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懐かしい現実(バナナが好きな人ときょうの料理)

昔、また歳がばれますが・・・
昭和の時代、「バナナが好きな人」の時代
それこそが私の少年時代でした

まあ、あんまりかわいげのないガキだったとは思います
ちょっと太り気味だったし、運動が好きなわけでもなかったし・・
放課後友人と別れると歌謡曲を歌いながら家路をたどるような
変なませ方をしたガキだったし・・・
愛読書が文庫本の銭形平次っていうのも
かわいげがなかった

小学校の裏庭で飼っていたウサギが好きだったり
小さな文鳥をずっとめでていたりなんていう
かわいいところもあったのですが・・・
相対的ににくそいガキだったような気がします

でも、小学校は、なんだかんだ言いながら
楽しかったですね・・・
一年上に今は本当に大女優になられた田中裕子さんがいて
(池田市立石橋小学校、歌手の奥村チヨさんの母校であったりも
するそうです)
彼女は小学生のころから目だってきれいだったとか・・・
そんな思い出もあったりして・・・

思い出というのは
実は非常にあいまいだったりもします
たとえば、図書室でさわいでいて田中裕子さんにおこられたことは
はっきり覚えているのですが
(田中裕子さんは決して覚えていないだろうけれど)
そのころの給食のメニューなんていわれると
けっこうこまる・・・・

たとえば「バナナが好きな人」の誰に感情移入をしているかといえば
山西惇(犬役)・・・というのは冗談で
本来自分の年代的には中井貴一の役であるはすなのにもかかわらず
自分の何かにシンクロさせて温水洋一に入り込んでいる
それは同時代に同世代だった自分という単純なことなのに
実態がつかみきれない
そのころの毎日はまるで花を育てる土のようにあるのだけれど
その砂の一粒ずつを思い出すことはできない

ちょっと不思議な感覚・・・
もちろん「バナナが好きな人」が見せる
昭和の細部はきわめてあいまいなのですが
なにかが輝きながら、
間違いなくあの頃の匂いをさせていることがわかる
なんなのでしょうね、こういう感覚って・・・

昭和ということでいうと
今日、ちょっと衝撃的な本を見つけました
タイトルは
「きょうの料理が伝えてきた昭和のおかず」
きょうの料理はいわずとしれたNHKの長寿お料理番組で
そこには、まさに私が生きた昭和の時代に
食卓に登っていた料理がたくさん載っている

結構驚くのは当時、今では考えられないほど
食材が限られていたということ・・・
いまではどこでも売っているような食材
たとえば豆板醤なども当時は手に入りにくい食材として
代用品が紹介されたりしています
陳建民の麻婆豆腐のレシピに八丁味噌なんていうのが
入っているのにもちょっとびっくり

また、出汁などもあまり使われず
素材から出る味を醤油などで味付けしているものが多い
そしてシンプル・・・
まあ、NHKの料理番組ですから
そんな、何時間もかかって作るようなものはあんまり紹介
されていないのですが・・・

この本は、私のあいまいな記憶に対する
きわめてリアルな表情をもった資料なのだと思います
バナナが好きな人」の世界が
この本に描かれた世界と交わると
実にたくさんのあのころを心の中によみがえらせてくれます

きっと田中裕子さんに怒られた日にも
私は、そんな、今とは異なる家庭の味を楽しみ
就寝したのでしょう
それは、「バナナ」でおかあさんがいなくなる前に
息子役の温水さんが食べた食事の味付けと
変わりない味なのかもしれない・・・多分

芝居というのは小さな現実を
大きくふくらませて取り込んで・・・
バナナが好きな人」がきょうの料理にふくらみながら
また、自らの小学生時代の匂いにそまっていくのが
なんだかとても興味深く思えたことでした

R-Club本館 (お芝居の感想いろいろ)

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はじめはとまどい後しっくり・・・(BigBizビデオ上映会)

1月18日に「Big Biz」の上映会Plusトークショーを見てきました
G2プロデュースのアンケートに答えたら
ご招待に当たりまして・・・

舞台の映画化を劇場で見るのは
記憶に残っているなかでは3度目です
一度は過去の記事にも書いた新感線の
「髑髏城の7人、アカドクロ」
もうひとつは「朝日のような夕日をつれて」
これはビデオではなく一種の生中継でしたが・・・

新感線の時もそうだったのですが
さいしょの20分くらいはあまりなじめなかったのですよ・・・
過去に生を2回見ている作品ですから
ストーリーは追うまでもなくすっと入ってくるのですが、
なんというかしっかりと身体に物語がしみこんでこないというか・・・
自分がいつも無意識に取っている舞台を見るときのスタンスと
映像が映し出すものの視点が違うというか・・・

八十田さんや松永さんがでてくるころには
映像に自分の視点の持って行き所をゆだねることに
抵抗がなくなり、物語に集中できるようにはなりましたが・・・

でも、似て非なるものってこういうときに使うのでしょうね・・・
同じ素材のものがそこにあるわけですから
映像の中の舞台と自分がリアルにみた舞台は
慣れればある程度同じニュアンスではいりこめるのですが
自分のなかに入ってくるものというか感じ方がやっぱりちがう
どちらが良いとかいうことはなくて
たとえば、生の烏賊そうめんととじっくりと日の光に干した烏賊と
どちらがおいしいかみたいな話ではあるのですが・・・

生のほうが全体にでこぼこが多く
映像の方が全体に滑らかな印象があるのはなぜなのでしょうね
よく言えば万人向きにフィルターがかかったようなイメージが
ありますが、トータルでみてもよりわかりやすいし
見所を逃していない
でも、ときめきも生にはやっぱりかなわない
生の方がはっきりくくっきりとした印象があるのですが
いろんな意味で一筋縄でいきにくくて・・
しかしながら、実際には
そこが逆に生の魅力になっているのかも・・・
けっこう油断をしていると見ているものを
のがしてしまうので気をつけなくてはいけなくて
その緊張感も実は自分にとってのよい刺激になっているのかも
しれません

トークショーはもっとべたべたのお話と思いきや
意外に淡白だけれど深い内容で
何かちょっとしたことにも目が話せない感じ
やっぱり生なのですよ・・・
後藤さんと松尾さんの掛け合いはD/Jという芝居を
思い出させてくれました
まあ、こういう催し物って評価はいろいろと分かれるのでしょうが
新しい表現の試みって
お芝居をされている業界全体がしっかりと膨らむような気がして・・・

なんか新しいものが生まれたり
既存の物が輝いて見えたり

私は良い試みであったと思います

R-Club(お芝居の感想いろいろ)

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走れメルス・常ならぬ才能の発露

野田MAPの「走れメルス」、私は個人的に大満足だったのですが
えんげきのページなどをみるといろんな感想があって、
それらを見比べているだけでも
別の意味で興味を惹かれます。
今回の舞台って、年がばれるかどうかは差し置いて、
夢の遊民社が疾走していたころを知っている人間にとっては、
そのこと自体が感動の背景になるような部分があって
なんというか時間を超えて当時のわくわく感が戻ってくるのですが、
一部のレビューなどではわからないとか古臭さを感じるなどという
批評もありました。
たしかに野田作品において
今回の戯曲と野田MAP以降の芝居との比較になると
作品が持つ軽さのような部分が目につくのかもしれないし
また、表現自体も、当時は才気の発露の代名詞のようになっていた
作品に含まれる言葉遊びも
これだけ才能が乱立する今の演劇界の中では
ちょっと陳腐化したみたいな印象になるのかなとも思います
基本的に好き嫌いの問題もありますしね・・・

でも、私はこの戯曲や演出持つ「永遠の新しさ」というか
普遍性にいまさらながらに驚いています。
そして今回気づいたこと、
当時の夢の遊民社の芝居って役者の躍動感のようなものが
非常に印象に残っているのですが、
今回のような夢の遊民社テイストでの作品の再演をみると、
野田秀樹は躍動感というよりメリハリで
観客を取り込んでいったのではないかと思えてなりません

小西真奈美が日本海軍の艦船の名前を列挙していくシーンを見て
突然思いつき自分で勝手に
目からうろこを落としたのですが、
あの湧き上がる力は、彼女の動作からにじみ出るものではなく
彼女の静的演技と内側に秘めたパワーを
表に出す力のギャップの勝利ではないかと・・・・
もちろん彼女の持つ役者としての才能があったからこそ
あのシーンは成り立ったのでしょうが、
飛びぬけて体が切れるわけでもなく、
体力に恵まれているわけでもない(失礼はお許しいただくとして)
小西真奈美が夢の遊民社と遜色ないような
説得力を秘めた時間を創出できるのは
野田の静動の落差についてのマジックに観客も
役者すらも取り込まれたからだと思えてならないのです。

思えば、遊民社にはいろんなペースの役者がいて
さまざまな強弱の中で作品を演じていたような気がします。
敬称略で円城寺あや、段田安則、竹下明子、門間利夫、
田山涼成 遠山俊也 羽場裕一郎 松浦佐知子 松澤一之
山下容莉枝、川俣しのぶ、佐戸井けん太、渡辺杉枝、
金子真美、石井洋祐、安達香代子・・
まだたくさん忘れているかもしれない・・・
一人一人が夢の遊民社の色に染まりながら、
きちんと個性をもっていてそれぞれにメリハリをしっかり持っていた
完全にばらばらではなく、ばらばらが統制されているような
夢の遊民社の舞台にはそんなリズムがあって、
しかもそれぞれの体や演技が切れた状態で
落差をきちんと持っていた・・・
一度でも彼らの舞台を見たものにとっては
落差を感じる快楽を覚えてしまい、
結論として今回のように当時のばらばらに統制されたリズムを
再現されると舞台に一気に取り込まれてしまうということに
なるのではないかと考察するわけです。

もちろん、ばらばらに統制されたリズムに
初見の方でも同じように取り込まれる方がいても
おかしくはないわけで・・・
でも、ばらばらに統制されたリズムが性に合わない人もいる・・・
(それが良いとか悪いということでは決してない)
というのが今回見られた劇評のばらつきのバックヤードなのかなと・・・

まあ、私が個人的に見ると
それだけの世界を構築する野田秀樹というのは
ある種の天才であることに間違いありませんが・・・

鏡のむこうとこちら側、逆さ言葉で表現される
あの切ないときめきの世界を20歳台前半で具現化して
しかもその後に発展を続ける才能を
30年経っても枯らすことがないというのは、
やっぱり常人ではないような気がする

彼の言葉遊びで私が一番印象に残っているのは、
三代目リチャード(違っていたらごめんなさい)に出てくる
孟宗竹=妄想だけ、>発展して
「妄想するのはもう、そうするしかなかったから」という
つながりなのですが、
そんなしかけが昔から今まで彼の作品の中には
山ほどちりばめられていて、
しかもみんな舞台の中できちんと生きて使われている・・・

なぜわくわくしたのだろうと考えるうちに
わくわくするものの凄さに気づき、
やがてめぐり合えた自分がちょっと幸せに思えてしまった
そんな体験、めったにできるものではありません
少なくとも私にとって劇場にいた2時間弱は
この上なく至福のときであったし
野田秀樹にとってもこのようなテイストの芝居を
彼自身がきちんと動けるうちにやっておくことは
将来にわたっておおきな実りをもたらす試みだったのでは
ないでしょうか。

観客にとっても役者にとっても、野田秀樹にとっても有意義な
公演だったのだろうと想います

R-Club(本館に「走れメルス」の劇評掲載中です)

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三谷演劇VS後藤演劇 どっちもよいけどちょっと比較

皆様あけましておめでとうございます。

今年もR-Club Annexをよろしくお願いいたします。
季節が急に冬のまっさかりで
どか雪が降ったりもしましたが皆様いかがお過ごしでしょうか・・・

さて、私はといえば年末に2本の芝居をみました。
ひとつはPiperの「スプーキーハウス」、
もうひとつは三谷幸喜作・演出&戸田恵子主演「なにわバタフライ」です。
満足という意味では両方とも大満足の作品でした。
すくなくとも芝居の途中で時計をみるようなことは一度もなかったし
引き込まれる部分も多く、後藤ひろひと・三谷幸喜という
当代喜劇作家たちの実力を十分に堪能しました

後藤ひろひとの今回作品はある意味きわめて
オーソドックスだと思うのですよ。
舞台設定もそれほど複雑ではないし、
出演者のキャラクターもきちんと説明されている。
それだけに、役者の芸が問われるというか、
枠の中でどれだけ役者が個性を出せるかが
おもしろさにつながるみたいな作品でした
後藤ひろひとは、恥も外聞もなく役者のキャパを
引き出していきます。
篠原ともえには篠原らしい演技をさせ、
楠見薫には楠見薫らしい演技をさせる・・・
石丸謙二郎と竹下宏太郎にはしっかりと躍らせて客を楽しませる・・・
山内圭哉なんて、まあ、自分のホームグラウンド
ストーリーに多少無理があってもそこをつなぎ合わせるのも
後藤のうまさで
ご都合主義といわれても、
それぞれの個性をくるっと丸め込んでしっかりと
巻き寿司のようにして観客にさしだす・・・
それぞれの役者が得意分野を精一杯演じられることで
観客が120%楽しませるように
できるかぎりのものを詰め込んで・・・
アンコールでのPiper4人+ギター1本での一曲、
あのやり方なんかもエンターティメントとはなにかを知り尽くしている
Piperの隠れたヒットですよね・・・
あの一曲で観客は劇場へ足を運んだことへの充実感を倍にして
帰宅できましたものね・・・

三谷幸喜の今回作品は後藤ひろひととベクトルが違っていて、
最初に明確なモチーフがあり
役者にとことん彼の持つ作品のイメージどおりの
演技をさせているように思える
ある程度のあて振りをして書いてはいるのでしょうけれど
演出の中核にあるのは三谷幸喜の持つ物語上の
登場人物のイメージをどれだけ役者に演じさせるのかという
ことなのではと思います。
まあ、芝居を作るときに役者を選ぶというのは
当たり前のことなのかもしれませんが
特に彼の作る舞台には、役者に重石をのせるというか
これを演じられる役者はこの人みたいなこだわりが強くあって
それが観客にも伝わってくる。良し悪しは別にして
その分外れはないのですが、一方で物語をさらに膨らませるときに
三谷自身の創意工夫が強く要求される部分も
あるのではと思います。

最近の三谷幸喜が作る舞台に
後藤ひろひとの作る舞台よりはるかにきめ細かな印象があるのは、
均一なトーンというかクオリティがひとつの作品を
通して強く維持されていることによるのだと思うのですが、
一方で、後藤ひろひとの作る作品にあるようなふれというか
遊び心にいまいち欠けていて、
さらに遊び心にもちょっと既製品っぽい匂いがするのもまた事実。
うまいと面白いは似ていてすこしちがう・・・

きめが細かくてなおかつそういう遊び心一杯の作品なんて
めったにあるものではないのですが、
後藤ひろひとの作品に見られるような、
ちょっとはみ出したような面白さが
最近の三谷作品にはあまり感じられなくなって残念な気もします。

起承転結という物語の大原則塗り絵の線のようなもので、
そこがちゃんとかけていない塗り絵だと見せられた方もよくわからない・・
その点、三谷芝居も後藤芝居も名人の声がかかるくらい
きちんと線がかけているとは思うのですよ。
問題は塗り方で・・・。
先生にほめられるように几帳面に塗っているのは間違いなく三谷君の作品であり
その緻密さにはみんな唸るのですが、
一方で後藤君の作品にはラフなのにどこか愛嬌があって
もしかするときちんと塗られたもの以上に目を奪われる。
もちろん、どちらの作品が良いといっているわけではなく、
それぞれに個性があるなということなのですが・・・。
昔、落語の世界での志ん生と正蔵の芸風の話を読んだことがありますが
その話と似ているところがあるかもしれません

そうそう三谷幸喜の一人芝居については、もうひとつ、
野田秀樹が大竹しのぶのために書いた「売り言葉」との比較でも
見てしまいました。
一人芝居ということで同じような手法があちこちにあるのですが、
見終わったときの印象がまったく違う。
一番大きな違いは、
大竹しのぶの演技が大竹しのぶ自身の演じるものを
どんどん深く描いていくのに対して、
戸田恵子の演技から浮かんでくるのは
主人公自身よりも主人公にかかわった男達の姿・・・
もちろん演じる対象の違いなどもあるのでしょうが、
大竹しのぶの演技が自分の内側を切り裂いていくような
鋭さに満ちているのに対して
戸田恵子は周りとの係わり合いを丹念にたどっていくような
柔らかさを感じます。
この辺も作者の作風ということなのかもしれませんが・・・。
このような違いを楽しむのも劇場に足を運ぶ醍醐味のひとつであり
いろんな意味で芝居というのは見られるときに見ておくべきだと
思ったことでした

新年早々すこしだらだら文になってしまいました。

最後に改めまして
本年もR-Club Annexをよろしくお願いいたします

R-Club(本館への是非ご訪問下さい))

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