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奥華子の歌はリセッシュのよう(誉め言葉)

それは3月25日の日曜日のことでした。

るるん(飼っているモルモット)の敷き草とパセリが少なくなったことに気がついた私は、車で北戸田のジャスコへ出かけました。朝方強く降っていた雨もやみかけた11時くらいのことでした。

パセリとレタス、それにヨーグルトとチーズ、さらにカップ麺が入ったスーパー袋をぶら下げた私がジャムを買おうと専門店街に向かったとき、その歌声が聴こえてきたのです。

一言でいえばまっすぐな歌声、多分それまでに聴いた歌声のなかで一番近いのは彩恵津子さんかなとも思うのですが、しっかりと透き通った芯がその声にはあるのです。気持ちよく伸びやかで・・・。特にEの音を伸ばす部分を聴いていると生理的な快感すらある。それよりもなによりも、彼女の歌、いくつかの言葉がつながっていくだけで、しっかりとしたドラマが聴く者の目の前に広がっていく・・・。

それが奥華子さんの歌を聴いた瞬間の状況でした。

彼女はケンタッキーフライドチキンの先の吹き抜けの広場にいました。30分後のコンサートのリハーサルをしていたのです。で、彼女が歌いだすたびに3階分もある高い天井のその空間はまるで魔法がかかったみたいに彼女の世界になっている。前の雑貨屋さんもコーヒー屋さんも惣菜屋さんもすべてが消えて、夕焼けの道と一組の男女がそこにいる。私は目をつぶっているわけでもないのに、まるでリセッシュで匂いがすべてどこかにいってしまうように、彼女の歌声は周りの景色をふっと意識からホワイトアウトさせてしまい・・・。彼女が歌い上げる世界だけがある。

ほら、芝居でも素の舞台なのに役者の力で色んな光景がみえることってあるじゃないですか・・・。ピアノと彼女の声も同じこと・・・。そのときはリハーサルですから曲を全部歌うわけではなく途中まで・・・、でも彼女が歌をやめても少しだけその世界の余韻がのこって、やがて回りは雑貨屋さんやコーヒー屋さんに戻っていくのです。

で、もっと彼女の歌声を聞きたいと思う。突然消えてしまった物語を最後まで見たいと思う・・・。その段階で始まっていた物販の彼女の最新CD、(TIME NOTE)即買です。File0014

まあ、サイン会の参加券までついていたのもすてきなサプライズでしたが、すでにその段階でCDを買い求める列ができていたのにも驚きました。リハーサルの段階で歌に惹かれたのは私だけではなかったのです・・・。

CDを手に入れるとあわてて車に買い物袋を置きにいって・・・。再び同じ場所にやってくると、もう人だかりで・・・。そしてステージが始まって・・・。

あっという間の30分のステージでしたけれど、それぞれの曲にしっかりとした世界があって・・・。

魅了されるって言葉はこういうときに使うのでしょうね・・・。最初はその声に惹かれたのだと思っていたのですが、実は彼女が表現する世界に一瞬で取込まれたのだということを悟りました。もちろん彼女の声も表現のための強力な武器ではあるのでしょうし、とてもしっかりと訓練された歌唱でしか表現し得ない領域の発声であることも伝わってきましたが、それよりも彼女の歌詞と声とピアノが一体になって観客の心に築き上げた世界が本当に瑞々しく、しかも言葉に飾ったところや浮いたところがないから等身大の、聴くものが身にまとえる現実がちゃんとあって・・・。

そりゃCCレモンホールがSOLD OUTになるのもわかります。

しかし、ストリートやフリーイベント系では本当にすばらしい才能に出会います。劇団鹿殺しもそうだし、やなわらばーもそうだしね・・・。こういう偶然で人生が豊かになるって、すごく幸運なことだと思います

コンサート後サイン会に参加させていただき、握手までしていただきました。彼女の歌だと、もうすぐ物理的にショッピングセンターなどではコンサートなども出来なくなってしまうのかもしれませんが(人が集まりすぎて・・・)、人通りのある高い吹き抜けの空間で彼女の歌声を聞いたことは、多分凄く贅沢な思い出として忘れないでしょうね・・・。

買い物袋をもって洒落っ気のない格好で歩いていて突然やってきた凄いものとの出会い、本当にあの場所にいって、よかった。ラッキーはえてして突然降ってくるものなのですね。

R-Club

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フラガールが泣けるわけ

フラガールのDVDを買ってしまいました。それもメモリアルボックス。

ちょっとお高めの買い物って言う感じで・・・、でも買ってよかったと思います。メイキングなどコンテンツも比較的秀逸だったし、映画の映像とは異なるアングルからのビデオ映像によるフラガール達の姿は、本編の感動をいっそう深くしてくれたような気がします。

ラストシーンのタヒチアンダンスにいたるまでの出演者たちの努力は凄かったのですね・・・。ひとりひとりのインタビューがあるのですが、それを聞いていても、何かを乗り越えるために極限状態にちかいところまで追い詰められていたことが良くわかります。

何人もの出演者たちが「最後にはギャフンといわせてやる」を合言葉に練習を重ねたといいます。それは映画のコンテンツと見事に重なって原作と映画の世界をリンクさせます。そしてはじめてのステージが終ったときの達成感も演技ではなくまるでドキュメンタリーの一部のようにそこに存在するのです。フィルムで取った映像は、ある意味お化粧をしているので達成感の部分が強くでていますが、ビデオで一部写っている彼女達の表情を見るとそこにいたるまでに超えてきた道のりの厳しさも読み取れる気がします。一色ではなく重層的に塗り重ねられたダンサーたちの感情にこそ感動が詰めこまれているのです。

それにしても、蒼井優というのはある種の凄さをもった役者です。とがったところや激しさを見せずに観客のこころをすっとつかんでいく。ポカリスウェットの感触っていうのでしょうか・・・。虹の女神のときにも感じたのですが、想いの表現に重さがないのに受け取る側に深い想いがしっかりと伝わってくる。ちょっと惚れ惚れしてしまいました。松雪泰子の演技もすごく生きていたし隠す感情と表に出す感情の切り替えのような部分はさすがという感じがしましたが、観客に与える印象の深度をみるとやっぱり蒼井のほうが上だものなぁ・・・。彼女はこの先何年間かで日本を代表する映画女優に化けていくのだと思います。駅のシーン(松雪泰子を呼び戻す場面)の撮影風景がメイキングにありましたが、見ているほうが胸がいたくなるようなオーラが画面を通じてまでひしひしと伝わってきた。まあ、演技の線にもっと太さがあると、もっとすごいのだろうけれど、年齢的なものもあるのでしょうね・・・。

南海キャンディーズ、しずちゃんの演技も再び観ていると結構映画のスパイスになっていた・・・。彼女の演技って時代のトーンを作っていたと思うのですよ。池津祥子にしてもそうなのですけれどね・・・。公演を重ねていく場面、しずちゃんにしか出来ないキャラがあってそれも名演でしたね・・・

ある意味オーソドックスなつくりの映画なのだとおもいます。何かが突出している映画というよりは、あたりまえのことを見事に積み重ねた結果、すごくよい素地が出来たという感じ・・。中盤以降は観ていてわくわくするし。そしてラストの数分間にはけれん味のないダンスの見せ場もあって・・・。単なる映画にはない余韻がしっかり残って・・・

李監督のバランス感覚のよさなのでしょうね・・・。こういうあわせ技一本みたいな映画はじんわりと来て忘れられない。観るたびに何度も泣けたりするのです。

R-Club

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Vivid (どぶ@大駱駝鑑 & 空間ゼリーのつづき

すこし、遅くなりましたが、大駱駝鑑をはじめてみました。先週の日曜日です。前回の書き込みであまりにもあっさりふれただけだったし、本館に書き込むのをちょっと迷っているのでこちらで補足ということで・・・。

白塗り系の舞踏というのは、昔からどうも難しいという印象があって・・・。強いて見に行きたいとは思わなかったのです。しかし、一度は観ておいても良いものという思いはけっこうありました。

で、観るとこれがおもしろいのなんの・・・。もっと意味がないものなのかと思っていたのですが、すごく豊潤な内容で・・・。

まず演者の肉体がすごい・・。イメージと違って筋肉むきむきというわけではないのですね、無駄がそぎ落とされた感じはするものの、そこにパワーのようなものは感じられない。しかし内なる力というかしなやかさには息を呑むしかない。

最初の、水が高いところから落ちてくるイメージの表現に魅了されると、あとはもう彼らの作るイメージに流されていくばかり・・・。いくつかの対比するイメージのなかで、夢と現の境界線を遊ぶ心地にゆらぐ時間のなんと豊かなことか・・・。観客はただ座ってみているだけなのに何かから解き放たれたような感覚すらあって・・・。

何かから突き抜けた肉体の動きは、舞台を観るものが現実との間で繋いでいた糸のような感覚すら麻痺させてしまうのかもしれませんね。

本当にとても不思議なのですよ。、肉体で表現するものはほとんどすべてがイメージの積み重ね、観客に眠っている感覚の借景でもあるはずなのに、でも生々しい感触が舞台にはあって・・・。そう、Vividという言葉が一番適切かもしれない。

私個人的な解釈かもしれませんが、Vividという言葉にはナチュラルなものがベースにあってそれが活性化するようなイメージがあります。で、大駱駝鑑の白塗りはどうかというと・・・、抽象化の権化のような表現なのにこれがとても自然に思えてくるのです。不思議だけれどVivid・・・、そんな風に評するのは彼らに失礼なのかもしれませんが・・・。

そうそう、Vividということでは「空間ゼリー」の舞台などは本当にVividだった。舞台だけでなく舞台の外側にあるもの、たとえば彼女達のブログなどもVivid・・・、そこにはしっかりとした力が内包されていて、読むものをちょっと幸せな気持ちにさせてくれます。。

極め付きは「空間ゼリー」の公演に今回出演されていた冬月ちきさんの個人ブログ(Window to the World)で、そのVividなこと・・・、かなりしっかり更新されていてボリュームもあったのですが、思わず取り込まれるようにさかのぼって最初まで読み漁ってしまいました。特別工夫がされていたりり大きくデフォルメされたような表現はまったくないのですが、天分というか、彼女がなにかを生き生きと表現する才能にめぐまれていることが、このブログからしっかりと伝わってくるのです。まっすぐできれいな言葉もたくさんあります。

ゼリーの空間」の他の役者達にも、形は違っていてもVividな何かが内包されているのでしょうね・・・。もしかして坪田さんが引き出したものなのかもしれませんが・・・。そして「ゼリーの空間」を振り返ると、Vividな役者が秀逸な脚本と創意のある演出にめぐりあってある壁を越えた稀有ともいえる舞台であったことを認識するのです

なんにしても、先週の土日は、わくわくするするお芝居ウィークエンドでした。

ところで、ちょっと余談なのですが、「ゼリーの空間」と大駱駝鑑の「どぶ」って前売りの値段も上演時間もいっしょなんですよ・・・。値段は偶然なのだろうけれど、上演時間は観客が満たされる最適の時間なのかもしれませんね・・・。

あ、フォローするわけではありませんが鴻上尚史さんの「僕たちの好きだった革命」にもよいシーンはたくさんありましたよ。劇中で歌われる「私達の望むものは」はそれだけで時代を超えた閉塞感を見事に表現していたと思います。昔は歌詞すら載せられなかったそうですね・・・。時は流れて・・・、今は公演の売パンフレットにしっかり載っていますが、奥行きのある歌だったことを再認識させられました。

でも、やっぱり「空間ゼリー」のインパクトが強すぎたのでしょうね・・・。「僕たちの好きだった革命」を熱く語る気になんとなくなれないのです。

一週間たってもそう感じます

R-Club

PS(3月18日 追加書き込み)

ある方から、「ゼリーの空間」に出ていらっしゃる岡田あがささんのブログを教えていただきました。冬月ちきさんとはかなり異なる印象ですが、やはり強く、しかもしなやかさを持った感性を深く感じるコンテンツです。「空間ゼリー」のブログ(写メール掲示板)を見てもわかるのですが、やっぱりいろんな感性をベースにした役者達の力があの舞台を支えていたことを再認識しました。

将来、再演というお話もでるのでしょうが、よしあしは別にしてあの時間・空間の再現というのは難しいのかもしれませんね。芝居というのは観るほうにとっても一期一会の世界なのだと思い当たったことでした。

さらにPS(3月19日)

別の肩から「ゼリーの空間」にご出演だった佐藤けいこさんのブログを教えていただきました。って、ちゃんと「空間ゼリー」のHPからたどっていけば発見できたらしいのですが・・・。あわせてご紹介しておきますね。

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ほうじ茶豆腐??塩キャラメル??(ニブロール鑑賞時の反省)

芝居の話からはすこし離れますが・・・。

私の出身は関西なので、京都の和菓子ってけっこうすきなのですよ。夏の鮎や薄い砂糖の膜に包まれた寒天のようなお菓子とか・・・。最近は東京にもけっこう進出してきましたが辻利の抹茶系スイートも大好きです。今はもう当たり前になっていますが、最初に辻利の抹茶アイスを食べたときには本当に感動しましたものね・・・。

で、今日、近所の某大型ショッピングセンターのスーパーで見つけたのがこれ・・・

Dsc00671 辻利のお茶を使った抹茶どうふに ほうじ茶どうふ・・・。新製品かどうかはわからないのですが、私は初めてみました。中には四角い容器にはいった(ぷっちんできるようになっている)固めのムースのようなスイーツにスプーンと黒蜜がついています。

食べてみるとちょっと独特の触感なのですが、おいしい。特にほうじ茶のほうはこれまであまりなかったタイプの味で結構新鮮だったりします。毎日食べたいというわけではないのですが、たまにすごく食べたくなるタイプですね・・・。抹茶も決して悪くありませんでした。

ただね・・・、こいつら豆腐売り場に並んでいるのですよ・・・。大豆を使ってないのに。下の段は男前豆腐・・。その上に油揚げなんかがあって・・・。豆腐に黒蜜はつけないだろうと思うのですが・・・。口取りかなにかに使えってことなのですかねぇ・・・。品名も和菓子でなくそうざいとなっている。

辻利の名前をみつけて手にとって、へえーおいしそうって何の疑問もなく買ったけれど、どう考えてもこれはおかずじゃないでしょ・・・。でも作っている新潟の会社はきっと惣菜系にしか販路がなく、その流れでスーパーに卸された商品だし名前も豆腐なので豆腐売り場に置かれたのでしょうが・・・。でもおかずだと思って買った人は一口食べてびっくりするのではないでしょうか・・・。

まあ、最近は中間的な商品というか、分類が難しい商品がふえてきましたから、ちゃんと見て買えってことかとも思うのですが・・・。間違ったおかげで新しいものを発見するということもあるし・・・。塩キャラメル?甘いんか辛いんかはっきりせんかい・・なんて思わず人生幸朗師匠に突っ込みを入れられそうな商品もあるし・・・。

舞台でもそうですよね。ほうじ茶どうふを食べながらふっと思いついたのですが、ニブロール、もしかして私はモダンダンスを見る目で見たからなにか違和感を感じたのかもしれませんね。ほうじ茶どうふが どの棚に置かれていようともほうじ茶どうふのテイストをしっかりと持っているようにニブロールはニブロールでしかありえない。

情報誌からの先入観念がすこしだけ私の感覚を鈍らせたのかもしれません。それがどこからどのようにしてやってきたものでも、自分の舌を信じてそのよしあしを判断する・・・。棚に惑わされない。

チョッチ難しいけれどたいせつなことなのだと思います

R-Club

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鳥肌が立つような才能(空間ゼリー)

週末3本舞台をみました。金曜日~日曜日に一本ずつ。

金曜日に観た「僕たちが好きだった革命」と土曜日に見た「ゼリーの空間」は、偶然高校生が主人公でした。片方は大御所、鴻上尚史の作・演出、一方は新鋭坪田文の力作です。

鴻上さんの芝居も面白かったです。一時のように時代認識が自らの理想論と混濁したり、時代を楽観ししたりすることがなくなって、時代の熱のようなものがすっきりと観客に伝わってきました。でも、やっぱり違和感があったのです。どこかに時代とフィットしないなにかがあるようで・・・

で、翌日見た「ゼリーの空間」はえんげきのぺーじを見て発作的にチケットを取ったもの。よい芝居とのめぐりあいって案外気まぐれが一番のトリガーになったりするのです。今は心ない書き込みにすこし汚されてしまっていますが、初日、二日目くらいのレビューを見るとすごくおいしそうな匂いがする。真摯なレビューがほめる芝居にはちゃんとおいしそうなにおいがするのです。逆に芝居の質を無視した書き込みには魚が腐ったにおいがする。まあ、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、まったくうそというわけでもありません。

「ゼリーの空間」についての感想等の詳細は本館をぜひごらんいただきたいのですが、それはすごいお芝居でした。作家の坪田氏は非常に伏線の張り方が上手で、前半さまざまな形で観客の意識に引っ掛けていたトリガーが中盤から後半にかけて次々と観客を引き込んでいくのです。大上段にふりかぶったり、これからやるぞみたいなトリガーは一切なく、解かれたときにはじめて観客が物語を鳥瞰出来ていることに気づくような伏線の網がこの芝居にはあって・・・。

しかも役者たちは、観客にとってノーミスでこれらの伏線の掛け解きを果たして行くのです。役者達の演技、たとえば「僕たちの好きな革命」で大高洋夫が演じた怒りのようなインパクトを「ゼリーの空間」の役者達にに求めるのは無理だけれど、でも、芝居を成立させるに十分な演技。「僕たちの・・・」が一つ一つの動作に意味を込めた理詰めの演技だとすれば、「ゼリーの空間」の演技はナチュラルメイクのような演技。

空間ゼリー役者達が高いレベルの演技をしていることは、恥ずかしながら芝居が終わってロビーに出たときに気づきました。ロビーでDVDを予約するときに女優の方にお願いしたのですが、そのとき彼女達がいかに高い演技力で舞台上のキャラクターを作り上げていたのかを悟りました。舞台上では役者達がみんな大きく個性がしっかりと見えたのに、ロビーの物販や出口で送り出しをしている役者達は本当に華奢でたおやかな感じで・・・。そう、舞台上のナチュラルな登場人物の風貌はひたすら彼女達の演技の賜物だったのです。

まあ、舞台上の台詞や動作のテクニックという点では、もっとスムーズにできたらとか、相手との間を意識すれば・・・とかいう部分がそれなりにあったことも事実です。しかし、それはこの芝居にとってそれほど重要なことではなかった。物語の性質上、彼女達がしっかりと実存感を舞台上に作り上げることがなにより重要なことだったにちがいありません。そして役者達は見事に成し遂げて・・・。しかも、前半流せる部分でのあやうさがあっても、勝負どころでは小さな演技上の違和感すら一切なかった。結果として観客は息がとまるほどの物語に引き込まれることになりました。

「僕たちの好きだった革命」を振り返ってみると、役者達の演技はそれは見事なものでした。でも、シーンによって実存感を観客の想像力にゆだねるシーンが結構あって・・・。舞台と観客の間で行われる見せられることと想像にゆだねられる部分の受け渡しが、どうもスムーズに行かない部分を感じることがおおかった。その違和感が作品にかすかに漂う陳腐さの影にもつながっているような気がします。「ゼリーの空間」にも観客の想像力を利用して物語を進めているところが何箇所かあったけれど、その受け渡しが実に巧みで、思わずため息がでるほど。

結果として金曜日、芝居の後に感じた高揚感がすごく遠いもののように思えて・・・。

中村雅俊の歌や片瀬那奈さんの演技もすごく見ごたえがあったけれど、坪田さんと役者の皆さんは、鳥肌が立つような才能で、鴻上さんの物語の影を若干薄くしてしまったようです。

一方、今日は世田谷パブリックシアターでの大駱駝鑑の公演を観て、それはそれでものすごい舞台だったけれど、でも「ゼリーの空間」の印象が消えることはなかった。

空間ゼリーにはそれだけ良いものを観せてもらったということなのだと思います。坪田さんや役者陣の充実感も相当なものでは・・・。ブログかなにかに作り手や演じ手から語られる「ゼリーの空間」なんて載りませんかね・・・。申し込んだDVDの特典映像なんかでもいいけれど。

まじで興味があるのですが・・・。

R-Club

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ほんの少しの塩加減(ニブロール・ペニノ)

先週の金曜日に観たニブロール「no direction。」はいろんな意味で不安定さのある作品でした。

不安定であるというのは良い意味でもあり悪い意味でもあります。実を言うと私の中でもこの作品の評価はしっかりとさだまらないところがあって・・・。それじゃ、不安定なのはニブロールではなくおまえだろ!みたいな突っ込みもされかねない状態なのですが・・・。要は良い部分がたくさんあってでも何かが足りないのです。

一番思ったのは、映像が大きく高い壁のステージをしっかりと使っているのに対して、ダンサーがその広さに十分ついていっていないなということ・・・。ひとりひとりのダンサーの能力はとても高く、びっくりするような切れのある動きが随所にみられたのですが、それが有機的に結びつかないというか、広さを味方にできていないというか・・・。

結果として舞台と背景の表現するものに一体感がなかったり、スケールに差が生じたりする部分が現出して・・・。しかも差が生じた部分の映像はため息がでるほどすばらしかったりすると、ダンサー達の力があるにもかかわらず彼らの演技が卑小に見えたりする・・・。ちょっと何かを足したりもう少し全体像を大切にする振り付けがあれば、映像のインパクトもさらに大きくなるしその中でダンサーたちが観客に与えるインパクトもはるかに大きくなるのにって・・・。意図が見えるところまで来ているのに、もうひと塩・・・あれば・・。

一振りの塩が料理を大きく変えることってあるじゃないですか・・・。表現の発想には間違いなくきらめきのようなものもあるし、斬新な部分もたくさんあるのに、最後の一つまみの塩がのどから手がでるほどほしくなる感じの作品でした。

翌日、今度は庭劇団ペニノの「笑顔の砦」を見たのですが、こちらは抜群の塩加減だった・・・。

一部には超リアルなどとの評もあったようですが、私はこの作品のデフォルメのうまさに舌を巻きました。マメ山田の怪演は別格としても、五十嵐操の看護士も漁師たちの動きもなにかがほんのすこしだけ恣意的に拡張されていて、あるタイミングで役者がすっと素の演技に戻ったときに、まるで潮が引いた海岸のように孤独が取り残されているのです。その控えめな拡張こそがまさに塩加減、その塩加減が生きるように細密に舞台が作られ、ディテールが舞台にあふれているようにさえ思えます。

多分、ニブロールの一塩も、なにかそういう力加減なのかもしれませんね・・・。そう、ニブロールの舞台って、出汁だけのうどんつゆのようなものなのかもしれません。おいしいものなのだけれど、でもおいしさが感じられないみたいな・・・。そうなにかを表現するためのずるさがあってもいいのにみたいな・・・

逆に言うとタニノクロウってそのあたりの匙加減にかんする感覚がするどいのかもしれませんね・・・。

私が脱帽するくらい・・・

R-Club/

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音が描く色 (ク・ナウカ 奥州安達原)

本館にも書きましたが、ク・ナウカの「奥州安達原」はいろんな意味でインパクトの強いお芝居でした。

一番取り込まれたのは音の表現。たとえば風、雪、氷柱・・・。それらが、さまざまな楽器によって見事に表現されていくのです。ある意味ピュアな世界と言えるかもしれません。豊かなる音、激しい音、そして静かなる音。音がないことまでも音が表すすごさ・・・。

物語自体はそれほど複雑なのものではありません。歴史的背景がわからないと、なにをやっているのかわからないお芝居ではありますが、前もって背景を予習していけばとてもシンプルに物語が流れていきます。その物語を進める語り手たちの声の透り(誤字だけれど一番「透」があたっているような気がする)のよいこと。透りのよい声は観客を心地よく物語りに乗せてくれます。一方で動きをなすものは表現を計算されつくしていて・・・。

最終的にぶれのないひりひりするような世界が時間の概念を観客からとりさって・・・

このひりひり感・・・、20年前にボブ・フォッシーの「Big Deal」を観たとき以来かもしれません。あのときのダンス、ぶれも無駄も一切なく、ソプラノのソロボーカルは限りなく繊細で、それらは役者達のものすごい力に支えられていて・・・。観客は舞台上の演技に対して自らが想像で補うべきものがなにもなく、それはすべてを舞台にゆだねることができるということで・・・。結果舞台上の小さな鼓動さえもすべて自分の感性で受け止めるようになる・・・。ダンサー達の足先の小さな動きがすべて観客に与えられるリズムに変わって・・・。「Damn Yankees」のグウェン・バートンとボブ・フォッシーの踊りなどを見ていると今でもその片鱗は感じられるのですが、あのとき見たものはそれをはるかに凌駕していたのではと思います。

で、それと同じような密度のようなものが、今回のク・ナウカの公演にはありました。

本当にすごいものは軽やかで緻密でさりげなく、しかも息をすることも忘れさせるほどの濃密さで観客を包み込むのです。久しぶりにそのことを思い出させてくれる舞台でした。

ク・ナウカはこれから個人活動のTermにはいるのだとか・・・。そういう意味でも歴史に残る舞台だったのかもしれません。これもきっとあとで重さを持って気づくのでしょうけれど・・・

R-Club

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