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エンターティメントとは・・・(王立劇場余談)

ねたばれ注意!!!この記事にはしっかりネタバレがあります。
お読みになる方は恐縮ですが
ご了承の上お読みくださいませ。

すこし遅くなりましたが、王立劇場(後藤ひろひとのユニット)
笑わせていただきました。
基本的には関西人のユニットなのですが
石丸謙二郎さんなんかもいらっしゃって・・・
それからぼんちおさむさんも・・・
やろうと思えばかなり大きな舞台も可能なチームなのです
それが、ラフォーレミュージアム原宿という
比較的小さめな小屋で、ぎゅっと詰まったような
短編コントを繰り出していくのです

面白かったかって?
そりゃおもしろかったですよ。
のっけの代理出席ばかりの同窓会でもう腹筋にきてましたもの・・・
ああいう空間を作るすごさってどう表現したらよいのでしょうかねぇ・・・
最後の校歌斉唱で学校名の部分だけ急にみんな元気になるところなど
ほんとうにつぼで・・・。

山の中の一軒屋のはずが
近くにTOPSがあって買い物もSUICAで決済ができるというのも
笑いました

電車待ちをしている客が駅メロを聞いて踊りたい誘惑に駆られるというネタも
非常に出来がよかったですね
ゲスト扱いの竹下宏太郎の振り付けと踊りの切れが抜群で
それを受ける石丸謙二郎も踊れるし
なによりも踊れる喜びを表す石丸一流の微妙な表情が最高で・・・

後最後の森君のコントも非常に印象に残りました
山内圭哉(ゲスト)のキャラクターが一番生きる感じに
台本がしっかり作られていて・・・

アンコール最後の横断歩道の「超高級とうりゃんせ」で
腹筋にまた大きな負担をかけられて・・・


竹下にしても山内にしても
こういう役は余技ではなくまさに本職の域であり
内場・ぼんちおさむなどの演技もふくめて
実はものすごく贅沢な「Worst of」というコント集を
見せられていることに気がつきます

多分、芸のない人が今回のコントをやっても
まったく笑えないだろうし・・・
このクオリティがあるからこそ
後藤ひろひとの人を喰ったような椎間板ヘルニア風MCが生きるわけだし

終演後体が自然にDVD申し込みに向くのも
ひたすらこの舞台のクオリティの証明・・・
(こんなに人が列を作っているDVDの申し込みって初めて見た)

極上のコントをさりげなく披露して見せて
「Worst of」と名前をつける後藤ひろひとの粋

後で伝説になるような舞台というのは
こういうさりげなさを持っていて

非凡なものはさりげなく目の前を通り過ぎてゆき
後でその大きさにきがつくのだということを
いまさらながらに知らされたことでした

R-Club


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本谷と櫻井の共通点(二つの芝居を見比べて・・・)

先週から今週にかけてはお芝居ウィークで
それもけっこういろんなテイストを観ることができました。

劇団本谷有希子は初見でしたが、
劇場内の緊張感に押されてしまって
帰り道、しばらくいろんなことを考えてしまいました。
物語の展開も、いきなり見せ付けられると
あれよあれよっていう感じなのですが
実は非常に緻密に構成されていて
すべてがある方向性に関しての必然性を持っている。
松永さんの演技も強弱色とりどりに変わっていきますが
それでも観客が置いてきぼりにならず
むしろ舞台上の他の登場人物と一緒に深みにはまっていくのは
根底にすごくしっかりとした松永さん演じる登場人物の
姿を本谷さんが構築しているからだと思います。

もちろん、芝居ですから、登場人物にたいするデフィルメもあるのでしょうが
それは見方を変えれば、現実世界で持たされたりつるされたりしたりした鎖や重石を
舞台上で取り去る作業ともいえるわけで・・・
松永さんは修正されたというか、本谷さんが心の中に浮かべた登場人物の本来の姿を
重石をはずし自由に動ける姿にした上で
役者としてのデッサン力で演じきったということなのだと思います
まあ、すごいデッサン力ですけれどね・・・
彼女が描くものが、彼女の手の中にしっかりと納まっていて
まったく危なげがありませんでしたから・・

本谷の松永演じる人物を構築するまでの過程、
デフォルメというか、本来の姿にいたるまでの
鎖を解く作業って、実はある種の痛みを無視しなければできないことなのだろうし
その痛みを痛みと思わず行っているとすれば
あるいは痛みを創作欲という快楽に置き換えるすべを知っているのだとすれば
本谷は世間がうわさするように天才なのかもしれませんね・・・

本谷は自らが持つイメージに対して緻密に、ひたすら緻密に
舞台を作り上げていって
その到達点を観た観客は
登場人物の心の裏側が突然目の前にあることに驚愕し、
当惑し、瞠目するしかない

あれだけのものを見て、それを瑞々しいと感じる自分にも驚きましたが
それは、重石をはずされた現実の中ではじめてであった人たちに対する感想としては
けっこうあたりまえのものなのかもしれません。

一方、櫻井智也ひきいるMCRの舞台、
その中で彼は自らの持つイメージをラフに、
どこか不特定な感じで表現していきます。
ひまわり島のイメージにしてもそう。
物語を進めるための最小限の具体性だけが提示され・・・
登場人物の持つ背景も必要以外なイメージはほとんど提示されません
抽象的な舞台装置は本谷の舞台にある職員室のリアリティとは正反対
ただ、観客と向かい合う時間のなかで
その空間の中での関係だけが提示されて
それを支えるようにたくさんの突込みがそれぞれのシーンにあって・・・

登場人物のそれぞれの物語が
荒削りなレリーフのように浮かび上がって来る不思議さ

それぞれの物語は柔らかくかさなりながら
収束していきます

櫻井や福井といった芸達者たちに引っ張られて
ありふれた夏の一泊二日をながめて・・・

それでも最後に櫻井の一言で
しっかりと秋風がふくのです
どこかに涼やかなものをもった秋の風が・・・
その風こそが、その過ぎていく季節を惜しむ気持ちこそが
提示された物語の奥行きをあらわし
観客の心を打つのです

まったく異なった方向での作劇、
まるで正反対のディテールへのこだわり
でも、どこかに隠れている共通のモチーフ

よい芝居っていうのは
青山円型や中野ポケットにさりげなくころがっています
トップスにもよく転がってますけれどね・・

小さめの劇場の芝居を舐めてはいけないのです

R-Club(上記の劇評掲載中です)

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松岡昌宏のつつしみ@Jail Breakers

本館にも劇評を載せたのですが
Jail Breakersはいろいろともったいなさを感じさせる舞台でした
決して悪い舞台ではなかったです。
よい場面もたくさんあったし
役者の個性もそれなりに出ていました
だから3時間を越えるような芝居でも飽きることはなかったし、
見終わってそれなりの満足感はあったのですよ・・・

でも、日曜日に米米クラブのコンサートを観に行って
さらに夜中にAgape Storeの「Big Biz」をBSで見ていて
なんとなく「Jail Breakers」に足りないものが
わかったような気がしました

なんというのか、これでもかって言うほどのしつこさが
この芝居には薄いのです
ノリって言う言葉が近いのかもしれませんが・・・
要は必要なものを全て満たしていて
さらに膨らんだ部分がJail Breakersには
薄いのだと思います

特に感じたのが松岡昌宏さんの演技。
決して下手ではないのだけれど
ちょっとよい子になりすぎている。
もっとひとを喰ったようなところがあっても
よいと思うのです
相手の演技をしっかり受け止めながら演技をしている感じは
ひしひしと伝わってくるのですが
ここ一番の部分では共演者にキラーパスを出させるような
飛び出しも必要なのではと思います

案外そのあたりが上手だなって思うのが篠原ともえで
結構力技で自分にライトをよびこんでますものね・・・
もっと舞台上での押しの強さがあれば
共演者ももっと作り上げるものが大きくなるだろうし
舞台の幅が広がるとおもうのです

なにか松岡さんには気遣いというか遠慮のようなものさえ
感じてしまう。
彼はよい役者だしすごい役者になりうると思うのですよ。
なんというか、一気に観客の心をさらうようなパワーが眠っている。
それがここ一番できゅっと自制されているような感じがして
ならないのです。
もちろん、舞台全体のバランスから
しっかりとコントロールされるべきパワーというのは当然あるのだろうけれど
もう少しガチガチやればものすごいものがそこから生まれる気がします

共演をしている篠原ともよさんは
そのあたりのことがうまいですものね・・・
強さがグッと前に出たときに
ある種の透明な繊細さがしっかりと表現できている

百戦錬磨の他の出演者、
三上市朗、植本潤といった芸達者も
飛び出しを待っているのではないでしょうか

R-Club

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フラガール 松雪泰子が演じるプロの凛々しさ

「フラガール」を観ました

豊かな映画です。
何度も泣かされましたし、本当にときめいたし・・・。

なによりも松雪泰子の演じる先生役のダンサー、
プロ根性のようなものが
理屈ぬきによかった。
李監督は彼女の強さと中にある柔らかさを
本当に見事に引き出したと思います
彼女のプロとしての厳しさが次第にダンサー達に伝わっていく部分、
同時に彼女の人間としての柔らかさが次第に滲み出してくる部分
そのバランスが本当に絶妙で、
だからシーンごとに涙が溢れてきた

キャスティングの勝利ともいえるかもしれません
まず、都会的な美しさを持ち
意思の強さのようなものがしっかりと表現でき
なおかつ心をゆっくり開いていく必然について
演技ができないと松雪の役は務まらない・・・

最初、酔っ払ってどうしようもない先生が
戸惑う生徒達をしっかりとフラダンスに導くのが
踊り・・・
そのときの松雪のしなやかな動きには
本当に説得力がありました

踊り子の一人が常磐を去るときの
松雪のすねたような態度
そしていよいよ引越しの車が動き出す直前の
彼女の抱擁・・・
まるで彼女の抱擁の力が見るもの伝わってくるような演技

さらにはとある事情から
彼女が一旦常磐を去ろうとし
列車の席で教え子が追いかけてきたのを見て
「格好悪い」ってつぶやく時の歯切れ
教え子から逃げるように別の席に移って
凍えた猫のように縮こまる時の憂いの表情
生徒達のフラのメッセージに心を動かされるとき
見せる彼女の心のなかの柔らかさの演技・・・
そして、心を変えて再度ホームに立つ時の彼女の表情・・・
一つ一つがしっかりと観客の心と共鳴していきます
彼女が教え子たちをプロだと認めるに足りる事件があって
その結果の出来事という設定なのですが
そこで自分の居場所も常磐にあることを発見した
彼女の表情のなんと深いこと
少しの照れと安堵と喜びと覚悟と・・・
そしてその感情を生徒達と共有していく・・・
まるでいくつもの心が共鳴するようなhシーン

共鳴は観客に涙を運んできて・・・
少なくとも私は、劇場が暗くなければどうしようもないほど
涙を絞られてしまいました

ほかの役者も本当によい演技をしましたしね・・・
蒼井優の富司演じる母親との確執、
その母親を説得するのも松雪と同じようにプロの踊り・・・
切れのよさがそのまま物語の説得力になっていて・・・
静ちゃんの演技も単純にその場面というだけでなく
彼女の背負っているものがしっかり浮かび上がっていて
秀逸だったと思います

最後のフラのシーンも本当にしっかりと作られていました
迫力も十分だったし、蒼井優が一番最初に松雪泰子にあこがれる
きっかけとなった振り付けで踊るとき
会場の歓声やスローモーションが見事に配されて・・・
生で見たらそれはすごいものだったと思います
人間が厳しい修練を重ねて得た技っていうのは
人を動かすのです
本当にわくわくする・・・
ステージが始まる前に
「私も一緒に踊りたい」といった松雪の芝居がここでも生きていて・・
プロがプロを認めたってことですから・・・
松雪もしびれるようにかっこよかったし
ダンサー達の緊張感や自信のようなものも鮮やかに浮かび上がってきて・・・
それにもしびれた
こんなに満ち足りて、しかも涙が出た映画ってここ数年なかったような気がします

「スウィングガール」の最後のSingSingSingも
達成感に満ちたエンディングでしたが
物語のスケール自体は
フラガール」の方が上かも・・・
ただ、どちらがよいか悪いかという優劣はつけにくいですね
満たされた時代の「スウィングガール」と
生活に迫られての「フラガール」
という違いはあるにしても
何かを成し遂げるということの感動には
変わりがないから・・・

いずれにしても、こういう感動を表現できる日本映画を見ていると
ここ数年でまたひとつ力をつけたなと感じるのです

R-Club

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「漂う電球」ウディアレンとケラの親密な関係

ウディアレンの映画を最初に観たのは
もう20年以上も前のことです

「アニーホール」という映画で、
当時の感想はといえば・・・
きれいなシーンはたくさんあったけれど
ウディアレンのいいたいことはよくわからなかった・・・

でも、アメリカにいったり、いろんな人生の出来事を経験したり
ウディアレンの他のさまざまな映画を観たりしているうちに
彼が表現しようとする想いや
登場人物の心の機微が少しずつ理解できるようになってきて・・
まあ彼の映画のどこに惹かれるかというと
今でも論理的に説明するのはかなり難しいけれど・・・
ちょっとあさっての表現で代替させてもらえるならば
なにか心の風取り窓につるしてある風鈴の音が聞こえてくる気がするのです

マンハッタンという映画では
モノクロのマンハッタンの美しさがとても印象に残っているが、
そこに展開する物語の主人公たちの
心の動きのなんともいえない下世話さがあって・・・
そして夢と現実のギャップがそのなかから浮かび上がってくる・・・
「カイロの紫のバラ」が描き出す奇想天外な
主人公を失った映画の世界にしても
浮かび上がらせるのは主婦の見る夢の美しさとはかなさ
そして風鈴の幻聴が一瞬私を立ち止まらせます

ケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下ケラ)演出のウディアレン作「漂う電球」を観たとき
あまりにオーソドックスな演出にちょっと拍子抜けしてしまったのも事実です
今回ケラは奇を衒うこともなく、
ぞくっとするようなデフォルメや
物語の時間を今に合わせるような小細工もなく
しっかりと抑制された演出で観客を物語に引き込んでいきます。
登場人物の漠然とした夢・・・
夢が現実に変わる入り口もちゃんと用意され
でも結局、登場人物たちの夢が夢で終わって・・・
そんな中でも時間が漂うように流れつづけていきます

でも不思議なことに
それだけあたりまえに見える演出の中でも
終わってみれば、そこにはケラ演劇に触れたときのいつもの感覚が
しっかりと残っていて・・・
そのうえ、ウッディアレンの映画のときみたいに
風鈴の音がふっと聞こえたような気がして・・・

うまくいえないのですが
風鈴を鳴らす風は
中途半端な豊かさの中での一種の高揚感と挫折感のようなものだと
思います。
まあ、ケラさんのお芝居においては、
日本のありふれた景色のなかでは
その環境を作れないから
いろいろとデフォルメをして作品の中に中途半端さを作り上げているような気もするし、
ウディアレンの物語で登場するNYには
日々の生活にその中途半端さが溢れているだけかもしれないし・・・
でも、まちがいなく彼らの芝居は風鈴をならす風があります。

日本の方が一定の豊かさが持つ閉塞の存在感を
認識しにくいという部分もあるのかもしれませんが・・・
少なくとも1945年の強く豊かなアメリカのブロングスでは
中の下といわれる階級であっても飢えることもなく
手品のために潤沢に牛乳を使い
夫のウェイターのチップと妻のパートの給料だけで
生活ができる
ただ、変わらない生活や抜け出せない毎日にいらだつだけ
それは、ケラさんの作品の中に常に存在する苛立ちと
きわめて同じ根を持っているような・・・


台本と演出家の共鳴があるからこそ
今回、演出家としてのケラの才能を強く感じました
物語の展開の中でひしひしと感じるのは
まるで観客を手玉にとるように
何の外連もなくものがたりに引き込む力
もちろん役者もよかったし、原作にも秘めたる力はあるのだろうけれど
それを力みなくまっすぐ観客にぶつける力の前に
観客も引き込まれるしかなく・・
きっとこの力があるから、冷静に考えると戸惑ったりひいてしまうような
通常のケラ演劇のコアの部分にも
観客は引き込まれるのだとおもいます
それはデッサン力に溢れた画家だからこそ
なしえるデフォルメと同じ・・・
ピカソしかり、ダリしかり、キリコしかり、カンディンスキーしかり・・・

才ある人の素描は時に1ポンドの絵の具で表現した油絵よりも
はるかに色彩に溢れて見える

うまく言い尽くせないのですが
そんなことを考えながら劇場をあとにしたことでした

R-Club

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