鳥肌が立つような才能(空間ゼリー)
週末3本舞台をみました。金曜日~日曜日に一本ずつ。
金曜日に観た「僕たちが好きだった革命」と土曜日に見た「ゼリーの空間」は、偶然高校生が主人公でした。片方は大御所、鴻上尚史の作・演出、一方は新鋭坪田文の力作です。
鴻上さんの芝居も面白かったです。一時のように時代認識が自らの理想論と混濁したり、時代を楽観ししたりすることがなくなって、時代の熱のようなものがすっきりと観客に伝わってきました。でも、やっぱり違和感があったのです。どこかに時代とフィットしないなにかがあるようで・・・
で、翌日見た「ゼリーの空間」はえんげきのぺーじを見て発作的にチケットを取ったもの。よい芝居とのめぐりあいって案外気まぐれが一番のトリガーになったりするのです。今は心ない書き込みにすこし汚されてしまっていますが、初日、二日目くらいのレビューを見るとすごくおいしそうな匂いがする。真摯なレビューがほめる芝居にはちゃんとおいしそうなにおいがするのです。逆に芝居の質を無視した書き込みには魚が腐ったにおいがする。まあ、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、まったくうそというわけでもありません。
「ゼリーの空間」についての感想等の詳細は本館をぜひごらんいただきたいのですが、それはすごいお芝居でした。作家の坪田氏は非常に伏線の張り方が上手で、前半さまざまな形で観客の意識に引っ掛けていたトリガーが中盤から後半にかけて次々と観客を引き込んでいくのです。大上段にふりかぶったり、これからやるぞみたいなトリガーは一切なく、解かれたときにはじめて観客が物語を鳥瞰出来ていることに気づくような伏線の網がこの芝居にはあって・・・。
しかも役者たちは、観客にとってノーミスでこれらの伏線の掛け解きを果たして行くのです。役者達の演技、たとえば「僕たちの好きな革命」で大高洋夫が演じた怒りのようなインパクトを「ゼリーの空間」の役者達にに求めるのは無理だけれど、でも、芝居を成立させるに十分な演技。「僕たちの・・・」が一つ一つの動作に意味を込めた理詰めの演技だとすれば、「ゼリーの空間」の演技はナチュラルメイクのような演技。
空間ゼリー役者達が高いレベルの演技をしていることは、恥ずかしながら芝居が終わってロビーに出たときに気づきました。ロビーでDVDを予約するときに女優の方にお願いしたのですが、そのとき彼女達がいかに高い演技力で舞台上のキャラクターを作り上げていたのかを悟りました。舞台上では役者達がみんな大きく個性がしっかりと見えたのに、ロビーの物販や出口で送り出しをしている役者達は本当に華奢でたおやかな感じで・・・。そう、舞台上のナチュラルな登場人物の風貌はひたすら彼女達の演技の賜物だったのです。
まあ、舞台上の台詞や動作のテクニックという点では、もっとスムーズにできたらとか、相手との間を意識すれば・・・とかいう部分がそれなりにあったことも事実です。しかし、それはこの芝居にとってそれほど重要なことではなかった。物語の性質上、彼女達がしっかりと実存感を舞台上に作り上げることがなにより重要なことだったにちがいありません。そして役者達は見事に成し遂げて・・・。しかも、前半流せる部分でのあやうさがあっても、勝負どころでは小さな演技上の違和感すら一切なかった。結果として観客は息がとまるほどの物語に引き込まれることになりました。
「僕たちの好きだった革命」を振り返ってみると、役者達の演技はそれは見事なものでした。でも、シーンによって実存感を観客の想像力にゆだねるシーンが結構あって・・・。舞台と観客の間で行われる見せられることと想像にゆだねられる部分の受け渡しが、どうもスムーズに行かない部分を感じることがおおかった。その違和感が作品にかすかに漂う陳腐さの影にもつながっているような気がします。「ゼリーの空間」にも観客の想像力を利用して物語を進めているところが何箇所かあったけれど、その受け渡しが実に巧みで、思わずため息がでるほど。
結果として金曜日、芝居の後に感じた高揚感がすごく遠いもののように思えて・・・。
中村雅俊の歌や片瀬那奈さんの演技もすごく見ごたえがあったけれど、坪田さんと役者の皆さんは、鳥肌が立つような才能で、鴻上さんの物語の影を若干薄くしてしまったようです。
一方、今日は世田谷パブリックシアターでの大駱駝鑑の公演を観て、それはそれでものすごい舞台だったけれど、でも「ゼリーの空間」の印象が消えることはなかった。
空間ゼリーにはそれだけ良いものを観せてもらったということなのだと思います。坪田さんや役者陣の充実感も相当なものでは・・・。ブログかなにかに作り手や演じ手から語られる「ゼリーの空間」なんて載りませんかね・・・。申し込んだDVDの特典映像なんかでもいいけれど。
まじで興味があるのですが・・・。
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