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「ハードキャンディー」 ふりかざした正義にゆがむもの

最近なにかと
映画と演劇の違いみたいなものが気になっていて
このブログの中でもいろいろと
かかせていただいたりもしているのですが
「ハードキャンディ」はその観点から見ると
極めて演劇よりの映画でした。
あ、一見ふつうの映画のスクリーンの向こう側からでも
こんなに演劇的な感覚をあたえてくれるのだと
見ていて非常の興味深かったです

主人公は二人、その他の登場人物も
物語に直接からむのは2人だけ
場面もカフェと男性の家の中だけ
舞台の空間という定義の中で切り落とした概念を
映画で切り落としても映像としては成立するという
サンプルを提示してくれました

映像はなにも隠していないのに
物語は一枚ずつベールを脱いでいく感じで・・・
全てを見せるのではなく
断片的に男性の物語が暴かれていって・・・
ジグゾーのピースが全て並んだときに
初めて物語の全容が見えてくるような作り
観客の想像力を利用した借景の多いこと
赤頭巾ちゃんを想起させる最後の部分以外にも
数々の暗示に満ちたさまざまな小道具
具体的でありながら具体性をかく断片的な事実が
積み上げられていく・・・

登場人物は常軌を逸しているけれど
見えるものに現実にありえないことはひとつもない
それは舞台で見せるものがライブであるのと
同じ効果を与えているようで・・・

一種の閉塞感を肌で感じながら物語を追っていく中で
単なる勧善懲悪を超えた深い人間の業のようなものが
浮かんできて・・・
その見事さ、映画が終わってからもしばらく後を引きました

結局、作り上げられた正しさで自分の欲望を隠すと
人はゆがむのですよね・・・
それは男が女性を自分のテリトリーに引き込むときの
偽りの正しさだけでなく
むしろ女性の側にある正義の向こう側の屈折に
しっかりと表現されていきます。
少女の正義が隠すサディスティックな欲望
彼女の正義を支えるだけの智恵には
その裏側の快楽を飼いならすだけの甲斐性があって・・・
それは男性の表層的な言葉で示されるやさしさや
自分の欲望を満たすためのロジックを打ち破り、
それどころかしたたかに
男性の欲望を隠す正義を剥ぎ取りながら
いっぽうで正義の名の下で自分の欲望を満たしていく

昔見た「Salon Kitty」という映画を思い出したりもしました
建前の価値観(Salon Kittyの中ではナチズム)や
自分の行動を正当化する価値観につきものの鎧のような排他性から
少女が開放されていく映画だったように記憶しているのですが
そこから開放されてシャンパンを飲む彼女の幸せそうな顔、
この物語の主人公にそのような幸せそうな顔は
訪れるのだろうか・・・とかね

すこし話は飛躍しますが、
イスラエルとヒズボラの戦争も
結局この物語の登場人物が国になっただけのことのような・・・
正義とかたてまえとかいうのは
ときに飛んでもない武器になってあさっての方角にいる人間を傷つける
この物語でも男から本当に痛みを受けているのは
男に虐待された若い女性たちなのですよね・・・
主人公の少女が頼まれていもいないのに
彼女達の痛みを正義に変えて
サディスティックな好奇心を満たしていく姿は
民族のためとか国のためとかいって
戦いを正義と演説でぶちあげる人たちと同じ違和感を
私に与えてくれます

言ってみれば狂気の部類なのでしょうね、
その狂気を見事に浮かび上がらせたこの映画は
ちぢみあがるようで生理的には再び見たくない部分もあるけれど
(男性と女性とでは感じ方が違うかもしれないけれど・・)
多分忘れることのない概念を
私に明示してくれた作品だったと思っています

ただし、もし、同じコンセプトを演劇の空間で描くとしたら
もっと突き詰めた、あるいは純粋化された
正義のもたらす狂気を見せてくれるだろうとは
思っていますが・・・
もちろん映画のもつ不器用さのようなものが
有効に働いて表現したもののあるわけで、
長所短所はそれぞれなのでしょうけれど
映画でこのようなものを表現することの
難しさというか限界も垣間見えたような・・・

まあ、見ておいて損のない映画であることは確かだし
おすすめということにさせていただきます。

渋谷シネマライズにて上映中です

R-Club

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