「漂う電球」ウディアレンとケラの親密な関係
ウディアレンの映画を最初に観たのは
もう20年以上も前のことです
「アニーホール」という映画で、
当時の感想はといえば・・・
きれいなシーンはたくさんあったけれど
ウディアレンのいいたいことはよくわからなかった・・・
でも、アメリカにいったり、いろんな人生の出来事を経験したり
ウディアレンの他のさまざまな映画を観たりしているうちに
彼が表現しようとする想いや
登場人物の心の機微が少しずつ理解できるようになってきて・・
まあ彼の映画のどこに惹かれるかというと
今でも論理的に説明するのはかなり難しいけれど・・・
ちょっとあさっての表現で代替させてもらえるならば
なにか心の風取り窓につるしてある風鈴の音が聞こえてくる気がするのです
マンハッタンという映画では
モノクロのマンハッタンの美しさがとても印象に残っているが、
そこに展開する物語の主人公たちの
心の動きのなんともいえない下世話さがあって・・・
そして夢と現実のギャップがそのなかから浮かび上がってくる・・・
「カイロの紫のバラ」が描き出す奇想天外な
主人公を失った映画の世界にしても
浮かび上がらせるのは主婦の見る夢の美しさとはかなさ
そして風鈴の幻聴が一瞬私を立ち止まらせます
ケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下ケラ)演出のウディアレン作「漂う電球」を観たとき
あまりにオーソドックスな演出にちょっと拍子抜けしてしまったのも事実です
今回ケラは奇を衒うこともなく、
ぞくっとするようなデフォルメや
物語の時間を今に合わせるような小細工もなく
しっかりと抑制された演出で観客を物語に引き込んでいきます。
登場人物の漠然とした夢・・・
夢が現実に変わる入り口もちゃんと用意され
でも結局、登場人物たちの夢が夢で終わって・・・
そんな中でも時間が漂うように流れつづけていきます
でも不思議なことに
それだけあたりまえに見える演出の中でも
終わってみれば、そこにはケラ演劇に触れたときのいつもの感覚が
しっかりと残っていて・・・
そのうえ、ウッディアレンの映画のときみたいに
風鈴の音がふっと聞こえたような気がして・・・
うまくいえないのですが
風鈴を鳴らす風は
中途半端な豊かさの中での一種の高揚感と挫折感のようなものだと
思います。
まあ、ケラさんのお芝居においては、
日本のありふれた景色のなかでは
その環境を作れないから
いろいろとデフォルメをして作品の中に中途半端さを作り上げているような気もするし、
ウディアレンの物語で登場するNYには
日々の生活にその中途半端さが溢れているだけかもしれないし・・・
でも、まちがいなく彼らの芝居は風鈴をならす風があります。
日本の方が一定の豊かさが持つ閉塞の存在感を
認識しにくいという部分もあるのかもしれませんが・・・
少なくとも1945年の強く豊かなアメリカのブロングスでは
中の下といわれる階級であっても飢えることもなく
手品のために潤沢に牛乳を使い
夫のウェイターのチップと妻のパートの給料だけで
生活ができる
ただ、変わらない生活や抜け出せない毎日にいらだつだけ
それは、ケラさんの作品の中に常に存在する苛立ちと
きわめて同じ根を持っているような・・・
台本と演出家の共鳴があるからこそ
今回、演出家としてのケラの才能を強く感じました
物語の展開の中でひしひしと感じるのは
まるで観客を手玉にとるように
何の外連もなくものがたりに引き込む力
もちろん役者もよかったし、原作にも秘めたる力はあるのだろうけれど
それを力みなくまっすぐ観客にぶつける力の前に
観客も引き込まれるしかなく・・
きっとこの力があるから、冷静に考えると戸惑ったりひいてしまうような
通常のケラ演劇のコアの部分にも
観客は引き込まれるのだとおもいます
それはデッサン力に溢れた画家だからこそ
なしえるデフォルメと同じ・・・
ピカソしかり、ダリしかり、キリコしかり、カンディンスキーしかり・・・
才ある人の素描は時に1ポンドの絵の具で表現した油絵よりも
はるかに色彩に溢れて見える
うまく言い尽くせないのですが
そんなことを考えながら劇場をあとにしたことでした
R-Club
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