一生心のどこかに心地よい記憶を持っていられるのだろうなって思います。

なにかのはずみで時間が空いたときに、おしゃれな、あまり大きめではない映画館でみるのがよいかも・・・。

おすすめですよ。クッキーをミルクに浸してたべたくなること請け合いです。

R-Club

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映画「バベル」が見せる見えない塔(すこし改訂)

ことわざとも違うのでしょうが、日本語には便利な表現が一杯あって、たとえば予想できない因果を示すときに「風が吹けば桶屋がもうかる・・・」とか言ってみたり、小さな物事が大きく波及していくことを「波紋が広がる」なんていうと、それだけでニュアンスが伝わったりします。まあ、「風が吹くと桶屋が儲かるっていうから、アメリカの竜巻街道で桶屋始めたら家ごと吹き飛ばされちまったよ・・・」なんて話になると、もうこれは落語の枕になってしまうわけですが・・・。

昨日(11日)の夜、映画「バベル」を観ました。日比谷スカラ座の最終回。本当に久しぶりにまだ明るいうちに会社を出て・・・・。気がついたらこんなに日が長くなっていて・・・。ちょっと空に光が残っているだけで会社を出てからの周りの雰囲気って全然違って見えるのですね。そこには東京の夕刻があって、風が強い日常があって、人が普通に流れている。

(この先ネタばれしてます!!ちゃんと書きましたよ!!)

映画には三つの話がゆるい因果で重なりあっています。アメリカとメキシコの国境の話、モロッコの片田舎の話、そして東京都心の話・・・。時系列が多少ずれたまま、それぞれの地域での物語が交互にスクリーンで語られていきます。風が吹いて桶屋が儲かって、小石を投げ入れられて波紋がひろがって・・・。ただ、波紋は桶屋が儲かるきっかけとなる風に微妙にゆがんだりするのです。

旧約聖書に語られる「バベル」の塔は、高い塔を築いてやがては天に至ろうとする人間の物語です。しかし天を目指す人間の傲慢に怒った神がその塔の建築を中止するため、また2度と人間がそのような野望を持てない様に、言葉をいくつにも分けて通じなくしてしまう・・・。それ以降、人はさまざまな言語の壁で隔てられ異なった文化を持つようになっていったとのこと・・・。映画「バベル」では2つの言語が交差し、文化やコミュニケーションギャップが生まれます。東京の物語では菊池凛子たちが聾唖者を演じて2つの言語(手話・読唇と音声)の世界を作り上げています。

3つの物語の日和見でルーズなつながり、ある意味主人公達が意図することもなく、どうすることのできないつながり・・。

始まってからしばらくは少し不安なトーンを持ってランダムにやってくる3つの物語をただ追っているだけでしたが、映画の後半になると、なぜ「バベル」というタイトルがこの映画に付けられたのか、私の中で次第に理解できるようになってきます。「あ、そうか・・・、すべてはバベルの塔の中での物語なのだ・・・」って。バベルの塔は崩れかけていて、それでも人はその残骸の中で生きていて・・・。誰かが動けばどこかで揺れて、誰かの動きで崩落したものが誰かの頭に当たる・・・みたいな・・・。

だれもが塔の廃墟で生きていること、世界とは実はバベルの廃墟の形をしていることが、3つの世界の出来事のなかで次第にあきらかにされて行きます。神の罰の結果としてのコミュニケーションの遮断の中で、誰もが自分の事情に忠実に生きている・・・.。

自らが置かれた環境の忠実に生きる人々の姿なら、これまでにも数え切れないほど多くの映画で表現されています。でも、それは小石を投げどのように水面に波紋が広っていくかを描いた一本道のような話。あるいは風が桶屋を儲けさせる詳細な過程の話。一方「バベル」という映画にはいくつもの石による波紋の複雑な連鎖や、儲かったり損をしたりする桶屋達の群れが存在するのです。

塔の中で無数に起こる出来事やそのたびにかすかに揺れる塔の鉄骨、時にはほんの小さな出来事が塔全体に広がることもあり、一個人にとっての大激震が塔のなかで吸収されてしまうこともあって・・・。さらに、大小の振動が別の出来事を引き起こすトリガーとなり、その振動がまたバベルの塔を大小さまざまに揺すぶっていく・・・。しかも、映画の中では表現されていませんが、この物語の外側にはさらにたくさんの揺れがひそんでいます。たとえば弟に着替えを見せていた姉、その家に銃を渡した男、撃たれたバスに乗っていた他の人たち、子守の女性、その女性の息子・・・・。手紙をもらった刑事・・・。語られてはいませんがバベルの塔の揺れはきっとその人を彼らの意図しないところへ導いていくはず・・・。観ているうちに、この映画はバベルの塔に生きることを強いられた人々を描いた悲劇なのかと思えてきました。

しかし終盤に至ってこの映画にはさらに奥行きがあることを知ります。人はバベルの塔で、時には言葉が違ったり通じなかったり、あるいは文化がちがうことや自らの想いが伝わらないことに苦しみながらも、自らの根源にあるものを伝えようとします。桶屋達の姿だけではなく、桶屋達の持つ他の桶屋への想いがしっかりと表現されているのです。

小さなシーンですがとても印象に残ったのは、撃たれた妻をヘリに乗せる時に財布から金を渡そうとする男とそれを必死で固辞する現地ガイドの姿。男とその妻を助けようとするガイドの真摯な気持ちとそのガイドへの感謝をなんとか表そうとする男の気持ちがすれ違いながら通い合った瞬間・・・。

他にも心に残るシーンはたくさんあります。バベルの塔の揺らぎのなかで、、撃たれた兄と銃撃を省みずに助けに行った父を見て自らの行いを認めて警察官に投降する少年。警察で自らが連れた2人の預かった子供への想いを話す女、全裸で自らの想いを伝えたあとたたずむ聾唖の娘を抱きしめる父・・・。

タイトルロールをぼんやりと眺めながら、この映画が描きたかったのはバベルの塔ではなく、その意識すらなく塔で生き、日和見にお互いが揺れる中で他を思いつつ真摯に生きる人々の姿であることに気づきます。
それらは自分が過去に感じたバベルの揺らぎやその時の自らの姿とあやふやに重なり、鉛のような重さを持った不思議な感動がゆっくりと心を満たします。

映画館を出るとそこは人工の明かりで照らされた日比谷の街、明るい時間に歩いたのと同じ場所なのに、風景がとても異なって見えたのは、映画にインスパイアされたのも一因かもしれません。金曜日の10時すぎの街では道端で小さな喧嘩があり、周りに人が群れていました。それもまたバベルの塔の小さな揺らぎ・・・。もちろん、そのうちバベルの塔に暮らすというような意識は日々の生活に埋まってしまうのでしょうが、そのときばかりは、喧嘩をながめながら、ふっと揺れもしない地面を見つめてしまいました。バベルの塔など見えるものではないはずなのに、地面の揺らぎをかすかに感じたことでした。

R-Club

PS:

演劇の感想同様、少しだけ役者さんのことも書きます。

菊池凛子はアカデミー賞のこともあり本当に話題になっていましたが、評判に違わぬ演技でした。聾唖者を演ずることのナチュラルさを健常者が演じきれるというのはそれだけでもかなりの驚きなのだそうですが、それよりも彼女の内に秘めた自分でも押さえ切れない炎のような感情がしっかり見えるところに彼女の非凡さを実感しました。下着を脱いで何気に男達にさらすあたりの表情を見ていると、この人が持つ演技の強さやデリケートな心の動きに対する表現力をひしひしと感じました。あと、役所広司の演技のゆとりにも惹かれましたが、二階堂智の焼酎をあおるあたりの表現もとても心に残りました。菊池凛子の友人たちも演技がすごくしっかりしていて、映画の幅を広げていました。

Brad Pittはつい最近ビデオ屋で「Mr&Mrs スミス」という映画を借りて観て、冷たさと温かさのバランスのよさにいまさらながらに良い男優だとは思っていたのですが、今回、感情の起伏や心が融けていく過程の表現のうまさを見て、私的な評価がさらに上がりました。ガイド訳のMohamed Akhzamも好演でした。誠実な気持ちがまっすぐに観客に伝わってきましたから。経歴などはパンフレットにも載せられていませんでしたが、強い印象がのこりました。子役ですがBoubker Ait El Caid、バスを実際に撃った少年の演技も泣かせます。子守役のAdriana Barrazaも貫禄の演技でしたね・・。

まあ、舞台に比べると映画での役者の演技というのは伝わってきにくい部分もあるのですが、でもどこかに輝きをもっている役者の出る映画というのは、なにかそれだけで見たあとの充実感が違う感じがします。バベル、充実感は十分すぎるほどでしたが、役者が良かったのも一因かと思います。

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なぞなぞより知的・・・。

今日、汐留の本屋さんで突然昔はやったなぞなぞを思い出してしまいました

・スーツとビール、どちらがマラソン?

 あるいは

・スーツとビール、どちらが柔道?

(なぞなぞの答えを知らない方、正解は一応この記事の一番下にあります)

前にも書いたとおり、通勤用の本ってさくさく読めるのが一番なのですが、偶然に都合の良い本を見つけました。イラストが中心の本、文字が少ない・・・。でも薀蓄本としてはかなりレベルが高かったりします。

・絵で見る「もの」の数え方 (監修 町田健 主婦の友社 630円)

20070509

 そりゃね、高校の時の現代国語の成績、飛びぬけてよかったわけではないですよ・・・。今の季節は先生が教科書を読むたびに窓の外をながめてぼーっといたし・・・。

でも、「物ぐらい数えられるわい」と思ってこの本を手にとって愕然としました。雲の数え方・・・、知らなかった。蝶と蛾で数え方が違うなんて・・・。

まあ、別に幼児言葉みたいになんでもかんでも「ひとつ・ふたつ・・・」でも別に通じないわけではないのですが、でも正しい数え方をしているだけで、言葉の深さがちがう・・・。オビにも「数え方・・・ひとつで、品格が上がる!」とありますが、本当にそのとおりだと思います。品格があがるだけではなく、自分から出づる言葉の深さが変わってくる気がする・・・。舞を「一回」といわずに「一差し」というだけで舞妓さんの襟元からほのかにただよう香のかおりまで伝わってくるような・・・。

もう1つ感心したのは、同じものでも状態で数え方が変わってくるという話、ゴミ袋、中身がはいらないと1枚で中身が入ると一袋・・・。生きているうちはひとり、死んだら一体、お墓にはいったら一基。日本語って間口がひろいというかとても豊かなのだと思います。

こういうことって知らないと恥ずかしいって側面もあるのですが、知っていると日本語の豊かさをより自分のものにできるし、いろいろと数え方のニュアンスに含まれることのおすそ分けをもらえる。

ちなみに最初のなぞなぞ、数え方を考えるとすぐわかりますよね・・・スーツは一着、ビールは一本。マラソンの優勝者は一着、柔道の勝利は1本・・・。

逆にこのパターンでのなぞなぞを考えるのも良い頭の体操になるかもしれませんね・・・。たとえば、

「パンとラーメン、どっちがてんぱってる?」みたいな・・・。

(パンは一枚とか一個とか一斤、ラーメンは一杯・・・。一杯いっぱいになっているほうが、きっとてんぱってますよね・・・。)

あんまり良い例ではないですね・・・。失礼いたしました。

R-Club

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役者が演じる場所には演劇が存在するという発見(ワークショップ発表会&あひるなんちゃら)

午前中に横浜で用事があって、夕方5時から王子小劇場で「あひるなんちゃら」のお芝居。中途半端なスケジュールでため息をついていると、救世主が現れました。

空間ゼリーの方たちが参加しているワークショップの発表会が2時から川崎であるとのこと・・・。坪田文さんが短めの台本を書かれたという情報もあって見に行ってきました。

N・A・Mナチュラルアクティングメソッド』ワークショップ発表会

正直いって予想を遥かに超えてよかったです。

まさかこんなに面白いとは思わなかった。すべてを見ることはできず前半の2本の寸劇とリーディングといわれるアクトを見てきたのですが両方ともすごく興味を惹かれました。

2本の寸劇について、役者としての力といわれると、正直それなりのばらつきがあります。台詞が滑っていたり走っていたりもあったし、ふっと段取りに走るような演技もなかったわけではありません。でも、一番要になる部分の演技は例外なくしっかりと観客に浸透していた。。それぞれの役にたいする役者さんの理解がきちんと出来ていて、その表現がパワーの差はあれ観客に浸透してくるのです。

台本自体も秀逸でした。「難問な天秤」は練馬の漫画喫茶(?)のバイトたちの話。職場内交際と妊娠について、5人の登場人物がそれぞれの価値観をしっかりと表現し、それらが交差していく部分には息をのむほどの力があり、なおかつ店長がそれらの価値観の行く先をまとめる部分では収束するに足りうるみごとな必然が提示されて・・・。

しかも、店長役の役者さん、その部分に思いっきりパワーをかけてクリーンヒットさせたような良い芝居でしたものね。また妊娠してしまった女性の不安定な心情を表す繊細な演技と、もうひとり女性店員のくっきりとした演技が共存するところに物語の奥行きが生まれて・・・。芝居が終わってカーテンコールの時間がなかったのがとても残念に思えるほど出来でした。

それだけの出来のお芝居だったので、私的にチェルフィッチュの「エンジョイ」との比較もできて・・・。「エンジョイ」は新宿の漫画喫茶の従業員のお話。尺も全然違うし表現の方法や広げ方も違うのですが、もし練馬の漫画喫茶を舞台にチェルフィッチュが同じ話をつくろうとすれば、そのテイストは今日見た寸劇と同じようなものになったのではという気がします。今日見た芝居にもチェルフィッチュの芝居にも共に良質なリアリティがあるので、モデルになった場所の差がしっかりと見えるということなのでしょうけれど。少なくとも練馬の漫画喫茶の雰囲気って今回のやり方のほうが伝わるのかなとも思いました。

シャンパンレディー」は女性4人のお芝居。世代の異なる女性達の価値観の違いを寸劇の範疇でこれだけ瑞々しく描く作者の力量には瞠目するしかありません。

登場人物間での欲しいもの/満たされるもの手に入らないもの/失うものバランス感覚の違いを見事に演じきった役者達も上手でした。最後のあたりでマニキュアを塗ってもらう女性の表情がとてもよくて・・・。

リーディングのパートでも観客に染み入ってくる何かを持った作品がいくつもありました。一番衝撃をうけたのは、ワークショップに参加できてよかったと話す女性。演じるというよりは自分の想いをまっすぐに吐露するという直球勝負なのかもしれませんが、なんていうのだろう、なにかが解き放たれるときの悦びみたいなものがしっかりと伝わってきて・・・。思わず身を乗り出して観てしまいました。彼女以外にも気がついたらしっかり体を起こしてみていたことが何度か・・・。

演劇の練りつくされた完成品は月に何度もみているのですが、このように素描のような作られ方をした表現を見る機会って初めてで、目からうろこを何枚も落としたし、芝居を観る目がリフレッシュされたような感じもしました。

よい経験をさせていただいたと思います。

で、後半の演目に後ろ髪を引かれながらも、王子へ移動。王子小劇場であひるなんちゃらを観劇です

あひるなんちゃら」は初見です。ただし役者の黒岩三佳さんについてはMCRの公演などで何度も拝見し、その演技のリズムとセンスにはかなり惹かれておりました。

(ここからネタバレがあります。ちゃんと書いたよ!!!)

今回は申し込みだけで入場料0円という公演。演目は「屋上のオフィス」。でも、入場時から工夫がいっぱい・・・。

まず、入場すると好きなところにお座りくださいといわれる。で、この辺とかいうとそこに椅子を持ってきてくれるのです。これでもう屋上にいるような気分になってしまう。客入れの音楽も格調高くモーツアルトのピアノコンチェルト20番なのですが、時々ゴジラが鳴く。キングギドラが光線を吐く音もする。なんかそのあたりも屋上で・・・。

芝居の内容はといえば、ある種の不条理劇なのでしょうね・・・。声を上げて笑うのとは違うおかしさ。声を上げる笑いはそこで消えてしまうのだけれど、声を上げない笑いは内に残るのです。

そのおかしさを間違いなくたのしんでいる私がいる・・・。黒岩三佳さんのどこか人を喰ったような演技が理屈ぬきによい。3人芝居で黒岩さん、黒岩さんの突っ込み役と黒岩三佳さんに翻弄される役という構成も非常によく考えられていて・・・。要ははまってしまうのです。共演の関村俊介さんの手馴れた突っ込みも見ていて気持ちが良いし、根津茂尚さんのいじめられっぷりにも味があるし。結果、舞台上に妙な居心地のよさがあって・・・。

6月の次回公演(6月20日~25日@王子小劇場)の前売りが会場であったので、何の躊躇もなく買ってしまいました。頭脳が欲するようなセンスがこの劇団にはある・・・通好みなのかもしれませんが、いっかい取り込まれると離れられない麻薬のような魅力がこの劇団にはあります。おすすめですよ・・・。ほんと・・・。誰にもまねの出来ない何かを持っている劇団って強いですよね・・・。

ああ、よい一日でした。横浜ー川崎ー王子と当たり芝居の行脚ですものね・・・。芝居好き冥利に尽きる一日でございました。

R-Club

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ソニンさんのあと一歩(血の婚礼)

東京グローブ座で「血の婚礼」を観てきました。

この芝居、物語自体はシンプルなのですが、役者の力でどんどん化けていくような仕掛けがあります。期待、不安、失望、憎悪・・・・。役者の表現でニュアンスが変わってくるというか・・・。役者なり演出家の力量が大きく問われるというか・・・。原作を読んでいないので、仕掛けがフェデリコ・ガルシア・ロリカが小説上で作り上げたものなのか、演出家であるとともに台本にもクレジットのある白井晃さんの才なのかはわからないのですが、多分両方なのでしょうね・・・。

R-Club本館にもつたない評を載せましたので、重複にはなりますが・・・。役者の出来も演出も秀逸で、舞台上にしっかりと熱や重さを感じる舞台となりました。この熱こそ今回の作品の生命線だったような気がします。それと物語の後ろ側の事情も演出の勝利で見通しが良く、物語の幅が大きく広がりました。

江波杏子さんは初見なのですが、大きな演技をされる役者だと感じました。彼女の演技がお芝居全体のトーンを作っていたし、彼女の表現が揺らがなかったことでこの悲劇が成立したような気がします。

森山未來さんの演技にも説得力がありました。ダンスにも力がありましたが、なにより自分で自分をどうすることもできない苛立ちがまっすぐに観客に伝わってくるのです。

多分、もっと強く気持ちを観客に伝える技って演劇にはあって、その熟度が少し足りないので切れだけが先んじるような部分も多少ありましたが、そうであっても芝居としては十分に及第点以上だったと感じました。

浅見れいなさんの演技も地味な役柄とはいえしっかりと観客に染み入るような浸透力があり、とても好感触。尾上紫さんの少女から月に移ってのしなやかな動き、そして台詞の凛とした響きにも惹かれました。

ソニンさん、決して悪くなかったです。昔の恋人と結婚する男に関する葛藤、理性が情に揺らぐときの繊細な痛みが冷たい熱となって舞台をしっかり覆う・・・。彼女の持つ才の片鱗を見た思いがしました。ただ、そこまでの才があるのなら、一番最後に江波さんと交わす台詞にはもっと力があっても良かった気がします。自らの持つ理性を凌駕する情、もっと汚く演じてもよかったのでは・・・。下世話な言い方をすれば脚を精一杯開いて子宮までさらけ出すような感情の発露がその台詞たちにこもっていれば、さらにそれが観客に伝えられていれば、舞台全体の印象がまた一つ変わっていたのではないかと思います。

きっとその感情が強くつたわっていれば、ドミノ倒しのように池谷のぶえさんや浅見れいなさんの演技がもっと生きて、舞台全体の奥行きがさらに広がったのではとも思います。闇と月の暗示するものもしっかりと生きるでしょうしね・・・。

ソニンさんから感じられる才能、実はかなり強くて、だからこんなことを書きたくなってしまいます。裏を返せば彼女は今より遥かに大化けした女優になるような予感がする・・・。大竹しのぶさんとか松たか子さんなどが持っている舞台全体を一気にさらってしまうようなパワーをそこはかとなく彼女にも感じるのです。

もし、そのパワーが(地方巡業もあわせて)公演期間中の6月までに開放されたら、「血の婚礼」は名を残すような舞台へともう一段の進化を遂げるような気がするのですが

まあ、このレベルの舞台を見てさらにあれやこれや言うのは、観客としてもちょっと不遜な気はするのですが・・・、ちょっと惜しい感じが終演後残ったこともまた事実・・・。観客というのはどんなご馳走を食べた後でもさらに次を求める貪欲な人種なのです。

R-Club

PS:ちなみに上記の下世話なおことばは某女優生涯の名言だとか・・・。わかりやすいけれど男からは絶対出てこない発想です。蛇足ですが・・・。

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それはセピアに磨かれた鏡の迷宮(ノマディック美術館)

4月の初めくらいから、新橋駅に貼られたあるポスターがとても気になっていました。中近東っぽい服を着た子供がひざまずいた象の前で本を読んでいる写真・・・。少年が象に本を読んで聞かせているようにも見えるし、少年が本を読んでいるのを象が見守っているようにも見える・・・。

セピアで表現された光と影、柔らかな地平・・・。ふっとやってくる浮揚感。はるかな見知らぬ地への旅立ち・・・。

人の流れをさえぎるようにして立ち止まって、ポスターをじっくりながめて・・。それは東京お台場で期間限定公開されているノマディック美術館(グレゴリー・コルベール ashes and snow)のものでした。

で、友人に誘われて実際にお台場へ・・・。

最初、写真展で1900円はちょっと高いと思ったのです。まあ、「映像・写真・建築・小説」が一体となった美術館だからしょうがないかくらいに思って入場券を買う。ほとんど朝一番のせいか並ぶこともなく、なんだ評判になってないのか・・・。もしかして見かけ倒れ?。

しかし、そのテント張りに見える建築物に一歩足を踏み入れた瞬間に、私の偏見は吹っ飛んでしまいました。

20ftコンテナで形作られた壁、敷き詰められた大粒の砂利、見上げるほど高いテント張りの天井、果てしないとさえ思うコリドーの左右に吊るされた巨大な写真たち。象、少年、水、砂、光、本、・・・・。すべてがポスターと同じセピアのなかに取り込まれています。気まぐれに軋む床を何歩か進んで、その光景を見た瞬間、自分がこれまで時間につけてきた足跡がふっと消え去る感じがして・・。

淡い闇を進むたびに写真たちの語りかけがやってきます。写真に閉じこめられているのは、はるかに遠い世界、セピアの白は照らされた頬、象の大きな背中、影すら闇にならず茶に染まる。静寂からあふれかえる、乾いた熱、静・・。

本、たたずむ人、無に流れる時間、砂、風、思索・・・

子供、老人、ささやき、伝承、ふれあい、人のとまどい、動物のとまどい、舟、流れ、よどみ・・・。

走る少女、手をつなぐ、砂丘を登る、水しぶき、動・・・。そして不可思議な浮遊感・・・。

それにしても不思議な写真たちです。写真の言葉たちがランダムに自分につながっていきます。象と少年の写真に放課後図書館で夢中になった長編の小説が浮かび上がり、数十年をとびこえて書棚から取り出した本の記憶がやってきます。水飛沫と女性の写真に、公園で笑いはじけた午後のひと時が瑞々しくよみがえります。何枚もの写真にいくつものランダムな記憶が結び付けられ、記憶の上に記憶が重ねられて・・・。動と静がアラベスクのように心を支配します。

コリドーの果て、の中央で提示されるのは1時間ほどの長編映像と前後に短編映像が2本、・・・。

短編画像には人と動物の関わりがこめられています。川、チンパンジーに水を与える女性、つながれた手。柔らかに近づくもの、静かに離れていくもの・・・。離れていく舟に乗った猫のとまどい。

戸惑いから浮かぶもの、名前を付けられないけれど懐かしい感覚。分けられた時間や気持ち。舟は心?舟は時間?あるいはその両方・・・?。心に満ちてくるもの。なにが満ちてくるのか・・。知っているのに言葉と結びつかないなにか・・・。あるいは満ちていた記憶なのか。もどかしさを伴った慰安。

一方にある喪失感。ファントムペイン?失ったものは何?もう1つの舟のへさきから猫の肉球がゆっくり離れていく・・・。戸惑うことしかしない猫は誰?

すべてはセピアの鏡の向こう側の出来事・・・。前触れもなく静かに始まり完結することなく終わる映像・・・。精神的重量が明らかに増しているのがわかります。

長編画像には音楽に加えて言葉がつきます。それは愛する人に対する語りかけ・・・。もしくは愛する人をスクリーンにした心の原風景の具象化・・・。静と動、水と砂、流れる時間。いきつもどりつ・・・。象の目、時をすべる舟、風、黙想、飛翔、豹に守られた心、伝承、交流、孤独・・・。コリドーの写真と同じそれらのイメージは写真から得た感覚をさらに強く鮮明にします。私自身のいくつかの断片的な記憶が掘り起こされるころには、私自身が旅の中に融合されている・・・。水の冷たさの中に浮き上がる自分がいて、触れ合う人がいて、陽に照らされた全身は熱を感じ、砂漠での瞑想では砂のかすかな痛みすら感じ・・・。

感情は鳥が飛び立つときのように動き、言葉は無知なるものに伝えられ、ふれあいは記憶に変わり・・・。瞑想は風の中にあって・・・。渾然としてくりかえし、しかも不可分で・・・、静と動のゆっくりとした繰り返し、止まることはない・・・

いくつもの記憶、自分の記憶、取り込まれた旅の中から見ると遠い記憶、鮮明なのに重さを失っていく記憶。精神的重量と反比例するように消えていく記憶の質量。

映像上の言葉「羽は火に、火は血に、血は骨に、骨は髄に、髄は灰に、灰は雪に・・・・」。真理を映像に焼き付けるとき重さが奪われて、天秤のバランスをとるために自分の記憶の重さまで奪われたような・・・。

中近東、サバンナ、ネパール・・・。遠い世界のイメージをセピアに染めて壁紙にして、記憶をゆりかごにのせて夢をみちびく・・・。時の海を漂いながら、質量を失った日々に想いを馳せます・・・。映像はやがてふっと途切れ、言葉だけが残り、それも終わる・・・。短編・長編・短編、それ自体が果てしない道程に思えます

映像の先には行きと同じ長さのコリドーがあって、暗さになれた目には光を感じて・・・。深い思索に身を沈めながら一歩一歩板を軋ませ前に進みます。

出口の前で、きた道を振り返ってみるとやはり果てしなく見えるコリドーがあって・・・。まるで何ヶ月もかかって旅をしたような錯覚に捕らわれます。

時計を見ると2時間ほどの旅程・・・。きっとテントとコンテナでできた大宮殿の中では時間が大きく迂回をしているに違いありません。

会場を出て目の前のヴィーナスフォートを抜けてゆりかもめの駅(青海)までいくと、目の前はもう東京湾。潮風がとても心地よく、形を失った感覚だけの記憶がそよぐ感覚を、色のついた海を眺めながらしばし楽しんだことでした。

グレゴリー・コルベール ashes and snow (ノマディック美術館 東京お台場)

臨海線東京テレポートの駅からすぐそば、6月24日までの会期とのこと。金曜日~日曜日・祝日は夜10時までやっているみたいです。

会期の終盤は大混雑になるかもしれません。早めにいけてラッキーだったと思います。

とりあえず超おすすめということで・・・。

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「ドラマ進化論」(北京蝶々)のしなやかなはばたき

北京蝶々って一度観に行きたかったのですよ。双数姉妹で劇団員帯金かおりさんの怪演をみているし、双数姉妹や第三舞台の後輩劇団として現役の早稲田大学演劇研究会がどんな芝居をするか見たいというのもありました。

結論、べたな言い方ですがとても面白かったです。

結構リスクのあるテーマだとおもうのですよ。ひとつ間違うときわめて表層的で陳腐な話になってしまうし、視点を変えれば市民団体敵に回してしまうかもしれないし・・・。

でも作る側は、それらのリスクを十分に見切っていたのでしょうね。自らの創作物のなかに真理が含まれているという確信があったのではないでしょうか。真理が見えていたから、近年の情報流通手段等の変化によって起こる事象を、尖った世界でなくオーソドックスな素材で作ってみせるゆとりがあったのだと思います。しかも十分に咀嚼して提示する力量を劇団として持ち合わせていた。

そもそもネットによる意思醸成に関して、TVドラマという既存の世界を素材にしたところにも、この劇団のセンスのよさを感じます。独りよがりに難しい素材を使うことをせずに、わかりやすい媒体で観客を自らの懐に呼び寄せます。センスのよさは、劇中でのドラマに関するデータ提示のシーンにもよく現れていました。アンケート結果の提示方法(グラフ)や作りかけのドラマの提示の仕方、それだけで上演時間を節約しただけでなく、物語のコアの部分で観客に必要となる前提を効率的に観客に提示することに成功していました。この提示があったから物語が本当に提示したい部分がまっすぐに観客に伝わってきたのだと思います。

音の使い方もうまかったですね。前提を提示した後は、音を芝居に大きくからめて観客を追い込んでいきます。それまでわかりやすい情報を提示して観客を舞台に引き込んでいたのに、ある段階から与えた情報をロジックにして観客をある種の緊迫感に追い込んでいくように舞台のトーンが変わります。

とてもしなやかな舞台、しかも見終わったあとに1時間芝居とは思えないほど強い充足感がありました。

最後の暗転だけ少し気にはなったのですが、まあ、それは舞台側の事情なのかもしれません。暗転の長さに意図があるとすれば、もうちょっと工夫があっても良い気がしました。そうでないと最後に提示ものがもったいないような・・・。

役者では帯金ゆかりさんにやはり華がありましたが、白井妙美さんのしっかりと入り込むような演技にも大きな力を感じました。赤津光生さんも自分のペースをしっかりと守って舞台をうまくコントロールしていたように思います。

鈴木麻美さんの落ち着いた演技にも魅力を感じました。舞台の状況に絡みながらも流されずに自分のペースを守り、狂気に舞台上の正気が流されないようにアンカー(碇)の役割をしっかりと果たしていました。

松崎美由希さんをはじめ、他の役者さんたちも発声を含めて訓練されていて、なおかつ切れがいいんですよね・・・・

切れがよいといえば、客を並ばせるところから荷物の預かり、客入れ、座席の案内などの一連の作業を行っていた方々も本当にしっかりと訓練されていて気持ちがよかったです。観客を気持ちよく芝居に没頭させる心遣いを感じることができました。

ところでこの「ドラマ進化論」というこのお芝居、今回見たのはβ版ということで、このあと観客のアンケートを反映させてキャストなどを変更し本編を上演するそうです。戯曲の内容と妙に重なり合ったこの企画、思わず私もアンケートを熱心に書いてしまいました。そういう芝居の外側の工夫にも奇をてらわない洗練された発想のしなやかさを感じたことでした。

本編は5月23日~29日までとのこと・・・。お勧めです。

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