リアルであるということ=労働者M
労働者M、見てまいりました。
私が観た日あたりを境に「えんげきのページ」の劇評も
かなり好意的な雰囲気に変化してきていて
それはそれで私がラッキーだったのかもしれませんが・・・
結論からいうととてもよかったです。
まあ、芝居はみずものですからねぇ・・・
初日のころから比べると別物になっていたのかもしれませんが。
冒頭に、前説があって
通常の時系列で2つの物語が絡まるように展開する旨の
説明があったのですが・・・・
あれって、やっぱりシアターコクーンのお客様にたいする
ケラさんの配慮だったのでしょうね・・・。
そば・うどんの話、あとで考えるとわかりやすい説明ではありました
でも「そどん」はおろか「そんど」のようになった部分もあって・・・
整理をつけて正しく物事を伝えるというコンサバティブな発想下では
労働者Mの構成はひどい舞台表現ともいえるのでしょうが、
でも、私がこの芝居を見て一番感じたのは
凄絶ともいえるリアルさのようなもので・・・
「そんど」が、たとえばある視点からは存在するのなら
それを「そんど」としてきちんと描くというケラの姿勢には
潔さすら感じたことでした。
思考ってまさに「そんど」の世界で行われているのでしょうし
欠損の闇やノイズもまたしかり・・・
むかしダリのだらりとたれた時計とイルカの絵を見たとき
最初その緻密さに心を奪われ、やがて
それらが一枚の小さなカンバスに描かれていることの意味を思って
きゅっと締まるような心の震えを覚えたことがあるのですが
今回の観劇後にゆっくりと心を満たしたのも
それに近い感覚だったかもしれません。
そのリアルさは、現実よりはるかに生々しく
ちょっとした混沌のなかから
思考(という言葉が適切かどうかはわからないが)の崩壊と
そこからの逃避・再生の物語というパターンが降りてきたとき
目の前がすっと大きくひらけて・・・
ケラが表現を意図したものの通りかどうかはわからないけれど
すくなくとも私のなかで、あるものが共鳴したことにはまちがいありません。
ただし、みていてかなり消耗する感じはありましたけれどね・・・
でも、時間がたつごとに
その量感が次第に自分を支配し始めて・・・
舞台上の時間がこんなに自分の中に広がっていくようなことって
ありそうでないですからね・・・
人によって好き嫌いはあるでしょうけれど
私にとって
この芝居はちょっと忘れられないものになるかもしれません
R-Club
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