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演技が熟して・・・、宮沢りえの化け方

少し前なのですがロープをもう一度観てきました。

一段とよくなっていて再度びっくり。席は前回のほうがはるかによかったのですが、かえって後ろのほうだからこそわかることもたくさんあって・・・。高いと見えないところと高くなければ見えないところがあるのも芝居の面白いところ。リングの上は2階席の方が良く見えるような気がしました

それにしても宮沢りえさんのよくなっていること。ひとつの芝居も2ヶ月続けて演じていると、良い役者は熟すのですね。12月に見たときには、実況中継がもっと硬質な感じがしたのですが、今見ると実況中継のなかにある想いのようなものがしっかりと薫りたっている。元々完成度の高い芝居ではあったのですが、それでもまだ飽き足らないように彼女の言葉が含む果汁のような時間は豊潤になっていっている。

芝居というものは進化し、そのなかの役者というものはよりたくさんのバックヤードを表現できるようになっていくのですね・・。

覚えておこうと思います。よい女優さんは熟していくのだと・・・。

良い女優といえば、テレビなどを見て最近気になっている女優さんがいます。水川あさみさん・・・。ドラマ「医龍」でチームドラゴンに加わる看護士役をやっていらっしゃいました。むしろ「のだめカンタービレ」のコンマス役の方が世間には知られているのかもしれませんけれど・・。舞台の経験もほとんどないようです。

でも、彼女が舞台に立てば、きっと良い演技をするとおもうのですよ。そりゃ、TVを観ていても台詞回しなどでは、まだこれからかな・・・、と思ったりするところがあるのですが、でも、良い意味での器用さと不器用さをしっかりと隠さない演技をされるので注目しています。

舞台に出ないですかねぇ・・・。彼女。ケラさんとかならしっかりと使いこなせそうなきがするのですが・・・。ベースにしっかりと骨があり、演技の切り替えも早いので、、結構舞台向きだとおもうのですけれどねぇ・・。

ついつい気になって彼女の公式HPのBBSにも芝居に出ないかなぁみたいなことを書き込んでしまったのですが・・。よいおっさんが・・・。

そこにないとなるとますます見たくなったりするのです。

R-Club

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やなわらばーの透明感

たまたま、立ち寄った新橋烏森口で、「やなわらばー」の路上ライブを聴くことができました。

本当に偶然だったのですけれどね。

「やなわらばー」ってなれなれしく書いてますけれど、実は私も初見で、テレビの主題歌を歌われるほどのふたりなのに正直お名前も知らなかった。でも、彼女たちのその歌声は、ちょっと雑っぽい新橋の街を一瞬半透明の幕で覆うような力があって、思わず立ちすくんで聞いてしまいました。競輪の場外車券売り場の前、でも、そのあたりのごみごみした感じを一気に払拭するような力が彼女たちの歌にはありました。

本当にまっすぐに入ってくるのですよ。なにか魔法がかかっているのではと思うくらい。三線の音が心をゆっくりと解きほぐしてそこに二人のしっかりと研ぎ澄まされたボーカルが浸透していきます。

新橋の路上ライブですから、世間でいうおじさんが圧倒的に多いのですが、彼女たちの歌声はそのおじさんたちの風景から分離することなく、まっすぐにおじさんたちを包み込んでいきますまるで汚いごつごつ岩を洗い流していく清流のように機関車ひろばに伝わっていきます。

役者などでも物語を一気につかむ才にめぐまれていらしゃる方っていらっしゃいますよね・・・。空気をいっきにつかむような役者さん・・・。なんかそれと同じようなかおりが彼女たちの歌にはあって・・。

用事があっても、心がせいていても、あの歌声にはつい立ち止まってしまう。遠い南の海風がふっとほほに触れた気がする。

彼女たちも当然にマイクを使っているし、その音はスピーカーを通してなのですが、でも生の演奏の力ってやっぱりテレビやラジオからの音楽とは違うのですよ。生の演劇でも歌でも多分同じ。表現する生身の人間は、そこに彼自身のかおりに満ちた空間を作り上げるのです。どんなに解像度を上げても、やっぱり目の前の風景

思い高ぶらず自然に思いを伝えるような歌詞にも心を惹かれて・・・、そう、いそがず一曲ずつ満たされていく感じ。

何年かするうちに、2007年の新橋駅前広場は、ちょっとした伝説になるのかもしれません

R-Club

シングルCDを買わせていただくとき風邪予防のマスクをはずし忘れて・・。ちょっとはずかしく言い訳をしたけれど・・・。買ってよかったです。=CD。ここのところ毎日、家に帰ると聴いています

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「鹿殺し」ってやっぱりすごい

日曜日に劇団鹿殺しの「僕を愛ちて」を観てきました。

劇場は池袋のシアターグリーン最上階Box in Boxだったのですが、彼らの芝居というか力量にはちょっと小さすぎる感じ・・。結果として劇場内は彼らのパワーが溢れかえることになりました。

それは、芸の深みとか、間のすばらしさとか言われると、もっと良い劇団も多々あるし、芝居自体の構成もまだ良くなる気はするのです。しかし、芝居の出来を、どれだけ効率よく何かを表現されているかという観点ではなく、どれだけのインパクトを観客に与えているかという風に考えると、この劇団の力はちょっと普通の劇団のレベルから超越したものがあります。

まず、比較的キャパの小さい劇場での公演とはいうものの、ぽっと出たばかりの新しい劇団ではなく、役者たちがしっかり場数踏んでいることが、舞台を見てもわかります。一つ一つの所作や舞台上の試みがきちんと芸になっている。まるで歌舞伎の八法を踏むように役者が3人片足とびで演技をする場面があるのですが、その安定感、そろい方、観客が一種の爽快感を味わうほどすばらしい。それ以外の場面でも、役者の動きは切れすぎるほど切れている・・・。こんなに切れのある動きをする役者をみたのって、「天使は瞳を閉じて」のころの第三舞台以来ではないでしょうか・・・。

台詞回しなどは、「もっと丁寧に言えばさらに伝わるのにな・・・」、と思う部分もありましたが、今後大きな劇場で演じることを考えればこのくらいがちょうど良いのかもしれません。

座長の歌にも本当に聞き入ってしまった。カーテンコールの時にもう一曲聞けたらいいのにと思いましたもの・・。細かい曲のニュアンスをごまかしなく歌えるキャパがあるから、聴いているほうはただその歌に自分の感性をゆだねればよいわけで・・・。プロといわれる歌手の方でもこれだけの解像度を持った歌唱ができる方ってそうざらにいるわけではないような・・・。おまけに声の質も、α波が含有されているのではないかと思うほど心地よくて・・・。このボーカルの力があるからこそ、彼女が終盤近くに歌った曲が芝居の中で成り立つのだろうし、成り立つことで芝居のクオリティもぐっとあがった気がします。

たぶん、ここの役者って座長を含めて、能力をもてあましているのでしょうね・・・。そりゃコクーンでやれっていったら無理があるでしょうけれど、シアターグリーンでも、下の大きめの劇場で演じるだけの力は十二分にあるはず。いやいや、それでも彼らは能力をもてあましてしまうかもしれません。

観客としては、なんかものすごく贅沢な空間にいさせてもらった気もするし、同時にもったいないお化けがでそうな気もしたことでした。

次回の公演は夏だそうですが、超お勧めです。

R-Club

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みごろ!たべごろ!笑いごろ!!の偉大なるマンネリ感

ある意味キャンディーズ探訪のお話になるのかもしれません。

このブログでのシリーズ3作目というか・・・。

キャンディーズの特番から派生して、結局「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」のDVDのうちキャンディーズが番組中で主演したドラマ以外はすべて見ました。実をいうと、この番組、年齢的には十分楽しめた世代ではあるのですが、当時父の仕事の関係で1977年の6月から翌年の2月までロンドンに行っていたので一番大切な部分をリアルでは見落としています。それだけにある意味新鮮な部分があって・・・。

で、結果として、なんていうのだろう、一種の安定感というか、妙にどっぷりとこの世界に入り込んでいます。もう怖いくらい・・・。

多分、一番私を妙に和ませている一番の要因は、放送当時毎週繰り返されたであろう同じパターンの使いまわしなのだとは思います。ここまで徹底してやっていたとは思いませんでした。

伊東四郎・小松政夫・キャンディーズがやっていた、悪がきコントを見ていると本当に顕著で・・・。キャンディーズ本人たち自らが行っていたワンパターンの導入部分のあと悪がきたちの兄として小松政夫が出てきます、つづいて伊東四郎のお母さんが出てくる。そしてキャンディーズのお母さんにたいするその日の報告があって(ここは毎週バリエーションがある)キャンディーズがはけて(はけるときにもかならず柱や障子にぶつかるというお約束が相当期間あったよう)伊東四郎と小松政夫の二人の場面になります。最初母役の伊東四郎は息子役の小松政夫を無視しぽかぽかしゃもじでたたく。が、母が大好きな「からすの焼き鳥」を母親に食べさせたかったという言葉が小松政夫から出た時点で母親は反省しやがて二人で歌を歌います(歌は毎週異なる懐メロ)。でキャンディーズが一人ずつ現れてその週のテーマにあわせた出し物をして最後に小松政夫の言葉尻をとらえたいじめがあって終わり・・・。

その間に藤村美樹の「マンニリ」や伊藤蘭の「プレゼントアナウンス」などのギャグがしっかり組み込まれている。また有名な「世界のキャンディーズになるまで涙は禁物よ!」というせりふもこのパターンで登場します。

しかも、順序に関係なく繰り出されるお約束ギャクのパターンもあって、たとえば小松政夫がしたり顔でなにかを説明したときに伊東四郎が「知ってるよ!」と突っ込みをいれ、安西マリアの涙の太陽の一説(知っているのにしらんふり♬)を二人で歌うとか・・。

さらにはアドリブもけっこう許されていたみたいで、伊東四郎の歌に小松政夫がついていけないシーンがあると、次のシーンの冒頭で藤村美樹が「ついていけねーでやんの・・・」と突っ込みをいれたり。さらには田中好子が本当に生真面目にギャグを演じるその姿自身が一種のギャグになっていったり・・・

固定された物語の進め方やギャグとバリエーションの調和、それと、ちょっと関西的な笑わせたら勝ちみたいな雰囲気。関西では吉本新喜劇がこの手法を使っていたのですが、全国ネット・準ゴールデンのテレビでここまで見事に調和させたのはこの番組が初めてだったのかもしれません

たとえば、演劇においてもこういう固定ギャグの手法って今でも結構使われてますよね。後藤ひろひとあたりは使い方が上手で、たとえば「Big Biz」シリーズにおいては松永玲子演じるサラの登場なんかが良い例。 新たに設立する会社の名前にしても、八十田勇一演じるもくたろうが銀行に口座を作るくだりにしても・・・。でも、シリーズが進んでいくにつれてそれらのバリエーションは進化し、さらに新しいバリエーションが追加されていく。

後藤ひろひとの直近の作品では「Worst of ・・・」のなかの舞台転換の場面でもシーン間でこのやり方が使われていましたね。最初はスタッフだけだったのがゲストまでが手伝いをさせられるという発展系で・・・。

いずれにしても継続して提供されるタイプのコメディやバラエティに使われるさまざまなバターンがてんこ盛りだったことは舌を巻くばかりで、マンネリとかワンパターンといわれながら、一方でその発想の豊かさを感じたことでした。

また、練りに練ったコントでありながら、一方で出演者たちの素の部分の魅力を利用するようなパターンもこの番組が初めてだったのではないでしょうか・・。

尻文字や電線音頭で踊らせることで、キャンディーズの素の表情を引き出そうとしたり、それでは足りなくて、伊藤蘭を驚かせて(DVDに収録されているコントではにょろっとしたものが、コントの小道具に仕込まれていた。)素の表情を出そうとしたり。

キャンディーズの歌のレベルが上がり、そこに構築される世界というかドラマが豊かになっていくにしたがって、彼女たちが「みごろ!・・・」で演じる姿や素の表情とのギャップがおおきくなって・・・。

それらの取り組みは、テレビの内外という概念を取り去って、観るものをバターンのなかに取り込むことに大きく貢献していたに違いありません。

でも、今回一通り観て、あの番組、DVDというメディアでしか残せない理由も今回よくわかりました。ギャグが過激で、今、あれを電波にのせて再放送するのはかなり難しいとおもいます。

たとえば悪がきたちのことば、七夕の短冊に「学校が燃えてしまいますように・・・。ついでに校長先生の家も燃えてしまいますように」に鬼母が「えらいわねー、そうすれば学校お休みだものね」と応じたり、雪合戦の時に玉に鉄をいれて窓ガラスを全部割っただの(母は窓がなくて寒いと勉強に身がはいっていいものね、と応じた)石をいれて特定の友人にぶつけたら鼻血を出しただの(母はxxをやっと鼻血を出せるほど大人になったかと感心して見せた)、これって、今だとしゃれにならないというか現実に起こってもおかしくないことで・・・。そもそも、悪がきが政太郎(小松政夫)にしていることっていじめの構造を非常によく表しているともいえるわけで・・・。今、あれを放送したら、多分しゃれにならない。

要は現実が「みごろ!・・・」のギャグを追い越してしまったということなのかもしれませんが・・・。ガキデカのギャグがそれなりに過激だった時代でもあり八丈島のキョンか花の応援団ギャグのパクリのような動作も観られたこの番組には、当時の時代のゆとりのようなものが感じられたゆえんでもありました。

しかし、この番組、DVDに未収録のシーンなどや収録中のNGシーンなどもあるはずで、なんらかの形で見ることができるようになりませんかねぇ・・・。もう30年前の話なのだし歴史の証左の一部として・・・。

最近のM1グランプリなどの漫才をみると、剛速球ってストライクを取っていくような感じがするのですよ。それに比べて「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」はどちらかというと軟投型で・・・。番組の間にシリアス系のドラマまで入っていて、それが後半のコーナーへの口直しのようになっていたり・・・。秋野暢子さんのこぼれるようにでてくる素の雰囲気も当時は新鮮だったろうし・・・

いま、そういう軟投型に練った番組ってないわけで、できるだけたくさんの記録を公開してもらいたい番組のひとつです。また、藤村(尾身?)さんは難しいのかもしれないけれど、キャンディーズ、伊東四郎、小松政夫に西田敏行、秋野暢子あたりまで加えて、当時の現場の話をいろいろとしてもらうような特番などできませんかねぇ。それは単なるバラエティを超えて、バブル崩壊前の希望がまだいっぱいあった日本を記録した一種の歴史的資産になるような気がするのですが。特にキャンディーズについては、解散宣言とファイナルコンサートのみが注目されますが、その間の、たとえばラジオ番組のことや当時の全員集合の現場など、思い出という側面とは別に時代という観点から見たものや感じたことなどを話してもらえるとすごく貴重な資料になるとは思うのですが・・。

それと、どこかの図書館か博物館にそれらの資料をおさめたライブラリなどができたりとかもよいかも・・・。ちょっと高めの有料公開でもよいから・・。渡辺プロさんならできるような・・・。

今、しっかりとこの時代やこの文化を残しておくことは、案外大切なことではないかと感じたことでした。

R-Club

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くるっと時代はめぐって・・・(キャンディーズ・みんな昔はリーだった・winkのプチ評論)

キャンディーズの特集を見て感じたお話のパート2です。

この番組って昭和中盤生まれには結構関心が高かったようで、いろんなコメントがWeb上を賑わせていますね。また、それより下の世代からも子供のころの思い出としての感想が多くて、当時のキャンディーズの愛され方が良くわかります。

その中で一番興味を持ったコメントが今をときめくイラストレーターの方がおっしゃっていた、引退宣言をしたときの彼女たちの衣装が「今」であったということ。ファッションの最新トレンドについては知識がないのですが、でも、画面に出てくる彼女たちの姿ってまったく今の映像として違和感がないことは事実。プロフェッショナルの審美眼はきっとさらに深くそのあたりのことを感じられたのだと思います。

一方スタイルだけではなくエンターティナーとしても彼女たちには才能が与えられていました。「見ごろ!食べごろ!笑いごろ!」のギャグを演じているシーンなど、ネタは古いですがぼけ方や突っ込みのタイミングがほとんどプロはだしで、これも「今」に通じるものがあって・・・。いったん落としたところでもうひとつ引っ張っていくあたりで、彼女たちがテレビというメディアに対していかにプロフェッショナルであったがわかります。

ファッションの話に戻りますが、彼女たちの、特に活動期間後半の衣装というのは、素人目に見てもとても洗練されています。彼女たち自身が少女から大人になったことによる印象の変化や、曲調にあわせた衣装デザインの変化もあるのでしょうが、どこかにシックな部分と陳腐化しない美のようなものを併せ持った姿で、少なくとも彼女たちの映像が30年近く前のものとはまったく思えない・・・。色使いの豊かさもそうだし、バリエーションの豊かさもそう、彼女たちの衣装や振りは、当時も今も、見るものの心をときめかせてくれます。

キャンディーズが活躍していた時代は、後藤ひろひとの「みんな昔はリーだった」の回想部分の時代とちょうどかさなります。芝居でも描かれているように、あのころの少年少女も、いじめに耐えたり夢を見ることができにくくなったりと、今、世間で言われている問題点は程度の差こそあれ存在していたのですが、ただ、時間の流れや社会の動きについていえばバブル崩壊後の日本にくらべて、ゆとりや明るさがあった時代だったのではないでしょうか。その後バブルに近づくにつれて、だれもが流れているから、流されている状態に変わっていって、最後には多くのものがバブルと一緒にはじけて消えていった。

キャンディーズは自らの意思と時間や自分を取り巻く世界の流れの間に膨らんでいったギャップに悩み、結果として解散を選んだという解説が番組の中でありましたが、その後のバブルにはじけていったものたちにはギャップを感じるゆとりさえなかったような気がします。伊藤蘭さんが解散コンサートで「私たちはバカじゃない」と語っているとおり、その悩みは彼女たちの知性というか豊かでふところのひろい感性の発露だと思うのですが、同時にその発露の結果を、ぎりぎりであっても、彼女たちの裁量にゆだね、最終的にあたたかくうけいれることができた当時の社会にも、おなじようなゆとりを感じるのです。

キャンディーズ、そして疾走をつづけたピンクレディーのあと、バブル崩壊のころに登場した女性デュオにwinkがあります。私は彼女たちの歌も大好きなのですが、キャンディーズが心をやさしく高揚させる歌だとすれば、winkの歌はどこか心をクールダウンさせるような透明感を持ち合わせているような気がします。アンティークドールのような衣装が多かったような気がしますが、そこにはキャンディーズがもっていたようなゆとりはなく、その無機質な振りと歌唱時の無表情さには、形式美の極致のような完成度とセンスが感じられました。でもそれ以上に感じたのは行き着くところがなく輝くような終末美・・・。「寂しい熱帯魚」などの刹那感には流されつくしたあきらめ感や退廃の甘さまでが含まれていて・・・。その時代にwinkの曲に接して、キャンディーズやピンクレディーの世界に陳腐感を感じていたのも事実です。彼女たちの末期の歌には、初期・中期のころよりもどこか暖かさが感じられて、それはそれで嫌いではないのですが、でも彼女たちはその段階で普通のボーカルデュオになってしまった。キャンディーズの歌に新鮮さが戻ってくるのと反比例するように、彼女たちの美は光をなくしていったような気がします。彼女たちの感性を発露させるゆとりやそれを受け入れる社会のゆとりがなかったのか、あるいは彼女たちを輝かせるようなタイトな感じが社会から薄れていったのか・・・

今、たとえば「キャンディーズ」の特番が放映されたり、後藤ひろひとがあのような芝居を上演するのは、私たちにすこしゆとりが戻ってきたことの現れなのかもしれません。NHKや大王が意識していらっしゃるかどうかはわかりませんが。でもファッションや文化というのは時代をひっぱりながら、いっぽうで時代を映すものでもあるわけで、キャンディーズの衣装がその道のプロに「今」のスタイルとの共通性を認識させたり演劇でその時代の果てとしての現在が描かれるということは、背景として昔のゆとりが「今」にもどりつつあるということなのかもしれません。

時代はくるくるっとめぐって、まったく同じにはなりえないのでしょうが、昔と同じ香りがただよう「今」がある・・・。たとえばキャンディーズの3人がめぐってきた「今」をどう感じているかについては、彼女たち自身にちょっと聞いてみたい気もします。今回の特集の件も含めて、だれかがインタビューをするなんてことないですかねぇ・・・。

R-Club

PS:上記のイラストレーター、アオノミサコさんのHPには偶然流れ着いたのですが、彼女のHP(本館部分)のイラストの美しさには目を奪われてしまいました。ちょっとヴィヴィッドな感じにあたたかさと冷静さが同居していて、「今」に堕ちていくように心をひきつけられてしまいました。勝手連的におすすめです。

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キャンディーズの時代

お正月休みが終わって、一日仕事にいってまた3連休。

いろいろとPSXにとりためたものを見ていて、「キャンディーズ特集(NHK BS2)」の再放送分にはちょっと感動しました。

もう、30年近く前の話なのに、3人であることの力、個性が融和することの魅力、そしてその時代の安らぎのようなものがこの番組から見事に伝わってくるのです。

何度見ても驚くのが映像から伝わってくるステージでの迫力、魅力・・・。3人の女性が歌うことで伝わってくる理屈を抜きにした魅力のようなもの。70年代から80年代初頭にかけてのアイドル振りというのは一種独特で同時に非常に強いインパクトを与えてくれることを再度思い知らされました。

アイドル振りの魔力を一番最初に認識したのはナイロン100℃の「1979」という芝居でだったのですが、当時のキャンディーズのライブでの引力はあんなものではなかったのでしょうね・・・。それはブロードウェイのダンサーたちから比べると子供だましのようなダンスだし、歌だって瞠目するほど上手なわけではない。ダイアナ・ロスとシュープリームスのほうがステージの迫力もずっとあったに違いない。でも、伊藤蘭・田中好子・藤村美樹というそれぞれの個性がしっかりとあり、それらがシンクロしていく魅力というのは映像であっても言葉で表せない何かを持っているのです。(ちなみに1979では松野有里巳 宮前真樹 今井佐知子という、アイドル系3人組に所属経験のある3人がアイドル振りで一曲歌う場面があり、思わず見とれてしまいました。) 

さらに、彼女たちの曲っていくつかのパターンのなかで、それぞれに世界を持っていて、単にキャンディーズがいるということだけではなく、いろんな情景が彼女たちの歌から伝わってくる・・・。

「春一番」とか「夏が来た」などのシリーズ。穂口雄右の一連の曲から感じるやわらかい感触、そこに彼女たちの映像や歌声が加わると、ちょっと時間にゆとりがありすぎるような穏やかな日々、ささいな日常のちいさなときめきがふっとこころに戻って、レースのカーテンを揺らす風の記憶がよみがえり・・・。その日々がいとおしく思えてくるのです。

また、「やさしい悪魔」や「罠」のころには、たとえば山口百恵などがそうだったように、歌も振りもコントの間までもしっかりとプロになっていて、後期から最後のころのキャンディーズの映像を見ていると、しっかりと女性の気持ちを伝えることができる歌手になっていた。

今にして思えば、彼女たちにはグループのなかで、一人一人の個性を保ち続ける才能があったのだと思います。一番ライトが当たりにくいといわれていた藤村美樹にしたって、この番組をみる限り、彼女の魅力の発露を伊藤蘭や田中好子に殺されることはなかった。それぞれが自分を殺すことなくお互いの個性をしっかり引き出しあうことができた、ある意味奇跡的な組み合わせだったのかもしれません。

日比谷野音での解散宣言の映像は、この番組で初めて見たのですが、ドラマチックですよね。彼女たちの中では打ち合わせをしていたのでしょうけれど、結局彼女たちの思いは打ち合わせの枠を破壊し言葉を超越して、素の世界でダイレクトに伝わってきましたものね。あのあとのキャンディーズ、「私たちには時間がないのよ」といっていたキャンディーズの日々の輝きは、私の中にもはっきりと残っていますものね・・・。

番組の中で、伊藤蘭がつぶやくように話していた解散宣言の経緯の説得力もすごかった。BS2が以前に放送したザ・ピーナッツの特番で最後に出てくる本人のコメントにも説得力がありましたが、同じようなものを感じます。コントができて歌で観客を捕まえることのできるタレント・・、渡辺プロの手法のひとつなのかもしれませんが・・・、その中で育ったアーティストはある種同じものを見るのかもしれません。

で、思うのですよ。これだけの要素があるのに、なぜ、才能のある人が彼女たちを題材としたミュージカルにしないのだろうって・・・。解散からもうすぐ30年、そりゃ彼女たちはまだお墓に入る歳からは程遠いけれど、でもキャンディーズはミュージカルに仕立てるに十分な伝説になっているように思えるのです。

別に彼女たちの内面をえぐるようなものを作ってほしいわけではなく、彼女たちがステージにいた時代を描くようなショーレビューがキャンディーズナンバーを元にできてもよいのではないかと・・・。そのためのトリガーを彼女たちは山ほど残しておいてくれているのですから・・・

ミュージカルのお手本ともいえるブロードウェイにだってそういう手法のミュージカルはたくさんあるのだし・・・。

たとえば「ジャージーボーイズ」とか、映画になった「ドリームガールズ」とか・・・

根拠もなく、キャンディーズを題材にした、そんなステージを見ることができるのが楽しみでならないのです。

R-Club

PS:ブログではないのですが、キャンディーズが当時行っていたラジオ放送の概略をまとめたHPを発見しました。当時のキャンディーズの雰囲気が伝わってきて興味深いですよ。

http://candies.sound.co.jp/tv-radio/radio/gocan.html

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お正月はテレビっ子(やすきよ・志ん生の映像)

ちょっと遅くなりましたが新年あけましておめでとうございます。

今年もよい1年でありますように。

さて、お正月、今年はちょっとばたばたしていたのですが

それでも普段に比べればはるかに自由な時間が多く、おかげでけっこうテレビっこができました。

お正月って結構マニアックな映像がたくさん流れるので見ているだけでも楽しい。

一番すごかったのは、昭和の演芸3本の放送。星セント・ルイス、横山やすし・西川きよし、そして極めつけは志ん生の「風呂敷」でしょう。

3組の芸が今の人たちと比べてどうかというと、漫才については今の方がもっとうまい人がいるかもしれない。麒麟とか笑い飯、さらにはフットボールアワーやチュートリアルなどの芸をみていると、昔とはスピード感がちがうというか発展性が違うというか・・・。もちろん、やすきよがいるから今の漫才があることはまちがいないのですけれどね・・・。あ、そうそうやすきよってこんな感じやったな・・・、っていうなつかしさが先にくるような・・・。やすしさんが稀代の漫才師だっていうのは本当に画面から伝わってくるし、セントルイスさんたちの漫才は当時としては異様にテンポがあって、いまの漫才師の間にはいっても十分勝負ができるようなセントとスピードがあったことはよくわかるのですが・・・。でも、やっぱりなつかしさが先行してしまう。

でも志ん生は違いますね・・。枕は現役の人たちとほとんど変わらない雰囲気なのですが、本編にはいると、50年以上前の映像であってもぐいぐいと巻き込まれてしまう感じ。私が生まれる前の録画ですし、事情がわからない部分もあるのですが、そんなの志ん生師匠の芸にとっては関係ないですね・・・。有名なというかポピュラーな逸話になったシャツの2番目か3番目のボタンのフレーズも出てきましたが、それを噺のなかで志ん生が使うと、すごく斬新に思えるのですよ。ネタが割れている部分なのに、噺のなかではその部分が命を持ってやってくる感じ。

こんなことをいうと歳がばれますが、志ん生の二人の息子、すなわち馬生(先代)と志ん朝についてはどちらも生で拝見したことがあるのですが、芸風はお父さんとかなり違っていた。お父さん側の芸風って東京の落語家のなかではなかなか思いつかないのですよね・・・

しいて言えば、私のなかで今一番近いの笑福亭福笑さんの落語かな・・・。関西落語ですが・・。

物語を崩すことはしてないのにそこからあふれるものがある・・。それも気取りとか取っ払って勢いで一気にグルーブ感が出て行くような・・・。なのに緻密な芸の計算もしっかりされているような・・・

前にもここに書いたように、福笑師匠なんてすくなくと東京の演芸番組にでてくることなんてないじゃないですか・・・。すこしは映像に残してもらわんと、志ん生以上にイメージを伴わない伝説がのこるような気がします。どんなもんでしょうか・・・。

まあ、なんかとりとめのない話を書いてしまいましたが

とりあえずはほろ酔い気分のお正月ということで・・・。

本年もR-Club本館および別館(ANNEX ここです)をごひいきいただきますよう、よろしくお願いいたします

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