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関西弁が作る世界@噂の男

中島らもさんの「こどもの一生」が文庫になりましたね・・・。

だいぶ前にも書いたのですが
私はこの物語を芝居で見ていて、
非常に強い印象が今でも残っています
Parco劇場でやったバージョンも豪華だったけれど
Space107でやったやつがやっぱりすごかったな・・・
小屋が小さいと恐怖は大きくなるのですよ・・・
チェーンソーのおじさん、
Parco劇場の古田新太ははまりすぎで
やっぱり山西惇のほうが怖かった
ひとつにはSpace107Versionは
みんな関西弁だったので
恐怖がなにか身近でまとわりつくように感じたことも
あるかもしれません

考えてみれば関西系の役者って笑いの中に狂気を混ぜる演技が
得意ですよね。
「噂の男」を見ていて特にそう思った。
関西弁のやわらかさみたいなものが
かえって恐怖をきわだたせるのかもしれませんね・・・
ラストシーン、あの血まみれの舞台に観客の爆笑が重なるみごとな演出、
橋本じゅんの関西弁での台詞がしっかりと映えて、
恐怖の空間をさらにしっかりと広げてくれました

「噂の男」という芝居はケラにとっても
エポックメイキングな作品になるのではないでしょうか。
福島三郎の原作はどっちかというと人情物にちかい
大阪劇場奇譚みたいな雰囲気があったとおもうのですよ
ケラはそこから人情を削ぎ落とし
それぞれの人間に隠された内面をはぎだした
人と人の関係性でのいやな話を
いやな部分を持った人間どおしがかかわりあったときの
修羅場にみごとにすりかえてしまった・・・

あの、すり替えも関西弁の世界だからできたのだろうな・・・
関西弁は本音とたてまえの出し入れがスムーズに行く言葉なのでしょうね
そしてなにともなじむようなシチュエーションへの親和性が強い
たとえば水野顕子演じるアヤメのインフォマニア的な部分は
関西弁がのるからリアリティというか
すごみのようなものが出たような気がする

漫才の世界にしてもそうだけれど
関西弁の適応力というのは
さまざまな芸を育てる胎盤のような機能があるのかもしれませんね

そういえば、「うる星やつら」って
地球人は標準語、異星人は関西弁っていう色分けでしたね・・・
あれってなにか日本語における関西弁のポジションを
象徴しているきがします
メインの言語ではないのですが
メインの言語を凌駕してしまうなにかを持っている

もっといえば笑福亭福笑師匠の「ちりとてちん」を聞いて
やっぱり「酢豆腐」じゃなくて「ちりとてちん」だなとか思ったときにも
同じことを考えていましたね

そう感じるのは単に私が標準語と関西弁のバイリンガルだから?

パンストキッチン(噂の男で橋本じゅん・さとしご両人が演じた漫才コンビ名)の
のりを思い出しながら自分の発する言葉について
いろんなことをさらにかんがえてしまいました

R-Club


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ピーナッツの新しさ 竹下宏太郎の新しさ

BS2で久しぶりにザ ピーナッツを見ました
1時間強の特集で、
非常に深い感銘を受けました

私が小さいときには
もう大人の歌手でしたから
彼女達が現役のときにはそのよさってわからなかったのですよね
きっと・・・
ただ、歌は本当に知っている曲ばっかりで
しかも再び聴くと
その声の心地よさ・・・
彼女達の年代によってパワーがあったり
繊細になったりはなしているのだけれど
ちょっとだけ鼻にかかったような
でもとてもとおった歌声って
多分彼女達だけのものなのでしょうね・・・

彼女達のデビューのころのサウンドは
ミュージカル、ヘアスプレーのころのサウンドと
同じ・・・
寄り添って歌う姿もなんとなくその時代っぽくて・・
手をお互いに後ろに回して歌う姿は
支えあってお互いを確かめ合って歌っているようで・・
白黒のちょっとぼけたブラウン管ごしのような画像は
今にいたる時間をたっぷりたたえているけれど
生で見たらものすごい迫力だったと思います
「恋のフーガ」の間奏の踊りなんて
一種のグルーブ感まであったし・・・
「恋のバカンス」も彼女達が歌うと海岸や彼女達のファッションが
しっかりと浮かんでくる

後半になってくると繊細さと円熟が彼女達に
良い形で加わっていきましたね・・・
「ウナセラディ東京」、名曲だけれど
やっぱり彼女達のサウンドで
あの歌詞だから生きた曲だとおもうし・・・
そう、番組を見ていて思ったのですよ
時代に染まっていても常に彼女達のやっていることは
新しかったし
今から見ると多少古臭い画面の演出であっても
その時代としてのしっかりとした完成度まで
きちんと到達していたのが
よくわかります
それにしても岩谷時子さんも良く書きましたよね・・・
「街はいつでも後姿の幸せばかり・・・」
どたんばで継ぎ足した歌詞というエピソードにも
びっくりしたけれど
この6小節がそれまでの歌詞をしっかり支えて
双方をきわだたせましたものね・・・
なんとなく悲しく、なんとなく別れて
漂うしあわせ・・・
今の時代からすると、とても未成熟で
でもそれが夢の裏返しだった時代の
切なさが
彼女達の少しだけ鼻にかかったハモに
見事に彩られて・・・

新しさとは、それまでに想像しえない何かが提示されたときの
感動をいうのかもしれませんね・・・

竹下宏太郎演出の芝居、「ニコラスマクファーソン」のあたらしさを
本館でかきましたが
こういう何気ないあたらしさって
きっとあとで、後姿で気づくたぐいのものではと・・・
段取り芝居と出演者が嘆いていたけれど、
しっかりできている部分では、ストレートプレイの触感をふっと超えるような
感覚を観客にあたえます
舞台上の動きがまるで踊りのルーティンのように
舞台に展開していきます
ダンスのスペシャリストとしての竹下宏太郎の
面目躍如、
後藤ひろひとの築いた物語のスキームを
体感的に見事に表現しつくしていきます。

新しいものは人をときめかせます
少なくとも私にはちょっとこれまでない感覚でした
彼が作った空間を、実はパーフェクトだと思ってはいないし
崩れかけたシーンを芸達者の役者たちに助けてもらった部分も
いくつかあるのですが
彼のメソッド(?)が
観客をグッと引き寄せる力のある場面を創出したのもまた事実

本当に価値のある新しさは
なにげにそこにあって
後姿に光を放っているものなのかもしれません

R-Club


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あがた森魚のひと気合

別に見ようとおもっていたわけではないのですが
たまたまTVの画面上に
あがた森魚さんがでていらっしゃって
おなじみ「赤色エレジー」をうたっていらっしゃいました
むかーーし、聴いたときは異彩を放っていたという
印象しかありませんでしたが
いま聴くと魔術のような力をもった曲でちょっとびっくり
「昭和余年は春も宵
 桜吹雪けば蝶も舞う」
の一言で一気に世界に取り込まれてしまいました

なくなった父が言っていたのですが
戦前の昭和というのは、実はそんなに暗いばかりの
日々ではなかったそうです
もちろん金融恐慌やどうしようもない貧困があったりして
さらには戦争の色が日に日に濃くなっていく時代では
あったことには間違いないのですが
決して絶望の時代ではなかったそうです
もはや戦後ではないといわれた時代以降に
育った私には灰色のイメージしかないのですが・・・
少なくともこの歌には明暗の暗の部分だけでない
なにかがあるような気がします

いずれにしてもそんな時代だからこそ
エレジーというデフォルメされた悲劇を彩る
さまざまなものがすくっと立ち上がって
聴く者をとりこむような感じが出来たのだと思います
男一郎が挫折し
幸子の幸をみいだせないまま
それでも幸子とふたりで過ごす時間は甘美で・・
二人でだきあう慰安に溺れていく時間

大正時代を彷彿とさせるメロディのなかで
曲間に入るときのあがた森魚の気合は
まるで魔法の大風呂敷をひろげるように
テレビの前でほげっと曲を聴いている者の
頭に植え付けられた種を一気に一気に発芽させます
むかーし、あがた森魚はもっと一郎側への感情移入で
この曲を歌っていたような気がします
しかし、今日聞いた「赤色エレジー」において
あがた森魚は登場人物としての感情移入をするわけでもなく
わが身の不幸を嘆いていたり幸子の幸に思いをはせていたわけではなく
物語の弁士に徹していた印象があります
これはなかなか正解で
それゆえ観客はあがた森魚を通り越して
作り物の哀歌の世界に直接対峙できるようになりました
あの気合の次の瞬間にものがたりの陰と同様に
まるでランプ灯のように幻想にもにた光も見えてきたよう・・・
作り物の世界の枠がしっかり出来たから
最後の「お泪頂戴ありがとう」も生きていましたよね

すこし強めのフレーバーの効いたカクテルを
口に含んだようなこの感じ・・・

こういう表現って理屈を超えた芸の部類なのだろうし
芸といわれるだけのクオリティがあるものは
見ていて本当にときめくものなのだと
いまさらながらに気が付いたことでした


R-Club

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「ハードキャンディー」 ふりかざした正義にゆがむもの

最近なにかと
映画と演劇の違いみたいなものが気になっていて
このブログの中でもいろいろと
かかせていただいたりもしているのですが
「ハードキャンディ」はその観点から見ると
極めて演劇よりの映画でした。
あ、一見ふつうの映画のスクリーンの向こう側からでも
こんなに演劇的な感覚をあたえてくれるのだと
見ていて非常の興味深かったです

主人公は二人、その他の登場人物も
物語に直接からむのは2人だけ
場面もカフェと男性の家の中だけ
舞台の空間という定義の中で切り落とした概念を
映画で切り落としても映像としては成立するという
サンプルを提示してくれました

映像はなにも隠していないのに
物語は一枚ずつベールを脱いでいく感じで・・・
全てを見せるのではなく
断片的に男性の物語が暴かれていって・・・
ジグゾーのピースが全て並んだときに
初めて物語の全容が見えてくるような作り
観客の想像力を利用した借景の多いこと
赤頭巾ちゃんを想起させる最後の部分以外にも
数々の暗示に満ちたさまざまな小道具
具体的でありながら具体性をかく断片的な事実が
積み上げられていく・・・

登場人物は常軌を逸しているけれど
見えるものに現実にありえないことはひとつもない
それは舞台で見せるものがライブであるのと
同じ効果を与えているようで・・・

一種の閉塞感を肌で感じながら物語を追っていく中で
単なる勧善懲悪を超えた深い人間の業のようなものが
浮かんできて・・・
その見事さ、映画が終わってからもしばらく後を引きました

結局、作り上げられた正しさで自分の欲望を隠すと
人はゆがむのですよね・・・
それは男が女性を自分のテリトリーに引き込むときの
偽りの正しさだけでなく
むしろ女性の側にある正義の向こう側の屈折に
しっかりと表現されていきます。
少女の正義が隠すサディスティックな欲望
彼女の正義を支えるだけの智恵には
その裏側の快楽を飼いならすだけの甲斐性があって・・・
それは男性の表層的な言葉で示されるやさしさや
自分の欲望を満たすためのロジックを打ち破り、
それどころかしたたかに
男性の欲望を隠す正義を剥ぎ取りながら
いっぽうで正義の名の下で自分の欲望を満たしていく

昔見た「Salon Kitty」という映画を思い出したりもしました
建前の価値観(Salon Kittyの中ではナチズム)や
自分の行動を正当化する価値観につきものの鎧のような排他性から
少女が開放されていく映画だったように記憶しているのですが
そこから開放されてシャンパンを飲む彼女の幸せそうな顔、
この物語の主人公にそのような幸せそうな顔は
訪れるのだろうか・・・とかね

すこし話は飛躍しますが、
イスラエルとヒズボラの戦争も
結局この物語の登場人物が国になっただけのことのような・・・
正義とかたてまえとかいうのは
ときに飛んでもない武器になってあさっての方角にいる人間を傷つける
この物語でも男から本当に痛みを受けているのは
男に虐待された若い女性たちなのですよね・・・
主人公の少女が頼まれていもいないのに
彼女達の痛みを正義に変えて
サディスティックな好奇心を満たしていく姿は
民族のためとか国のためとかいって
戦いを正義と演説でぶちあげる人たちと同じ違和感を
私に与えてくれます

言ってみれば狂気の部類なのでしょうね、
その狂気を見事に浮かび上がらせたこの映画は
ちぢみあがるようで生理的には再び見たくない部分もあるけれど
(男性と女性とでは感じ方が違うかもしれないけれど・・)
多分忘れることのない概念を
私に明示してくれた作品だったと思っています

ただし、もし、同じコンセプトを演劇の空間で描くとしたら
もっと突き詰めた、あるいは純粋化された
正義のもたらす狂気を見せてくれるだろうとは
思っていますが・・・
もちろん映画のもつ不器用さのようなものが
有効に働いて表現したもののあるわけで、
長所短所はそれぞれなのでしょうけれど
映画でこのようなものを表現することの
難しさというか限界も垣間見えたような・・・

まあ、見ておいて損のない映画であることは確かだし
おすすめということにさせていただきます。

渋谷シネマライズにて上映中です

R-Club

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下手な上戸は化けるだろうか 下北サンデーズ

下北サンデーズ、もう4回目ですね・・・
原作とは一味ちがう展開で
しかもなかなかよく出来ている・・・
今回は北村総一郎と古田新太の話の展開が
予感されるシーンが最後にちょこっと挿入されて・・・
これからまだ広がっていく感じがしました
まあ、楽しみではあります

ただね、気のせいだろうか
第一回放送と比べるといろんなことが段々平板になって
きているような気がする・・・
芝居のシーンにしても、本当だったら成功例なのだから
観客をきちんとひきつけるだけのクオリティがなければ
いけないのだけれど
それが全然伝わってこない・・・
そもそも、オフオフから駅前劇場に昇格したということが
物語として語られても実感として伝わってこない

ゆいかさんこと上戸さん、やっぱり舞台上での演技、へただものなぁ・・・
初回と比べての演技の進歩がすこしでも感じられたら
同じドラマでも印象が全然違うのに・・・

まあ、上戸さんも劇場でのシーン以外には
非常にナチュラルな演技で
好演だし
決して演じることそのものがへたというわけではないと思うのですけれど・・・
ドラマの他の部分では
しっかりと彼女の演技ができているのに
なぜか舞台上というか劇中劇の部分になると
急に演技のクオリティが落ちるのってどこかがずれている感じがして
なりません・・・
やっぱり劇中劇自体に基本的なメリハリみたいなものがないからだろうか
見ていていろいろと考えてしまいます
佐々木蔵之介さんなんて
劇場のシーンでは舞台の外にいる座長役なのに
上戸さんの舞台の演技より舞台的なえんぎしてるものなぁ・・・
まあ、彼女の口癖じゃないけれど
そのへんが上戸さんにとっての「未熟」な部分なのかもしれませんけれどねぇ・・・

それとも最終回の頃には舞台の演技に輝きが出て
テレビの向こうの観客を魅了してくれるという演出なのだろうか
だとしたら偉大な伏線ということになりますが・・・

装考えると
今後の展開に
ちょっと期待してしまいます

R-Club


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遅ればせながら・・・(松子見ました/)

いやああぶなかった
もう少しで「嫌われ松子の一生」を見損なうところでした
来週までの上映だったみたいで間に合ってよかった
これは見ないと人生の楽しみは確実に減っていたはず・・・
映画というカテゴリーから少しはみだしたところが
すごくよく出来ていて
ただただスクリーンで中谷さんの虜になっておりました

中谷さんも大変だったと思うのですよ
女性としての上手から下手まで全てをひとりで
演じされられているようなものですから
まあ、これだけ落差の大きな人生を歩む女性って
そうはいないのでしょうが
でも彼女の演技はそんな稀有な例の存在に
見事なリアリティを与えて見せてくれました

共演者もよかったですよ
宮藤官九郎なんて本当にはまってましたものね
でも
他の出演者が彼女の人生のピースとしての演技なのに対して
彼女は松子の全てをさらけ出すような
演技を強いられたわけですから・・・
やっぱりこの映画の成功は彼女の功績なのだと思います
演技もストレートな演技だけではなく
たとえばミュージカルやCMなどの手法の中で
彼女の一面を表現させられたり
一瞬の表情にすごくたくさんの意味を押し込まれたり
しかも中島監督演出は彼女を見事に使いきって
それらの表現を成功させているのですよ
これを褒めずしてなにを褒めようかと思うほどの
見事な表現手法の成功例だし
それに乗ることができた中谷の女優魂にたいしては
スタンディングオベーション以外ないのではと思うほど
緊張感がしっかりと保たれた2時間ほどの映像は
ちょっと麻薬になりそうな部分があって
中島監督や中谷出演の作品、これから追いかけるかもしれません

追いかけるといえば下北サンデーズ、
あっという間に3回まで終わりましたね・・・
回を追うごとに演出が甘くなっていくというか
演劇の世界への安易な借景が増えているのが気にはなるのですが
でも芝居好きとしてはついつい見てしまうドラマですね・・・

佐々木蔵之介、三宅弘城や古田新太といった
芝居を知り尽くした役者が
きちんと仕事をしているので安心感もあるし、
物語がかなりチープであっても
しっかりと繋がってはいるので
それが味になってはいるのですが
もうちょっとディテールをちゃんと作ったら
もっとよいドラマになるような気がするのも事実
いいかえれば舞台のシーンや稽古場などでの
空気の密度のようなものが足りない気がするけれど・・・
まあ・・・仕方ないか・・・
でも上戸彩はよいTV女優ですよね。この戯曲の持つ
のラフさのようなものを説得力に変えてしまう
チープな「繰り返しで誘う笑い」も
彼女を介すると見事に機能しますものね・・・

まあ、毎週木曜日が楽しみっていいことだと
ちょっと文句をいいながらも
次回を楽しみにしたりするのでした

そうそう、「下北サンデーズ」は原作小説も発刊されましたが
これはこれで面白くよませていただきました
但しドラマと原作はある意味別物ですけれどね・・・

もう気が付けば8月
今月も面白くて楽しいものにたくさんめぐり合いますように

R-Club

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