本谷と櫻井の共通点(二つの芝居を見比べて・・・)
先週から今週にかけてはお芝居ウィークで
それもけっこういろんなテイストを観ることができました。
劇団本谷有希子は初見でしたが、
劇場内の緊張感に押されてしまって
帰り道、しばらくいろんなことを考えてしまいました。
物語の展開も、いきなり見せ付けられると
あれよあれよっていう感じなのですが
実は非常に緻密に構成されていて
すべてがある方向性に関しての必然性を持っている。
松永さんの演技も強弱色とりどりに変わっていきますが
それでも観客が置いてきぼりにならず
むしろ舞台上の他の登場人物と一緒に深みにはまっていくのは
根底にすごくしっかりとした松永さん演じる登場人物の
姿を本谷さんが構築しているからだと思います。
もちろん、芝居ですから、登場人物にたいするデフィルメもあるのでしょうが
それは見方を変えれば、現実世界で持たされたりつるされたりしたりした鎖や重石を
舞台上で取り去る作業ともいえるわけで・・・
松永さんは修正されたというか、本谷さんが心の中に浮かべた登場人物の本来の姿を
重石をはずし自由に動ける姿にした上で
役者としてのデッサン力で演じきったということなのだと思います
まあ、すごいデッサン力ですけれどね・・・
彼女が描くものが、彼女の手の中にしっかりと納まっていて
まったく危なげがありませんでしたから・・
本谷の松永演じる人物を構築するまでの過程、
デフォルメというか、本来の姿にいたるまでの
鎖を解く作業って、実はある種の痛みを無視しなければできないことなのだろうし
その痛みを痛みと思わず行っているとすれば
あるいは痛みを創作欲という快楽に置き換えるすべを知っているのだとすれば
本谷は世間がうわさするように天才なのかもしれませんね・・・
本谷は自らが持つイメージに対して緻密に、ひたすら緻密に
舞台を作り上げていって
その到達点を観た観客は
登場人物の心の裏側が突然目の前にあることに驚愕し、
当惑し、瞠目するしかない
あれだけのものを見て、それを瑞々しいと感じる自分にも驚きましたが
それは、重石をはずされた現実の中ではじめてであった人たちに対する感想としては
けっこうあたりまえのものなのかもしれません。
一方、櫻井智也ひきいるMCRの舞台、
その中で彼は自らの持つイメージをラフに、
どこか不特定な感じで表現していきます。
ひまわり島のイメージにしてもそう。
物語を進めるための最小限の具体性だけが提示され・・・
登場人物の持つ背景も必要以外なイメージはほとんど提示されません
抽象的な舞台装置は本谷の舞台にある職員室のリアリティとは正反対
ただ、観客と向かい合う時間のなかで
その空間の中での関係だけが提示されて
それを支えるようにたくさんの突込みがそれぞれのシーンにあって・・・
登場人物のそれぞれの物語が
荒削りなレリーフのように浮かび上がって来る不思議さ
それぞれの物語は柔らかくかさなりながら
収束していきます
櫻井や福井といった芸達者たちに引っ張られて
ありふれた夏の一泊二日をながめて・・・
それでも最後に櫻井の一言で
しっかりと秋風がふくのです
どこかに涼やかなものをもった秋の風が・・・
その風こそが、その過ぎていく季節を惜しむ気持ちこそが
提示された物語の奥行きをあらわし
観客の心を打つのです
まったく異なった方向での作劇、
まるで正反対のディテールへのこだわり
でも、どこかに隠れている共通のモチーフ
よい芝居っていうのは
青山円型や中野ポケットにさりげなくころがっています
トップスにもよく転がってますけれどね・・
小さめの劇場の芝居を舐めてはいけないのです
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