« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »

セピア19xx

一週間ほど前になるのですが
銀座ソニービルのショーウィンドウに
素敵な絵が飾られているのをみました
どこかでみたような・・・
柔らかく丸いきりえのようなタッチの絵

近づいてよく見ると
村下孝蔵のLPのジャケットの原画・・・
一度にいくつかの時間を思い出してしまいました

不思議なもので
彼の歌がプリズムのようになって
その先にまだ学生の頃の私がいた
「初恋」の歌詞のとおり、放課後の校庭に
あの人がいて・・・
メタセコイアの木の下で
友達と笑顔で何かをはなしていた・・・

秋の風がすこし冷たく感じられる頃・・・
10月・・・・夕暮れの早さにすこしさびしさが募る頃
あの人は・・・・
少女のままでそこにいた

そのころ、かなり大人びて見えたその人が
今の私には少女にしか見えず
それゆえに自らの過ごした時間の重なりが
雲母のようにかがやいて・・・・
高校時代のあの日々もまるで
いっぺんのきららに封じ込められた
光のように思えます

初めて「初恋」を聞いたとき
私はラジオをつけっぱなしにして週刊誌を読んでいた
記憶があります
窓からの風がここちよさげにカーテンをゆらして・・・
聴くともなしに聴いた歌詞が
私の前に導いたのは
空想の絵でもなく目の前のグラビア写真でもなく
まる映画の1シーンでした
もう何年もわすれていた何十秒かの光景・・・

人の記憶は
繋がっているのではなく
重なっていることに
初めて気が付いた瞬間・・・・・

想いに飢えることってありませんか?
心の密度が気づかないうちに薄くなっているとき・・・
そんなときわたしはふっと歌を思い出します
そのなかの一曲が「初恋」・・・
耳の中でサビを反芻しているうちに
雲母を薄くはがして
現実に虚飾に芝居のシーンまでが重なりあった
塊を薄いいっぺんのプラスチックの板のようにして
光の下においている自分に気づくのです

まるで「初恋」の主人公が放課後の校庭を走る少女を想うように
想いの後ろには必ず共鳴するシーンがあります

感動できるというのは共鳴できること
共鳴は積み重ねられたシーンの賜物
だから、たとえばよい芝居に感動したようなときには
何かを感じられた自分を楽しみながら
私の中に積み重ねられた時間の登場人物たち
たとえば・・・・・
そう・・・少女のままの彼女に感謝している

銀座の真ん中でちょっとぼーっと
「初恋」のジャケット原画をみながら
9月に見たいくつかの芝居の感動のはるかふもとにたたずむ
彼女に忘れていたお礼をつぶやいたことでした

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (0)

風は積み重ねても軽いーアフターダークの感想ですー

芝居の話からはすこし離れるのですが
村上春樹の「アフターダーク」、
一気に読んでしまいました

昔、「風の歌を聴け」を読んだときの
読感(こんな言葉はないけれど)が久しぶりに
戻ってきた気がしました

うまくいえないのだけれど
軽くソリッドな感じの窓ガラスに差し込む薄曇の光で
自分の中のすこし汚れた空き部屋の壁にピンでとめられた
ずっとむかしのありふれたスナップ写真が照らされた感じというか・・

軽い・・・ちょっと違うかもしれません
間違っているわけではないのですがどこか自分の感じたものを
正確に表現しているわけではない気がします
軽いというより、重さが減じられたというか
本来ある重みが現実と喪失感に分けられたというか・・・

「風の歌を聴け」を読んだときに感じた一種の喪失感のようなもの、
階段のように規則正しい時間がふわっと盛り上がったような感じ
まだ、若かった頃、もっと幼かった頃
記憶?記憶!・・・きおく・・
夜行バスのイメージ
10代から20代に入る頃のセックス・・・
社会というもの、リアルさ
遊び、粋?、すこし置かれた距離・・・
発見する前のまだ見えていないもの
そして見た後埋もれてしまったもの・・・
世の中、大人、けだるさ、芯にあるとめられないもの・・・
缶ビールが消費されていくたびに流れる時間
当時あの感覚を表現した小説なんてなかった気がします

もちろんあれからふた昔以上たって
村上氏の物語もさまざまにふくらみ、
私も彼の作るいろんな世界を読み続けて
よいおじさんの歳になりました

多分村上氏の一番根本にある喪失感は
どの作品にも共通してあるものなのだろうけれど
村上氏が喪失感をてらすライトの色はいくつにも変わって・・・
でも、きっと村上氏は最初のすこしくすんだ色を
忘れることはなかったのだと思います

当時、初めてその色を見た私も
やがて、さまざまな表現に出会うことができて・・・
小説だけではなく、歌も演劇も時代も・・・
自分のいろんな経験に彩られたもの
未知なものの疑似体験・・・
自分でも贅沢しているな思うほど良いものも見ることができたし
いろんなことを知ることができて・・・

でも、「アフターダーク」を読んでいる間、そして読み終えたあと、
「風の歌を聴け」を読んでから今までに
自分の中で無意識に積み重ねていったコンテンツが
風のようにただそこに吹くだけの存在にすら思えてしまいました
そして、優しい喪失感に身を任せるとき
自分のなかに欠けたピースをみつけたような気がします

欠けたピースを見つけた?
違う・・・、そこに埋められるべきものに気づいただけなのかもしれません
それは何?
それが何かを表現するのはかなり難しい
ただ、匂いがあって、存在を感じられて、
すこし懐かしくて切ないもの・・・
でも、透き通ってなぜか凍りつくもの・・・

演劇からなら、もっと包括的に感じることができるような感覚だと思います
文字の方がずっとフィックスしていて、何度も確認できるのに
文学というのは時として受け手にはタフな表現なのかもしれません

風はどんなに積み重ねても風の重さ
触れるときその感覚を忘れることはないのに・・・
透きとおってただ、ひたすら、軽いのです

読み終えたあと
ちょっと、息をふっとついて、ベランダで深呼吸をして・・・
自分の前の景色をながめて
自分が村上春樹を最初に読んだときのテイストを
まるで今を見るように思い出したことでした

R-Club


| | コメント (0) | トラックバック (0)

よい戯曲とは・・・

土曜日に見てきたシス・カンパニーの
「ママが私に言ったこと」は
いろんな意味で贅沢なお芝居でした

青山円型劇場というスペースは
中央の円形舞台から客席までが最大でも
6~7列ですから役者の吐息までが直接観客に伝わるような空間

そのスペースで木内みどり・渡辺えり子に
大竹しのぶ・富田靖子までが演技をするのですから
それは見ているほうもすごいことになります

実は、その中でもほぼ真ん中のブロックの1番前の席が偶然とれまして
その迫力たるやもう・・・

一番最初に気づいたのは
女優たちがまとうパフュームの香り・・・
もちろんあの空間だからできることなのでしょうが
女性達の物語にその香りでいざなわれたような・・・

そして、舞台もクロスステッチ刺繍の上、
さらには舞台頭上にクロスステッチの裏側が飾られていて・・
導入の部分からしっかりと観客を取り込む仕組みができている

物語は現実の時間も入れ子になっており
さらに現実の外側の場面もあることから
けっして単純ではないのですが
背骨がしっかりしている台本で
見るものを迷わせないうまさがあって・・・
しかも背骨がしっかりしていることから
役者達は本当にのびのびと自分の演技が出来ている感じで・・・

それは物語の中心にある演技だけではなく
背景ともいえる演技にまで役者達の心が息づいている舞台
たとえば洗濯物をたたむ木内みどりのシェイプの美しさ・・・
彼女の台詞の背景となる彼女自身をあらわす継続的な動作の巧みさ
あるいは、ソリティアの玉を無心に動かす富田靖子の一途さ
そして思いつめた彼女の瞳の強さ
渡辺えり子のちょっとルーズな感じも
彼女が舞台にある間しっかりと維持されているから
やがて彼女の最後につながるシーンで彼女の尊厳に繋がっていく
大竹しのぶが見せる強さ・・・
しかしその中にあるもろさというか弱さをきちんと内包させ続けて・・・
その演技があるからこそ
あれだけ卓越した感情に対する表現力があっても
他を凌駕するような舞台(奇跡の人をヘレンケラーの物語ではなく
サリバン先生の物語にしてしまうような・・・)にならず
彼女が娘と母の連鎖のひとつの縫い目として
観客は舞台上の彼女を見ることが出来る・・・
そういう流れが自然に舞台を支配しているような豊潤な空間・・・

演出の勝利という部分もあると思うのです
それは台詞回しとか役者の動きとかだけではなく
舞台上の密度の強弱のつけ方のうまさも含めて・・・
たとえば物語を壊さないぎりぎりの部分で
しーちゃん(大竹)えり子(渡辺)が遊べるような時間をつくったり
畳み込むような物語の流れに生まれていない登場人物の視線をからめたり・・
もちろん、これだけの役者が上がる舞台ですから
感情の流れもしっかりと役者のなかでコントロールされているし
それらの相乗効果があるとすれば
クオリティの高い舞台が生まれるのも当然なのかもしれません

しかし、この戯曲には役者達に力を出させるような
それだけでない何かがあるような気がしてなりません。
物語に説明を要しない普遍性があるというか、
役者の示す感情に無理が生まれないというか・・・
男性の私が女性の心の動きをこれだけ納得できるという裏には
役者の力が観客に素直に伝わっていく構造のようなものが
この芝居にはあるような気がしてなりません

まあ、小難しい小理屈を並べてはみても
本当に良い舞台をみたなというのが正直な感想なのですが・・・

たとえば
大竹しのぶさんの演技、あれだけ近くで見ることができて
本当に感銘を受けました
彼女の想いは解釈を経ることなくダイレクトに心を揺さぶってくる
それはやわらかくゆっくりとしみこんでくるような
木内みどりさんや渡辺えり子さんの演技に支えられて
特にそう感じるのかもしれませんが・・・
一方富田靖子さんの表現する無邪気さと透明感は
他の役者さんよりずっと鋭く尖っていて、
それはそれで魅了されました
しかし彼女の横顔の美しさはどう表現したらよいのでしょうね・・・

芝居というのは無限の組み合わせの中で
生まれるたった一つの空間を楽しむものだとおもうし
これだけの空間にめぐりあえるというのは
僥倖の極みだともおもうのですが・・・
よい戯曲とは僥倖を生み出すだけのチャンスを
きちんと役者に与えるだけの仕組みを内包した
物語なのかもしれません
そこに戯曲に耐えうるだけの力を持った役者が集まると
このように観客を十分に満たす舞台が生まれるということなのでしょうね・・・

10月3日まで公演は続くようですが
この舞台、チャンスがあるのならぜひぜひお勧めしたい一本です

なお、詳しいお芝居の感想は
R-Club
をどうぞ・・・


| | コメント (0) | トラックバック (1)

痛くなるまで・・・て?

G2プロデュース最新作@紀伊国屋ホールの
「痛くなるまで目にいれろ」については評判が結構分かれているようですね
正直、G2一流の力技で作ったような作品なので
好みは別れるとは思うのですが・・・
子供を守るためにそこまで周到にやるかみたいな・・・
でもそこまでやるからおもろいみたいなところもあるし・・・

ただ、芝居というのは無茶も本気でやれば無茶ではなくなるという
側面もあって・・・・

「痛くなるまで目に」いれるほどのしたたかな計画をもった父親と
なんだかんだ言いながらその庇護に身をゆだねる息子・・・
そのために親は周りをだまし息子までを平気で騙す・・・
もともと舞台にはなにもなくて
そこにある種の線を引くことから創作というものは
始まるのだろうし・・・
その価値観を軸に物語が回っていることで
無茶が無茶でなくなり一定の筋書きが生まれてくる
そのあたりのことってG2はよくわかっているのでしょうね・・・

ましてや陰山泰や山内圭哉のような役者なら
その無茶も十分通す力を持っているはずだし・・・・
期待は十分に満たされたし・・・

思うのですよ
芝居と料理はとても似ているって・・・
そもそも素材を選ぶのもセンスのうち。
えらばれた素材も味付けによってがらりとその性格をかえるし
食べる人にも好き嫌いがあって
同じものでもある人はおいしいと言うし
ある人はまずいという

えんげきのページなどの劇評も割れたし・・・
全員がすばらしいという芝居はそりゃ良いに決まっているけれど
でもね、もしあなたがこういう芝居を楽しめるのなら
それは天から与えられた才能のようなもので
決して悪いことではないかと・・・
たとえば納豆やブルーチーズをおいしいって思えるのは
それはそれでとても幸せなことではないですか

R-Club
にも劇評を掲載しましたが
こういうお芝居もたまに見ないと
ほかの芝居のポジションがわからなくなるかと・・・
まあ、役者がかむという書込みが多いのは
いただけませんが(演劇のぺーじに複数の書込みがあった)
すくなくとも私が見たときには
G2さんが入り口の近くの席で検閲官よろしくごらんになっていたこともあって
役者全員が緊張感をしっかり持ってとてもよい出来だったし
極上のエンターテイメンだともおもいます

| | コメント (0) | トラックバック (2)

男性の好きなスポーツのすごさ

本館(R-Club)にも書きましたが
「男性の好きなスポーツ」はいろんな意味でインパクトの強いお芝居でした
総合力に優れていたというか・・・
個々に優れた面が積み重なったというか・・・

松永玲子さん、よかったですものね・・・
もともと透明というか、何にでも染まることの出来るタイプの女優さんで
彼女を見始めたときには
その分、ちょっと器用貧乏のようなところがあったのですが・・・
この数年で骨太になったというか
舞台の存在感が飛躍的に高まった気がします
細かい感情を動作で表現できる能力に加えて
しっかりと自分の感情を表現する力が他を凌駕するほどついたということでしょうか
今回の公演でも、そりゃ、京晋佑とのからみも目立たないといえば
うそになるけれど、でも一番印象に残ったのは
京晋佑演じる悪警官が怪我をして急に優しくなったとき
そのやさしさを嫌うような部分でした
説得力があるのですよ・・・
ナチュラルで、彼女の根源的な部分が浮かび上がるような
京晋佑のやさしさへの嫌悪の芝居・・・
舞台の上の女優さんに生身の感情を感じる錯覚をさせられるなんて
そうあることではありません
それだけ彼女の演技は一級品だったし、彼女にしか出来ない演技を見た気がします

松永さんだけではなくほかの役者も今回は出来が本当によかったですものね・・・
そう、今回のナイロンがすごいのは
70点クラスの芝居をうまく並べて100点にもっていくというレベルではなく
100点にちかいものを贅沢に使って隙がない100点を作ったような
ニュアンスがあること

新谷真弓さんやすほうれいこさんの演技も
観客に解釈の作業を必要とさせないほど
ダイレクトに彼女達の感情や気持ちを
伝えてくれる・・・

資質のある俳優が集まって芝居をつくっているのか
ケラさんが役者の資質を120%くらい
引き出しているのか・・・
京さんも鳥肌モノの切れだったし、みのすけさんや藤田さんもいい味出していたし

そうそう、ロマンチカのお姉さまたちも
本当に印象が強くて・・・
ナイロンの女優さんたちの表現する女性の対極にあるのがロマンチカのお姉さまで・・・
これはこれでやられてしまいました
男性ってどうしてああいうお姉さんに弱く出来ているのでしょうね・・・
フェロモンなんて言い方もあるのですが
昔風にいえば色香にまどわされるというか・・・
容姿、衣装、細かい仕草の一つ一つが
男性の劣情をそそるように計算され尽くしている・・・
もう、またたびを嗅いだネコの気持ちが痛いほどわかる・・・
松永さんや新谷さん・すほうさんの素の女性としての感情の対極として
非常に計算されつくした彼女達のパフォーマンスだったとおもいます
でも、彼女達って素はどんな感じの方たちなのでしょうね・・・
芝居が終われば普通の目立たない女性として
劇場を後にされるのでしょうか?
そんな興味まで抱かせるほど
彼女達の演技は完成度が高かったです

ケラさんの芝居、ラストシーンまでこのところあたり続きですものね
今回の表現も、ケラさんの想いがしっかりと伝わる
実に秀逸なものだったとおもいます

よい芝居をみるのは本当に幸せ
先週末にみてもう4日もたっているのに
考えがつのる
つよくちょっとどきどきで、でも充足した印象の残る
「男性のすきなスポーツ」なのでした


| | コメント (0) | トラックバック (0)

寺田屋を舞台に・・・

三谷幸喜作の大河ドラマ「新撰組!」もいよいよ佳境に
入ってきましたね・・・
小さなシーンにも彼の才能がここかしこに溢れていて
毎週日曜日が結構楽しみになっています

テレビドラマにおける彼の心理描写には
舞台以上といってもよいほど細部にわたって
絶妙な軽さと深さが同居していて
見るものをあきさせませんね・・・

先週(8月29日)の寺田屋を舞台にした
シーンも含蓄があって・・・
香取慎吾演じる近藤勇のこころの動きが
ドラマの仕組みによって
彼自身のによって語られる台詞の何倍にも広がって・・・
しかもそれが、シチュエーションコメディのような
一つ間違えばウェルメイドのドタバタ喜劇になりかねない味付けの中で
しっかりと成り立っていくところがすばらしい

戸田恵子演じる寺田屋のおかみが
近藤勇におふろを勧めるシーンも
秀逸でしたね・・・
戸田恵子という役者の強い面がしっかり出て・・・
男のもつデリケートさと女がもつ強さのコントラストは
案外表現できるようでむずかしい気がします
三谷幸喜の面目躍如というところでしょうか・・・

あと、優香と田畑智子のふたりがそれぞれに
譲り合って近藤勇をわかちあうシーンも
味わい深いものでした
東京出身の優香が大阪の太夫を演じ
京都出身の田畑智子が江戸の本妻を演じるところが
またおもしろくて・・・・

シーンを積み重ねていくことでひとつの世界を律儀につくりあげていく一方で
遊び心も忘れない(彼一流のコメディのセンスもちゃんと盛り込まれている)
三谷脚本はこれまでの大河ドラマと一味違う感じがします

でも、私は三谷芝居がすきだから
けっこうそう思えるのかもしれませんね・・・
あまり芝居をご覧にならない方が「新撰組!」を見ると
どのような感じを受けるのだろうか
特にこれまで大河ドラマを支持してこられた年配の方など・・・
ちょっと興味がありますね・・・

だれか教えていただけるとうれしいのですが・・・


R-Club

| | コメント (1) | トラックバック (1)

« 2004年8月 | トップページ | 2004年10月 »