喬太郎伝説と大銀座落語祭2

本当に、頭に高座が出来るのではないかと思うほど、週末は落語三昧でした。銀座だけではなく、三軒茶屋まで足を伸ばす始末・・・。年甲斐もなくというか、無節操というか・・・。でも、本当に楽しかったです。

(ここからネタの中身に触れるような記述があります。ご留意の上お読みください)

・7月19日喬太郎伝説(柳家喬太郎独演会)@世田谷パブリックシアター

いま、一番脂が乗っている噺家の一人だと思うのですよ・・・。その話術といい、噺の切れといい、はじけ方といい・・・。

まあ、大銀座のチケットが取れているんだからわざわざ世田谷くんだりまで足を伸ばさなくてもと、一時は思ったのですが、「双蝶々」という噺をかけるとのことでがんばってチケット取り、三軒茶屋まで足を伸ばしてしまいました。

☆柳亭左龍 「お菊の皿」

くっきりした語り口で、なんというかわかりやすい。妙な気取りがなく、でも相応に腰のある「お菊の皿」となりました。江戸前と上方風では笑わせるポイントがかなり違う・・・。上方落語になれているとちょっと乗りにくいような部分もありましたが、でも飽きのこない噺の進め方だったと思います。

☆柳家喬太郎 「純情日記(渋谷偏)」

枕が秀逸で・・・。ホームグラウンドの余裕というか手のひらに話しっぷりが場内を盛り上げて、それがまた師匠自身のテンションをあげていく・・・・。師匠からすると、枕からしっかりと客を掴みきっているし、逆からみると思いっきり師匠に乗せられている感じ。

本編も、良い意味で危うい感じがあって素直に楽しめました。主人公の感情のばらけかたがときどき観客と不整合を起こすような場面があって、何かが残る。しかしそれがリアリティに変わっていくところが師匠のすごいところ・・・。苦味をもって噺が本来もつ味を際立たせていくのです。たまに苦味が強すぎるところもありましたが、まあ、そういうばりがないと噺がきれいに流れすぎるのかもしれません。しっかりと茹で上げた後冷水にさっと通すようなオチも秀逸。観客の心にとりちらかった噺のエキスがすっとまとめられてしまいました。

☆林家正楽 「紙きり

これは間違いなく至芸です。

軽妙な舞台と客席の掛け合い、OHPに図柄が映し出されたときの驚き、作品の風情、ボストン美術館にそのまま飾ってあってもおかしくないような・・・。

上半身を動かしながら切っていく姿もちゃんと芸の算段に入っていて・・・。

時間があっという間でした

☆柳家喬太郎 「双蝶々(通し)」

厚みというかボリューム感を持ちながら、一方で人間の抗えない本質がすっと観客を包み込むような一席でした。生い立ちが見事に浮き立つ導入部分から、ぞくっとするような人間の暗部が垣間見える中盤の番頭殺し、そして丁稚殺し・・・。一つずつのシーンが細かい画質で描かれていきます。殺される丁稚の描写、長吉を信じている姿から、自らが殺されることを悟ったときの心の動きまでが手に取るように伝わってきます。殺す長吉に一瞬のためらいが浮かんで見えたのは錯覚でしょうか。

子別れの場面、息が詰まるような時間、淡々とした語り口がずっしりと積もっていく・・・。父親が羽織を渡してやる気持ち、見守る母親の心情、そしていとまごいをしてひとり雪の町に出た長吉の思い。ぶれがまったくない喬太郎師匠の空間の刻み方に、親子の心の重なりが舞台からダイレクトに伝わってくる・・・。

真夏の7月19日なのに、肌に冷え切った空気を感じるのは、決して冷房のせいではない・・・。その凍てつき透きとおった夜の吾妻橋、捕り方の提灯が凜と鮮やかに浮かぶ・・・。気がつけば、喬太郎師匠の芸に観客は、人の性が運ぶ顛末を俯瞰する場所へ導かれていて・・・。そして喬太郎師匠の打出しと共に景色だけがそのまま残る・・。

劇場をでても外の暑さがしばらくわからないほど、取り込まれてしまいました。

・7月19日大銀座落語祭 映画と新作落語の会@時事通信ホール

林家しん平監督の映画、残念ながら最初から観ることはできませんでした。でも、途中から観ていてもなにか懐かしかった・・・。昔の匂いがする日本映画という感じ・・・。

別に落語ファンでなくても、鑑賞に十分堪える出来だったと思います。

さて、2部は新作落語会、5人の個性派がそれぞれの色を鮮やかに出して見せました。

☆月亭遊方 「絶叫ドライブ」

びっくりするような特徴はないのですが、なにか聴いていると続きを聞きたくなるような・・・。デフォルメされているようで、実はそんなのあるなぁ・・・みたいな感じがする。不思議な親近感があるのです。高座と客席の感覚が近い落語というか、聴いていてもたれないというか。でも、肝はしっかりとつかんでいるし笑いがちゃんとくる。力みを感じないよい高座でした。

☆林家しん平 「お題不詳

仮面ライダーをはじめ昔のヒーローたちのその後を面白おかしく語っていきます。ヒーロー専門のハローワークっていうのも笑いました。微妙な哀愁がよいスパイスになっていて、噺の味わいを深めていきます。

噺もよく出来ていて、ここ一番のポイントがちゃんと作ってあって・・・。よい出来だったと思います。入り

☆福笑亭福笑 「脂肪遊戯」

良くいえば、福笑師匠の高座のシニカルな一面が強く出ていて・・・。まあ、悪く言えばうスプラッター落語ともいわれかねないネタ・・・。非常に突き抜けたブラックな笑いを呼び込んでいました。単純に肝臓や腎臓を引き出して見せて趣味の悪い笑いを誘っているわけではない。その先には安易に脂肪を抜くことで美しさを得ようとする女性のあざとさを笑う福笑師匠の冷徹な目があります。小腸を振り回す描写など尋常な笑いではありませんが、そういう紙一重の表現でジャンクすることなくで高座を保つだけの絶妙のバランス感覚が福笑師匠にはあって・・・。その、すごさに目を閉じてしまうか見開いてしまうかは観客しだい・・・。

まあ、好みは分かれるでしょうねぇ・・・。事実、終演後満座が沸騰するような感じではなかったです。

ただ、ここまで突き抜けないと表現できないものが間違いなく存在する・・・。禁断の毒の甘さとでも申しましょうか・・・。個人的には、非常に魅力的な狂気を感じることができましたし、ライブでしか接することができない噺だとは思いますし、噂にはきいていた話ですので聞けてラッキーだったと思っております。、

中入り

☆桂あやめ 「私はおじさんにならない」

あやめ師匠は女流の落語家さんの草分け的な存在、すごく昔聴いたときには女放談(吾妻ひな子師匠がやられていたような)に物語という線路を付けたような印象があったのですが、今回の円熟ぶりには瞠目しました。無理やり女性が男性の領域で落語をしてはったような昔と違って、落語のなかに女性が演じるよさが緻密に織り込まれている感じ。

ねたも良く練られていて、なおかつ洗練されている・・・・。

畳み掛けるような噺のもっていき方には、ノリとつややかさがあって、笑いが波状攻撃のようにやってきます。しっかりとコントロールされた噺も持っていき方に、観客は安心して身をゆだねられる・・・。

女流落語として一つのジャンルをしっかりと作りながら、一方で男女落語表現均等法に準拠して、芸の品質に女性だからという部分を払拭もしている。中堅落語家としての貫禄も加わって、豪胆な中に緻密さがある秀逸な噺に観客はころっと取り込まれて・・・。

いやあ、ファンになりました。

☆林家彦いち 「お題不詳」

テレビ出演の関係で、福笑師匠やあやめ師匠に気を使いながらトリ・・・。

実直な中に力があるし金とは逝かないながらも銅のような輝きもある・・・・。SWAのときにも思ったのですが、筋力がしたたかに潜んだ噺をなさる・・・。その筋力があるから多少無理な設定もまっすぐに押し切ることができる・・・。観客をぐっと捕らえる彦いちワールドというものが間違いなくあります。

怪談部というサークルの話、部員に怪談を考えろといってもろくなものが出てこない。その中で本当の妖怪が現れるのですが、サークルの指導教官は妖怪へのダメだしをはじめる・・・。ある種のパワーがかかったトーンのなかでは、妖怪へのダメだしという無茶がじつにすっきりといくのです。すっきり笑ってのお開きは見事な限り・・・。

バランスが取れたなかなか良い番組構成の新作落語会、たっぷり楽しませていただきました。

しかし、流石に3日間で4つの会はちょっとオーバーワーク・・・。でも、落語づけの日々まだまだ続くのです。

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大銀座落語祭1

7月17日スタートの大銀座落語祭、怒涛のように落語を聴きました

演者の方も、なんか気合が入っていてとてもよい。記録を兼ねて、プチ感想などを書き込んでおこうと思います。す。

(なお、新作落語のネタばれ、古典落語についても噺家さんの工夫等のネタバレが含まれています。題目についてはわからないものや不正確なものもありますのでご了承くださいませ)

・7月17日 時事通信ホール にぎやか亭オール鳴り物入りの会

大銀座落語祭の幕開け、おにぎやかにオール鳴り物入りの会ということで・・・。まあ、上方ははめものの伝統がありますが、江戸落語はどうなるのかなどと浅はかな知識をめぐらせていたのですが・・・。いや、やれば出来るものなのですね・・・。

☆桂こごろう「野崎まいり」

いきなり道中の風景が浮かぶような明るさがある高座でした。はめものもお手のもので・・・・。舟を出すときの描写が秀逸で、船頭の力の入れ方がじつに綺麗。ノイズがないというかへんな力みがなくて、慣れた仕事がうまくいかない一瞬のあせりのようなものが出ていて・・・。そこがあるから、舟を留めているほうの滑稽さにあざとさが感じられない・・・・。喧嘩の部分もよどみのない語り口で聴いていてべたべたしていない・・・。洗練の感じられる高座でありました。

☆古今亭菊之丞「法事の茶」

江戸前の落語で鳴り物をいれるとなると、噺の流れというよりはこういうセットプレイのほうがやりやすいのかもしれません。茶の湯気から現れる古今東西の有名人、自由度の高い噺を味わいたっぷりに演じて見せました。

菊之丞師匠の品のよさには惚れ惚れしました。品のよさに芸の深さが重なっているから、上品さがいやみにならない・・・。焙じたお茶を入れる仕草にも下世話な部分がなく、それでいてたいこもちと若旦那という日ごろ自分でお茶をいれることがあまりない輩の不器用さはちゃんとでているから、形態模写のリアリティも噺の内側でのお座興という建前がしっかりと成り立っていて、だから至芸やくすぐりまで心置きなく楽しむことができました。

☆桂文太「稽古屋」

上方独特のねっちりした語り口が最初すこし重く感じたのですが、噺が始まるとその重さがじわじわと効き始める・・・。面白さが上滑りをしないのです。前の面白さが消えて新しい面白さが生まれるというのではなく、ボディブローのように面白さが効いてくる。子供のお芋を主人公が食べてしまあたりなど、ある意味えげつない噺なのですが、けっこうマジ笑いをしてしまうのはそれまでのボディブローの賜物であるような・・・。厚みのある滑稽噺となりました。お囃子とのあわせ方にそこはかとない粋がある・・・。芸の力かと思います。

中入り

☆桂歌ノ助「善光寺骨寄せ」

「お血脈」は江戸前の落語で何度か聴いたことがありましたが、今回のような演出は今回が初めて・・・・。先代の歌之助師匠のねたを当代が受け継いだとのこと。お釈迦が誕生するところから噺を紐解き、そのはんこ(?)の由来を説きます。前半を長めにすることで、噺の見せ場をラストから五右衛門が賽の河原から立ち上がるところにずらすのです。

で、先代が工夫したという骨寄せのシーン。本来ならしゃれこうべがぽーんと飛んできて骨寄せのきっかけとなるのでしょうけれど、上手から飛んできたしゃれこうべがそのまま高座の下に入り込んでしまって、まあ、それはそれでご愛嬌。で、手作りの骨格標本で五右衛門の骨が立ち上がっていく・・・。たわいないといえばたわいないのですが、なにか昔の寄席ってこんな感じでお客さんを喜ばせていたのだろうなという懐かしいような雰囲気が伝わってきて・・・。

どちらかというと自然体の語り口で力を感じるわけではないのですが、さらっとしたなかに誘い込むような味がある。だからそんな仕掛けも重たくならず見ることができました。

☆柳亭市馬「掛取り」

声自慢、歌自慢の市馬師匠、ロビーでCDも売ってました。で、大晦日に取立てを好きなもので追い返そうというこの噺も市馬師匠、しっかりと自分のほうに噺を引き寄せてみせました。目鼻立ちのしっかりした話しっぷりに貫禄も備わってそれでなくても観ていて安心感がある。短歌好きとか相撲好きを追い返すあたりの語り口はそれこそ立て板に水、聴いていて心地よいこと。で十分似合った待ったところで三橋美智也好きという設定を持ってきて高座を歌謡ショーにしてしまう。また、これがちゃんと聴かせるのですよ。こういう芸にありがちな臭みが噺の枠のなかで上手く消されていて、手拍子を自然にしたくなるような・・・、なんか極楽・・・。

気持ちよく打ち出しの太鼓を聴くことができました。

・7月19日 教文館ウェンライトホール 「ラクゴリラ」

関西ではもっと開催頻度の高いらしいですけれど東京ではお江戸日本橋亭で年二回開催のラクゴリラ、今回は日本上陸!!と銘打っての特別興行です。

開場はうなぎの寝床がのように横が8席、縦が長い。で、一番前の席だったので最初こちらがちょっと緊張しました。あと高座が高く作ってあるのでその分天井が低い。演者が頭を気にしながらの高座となりました。

☆開口一番 三遊亭 歌ぶと「権助魚」

しっかりと腰がある落語、つく枝師匠もおっしゃっていましたが、ずっと定席を回っているとのことで噺の運びにぶれがない・・・。時間の長さが問われる部分がある噺だけに表現のテンポや配分が問われる噺かと思うのですが、実にこなれていて・・・。噺の流れに太さがある。お世辞抜きに噺を楽しむことができました。

☆桂 つく枝「平の蔭」

愛嬌のある高座で、場の雰囲気をすっと和ませます。文字が読めない男が手紙を読んでくれてと頼まれての悪戦苦闘、落語としてはポピュラーなパターンなのですが、その困り方のリズムがよいので、噺がどんどん深くなっていく感じ。なにげに仕込まれた緩急が効いていました。間口が大きくとられて心理描写が点ではなく空間に広がっていくような・・・。そのなかで笑いがぼこぼこっと引き出されていく感じがしました。

☆笑福亭生喬 「質屋芝居」

この噺、初めて聴くのですが、理屈抜きでおもしろかったです。芝居好きの商家の噺はほかにもあって特に珍しいパターンではないのですが、でも引き込まれました。

この噺は丁稚の芝居の所作がしっかりしていないと成り立たないとおもうのですよ。その肝になる歌舞伎の仕草、それは見事なものでした。よしんば一番前で見ていることを割り引いても迫力は抜群、演者も脂が乗り切っていてまさに一級品です。ここまで番頭の芝居で観客を上げるから、番頭がそこに取り込まれることにも、主人が呼び込みの拍子木を打つことにも無理がない。さらには商家のシーンに戻ったときの落差で笑いがどっと起こる。下座も本当に力と味があって・・・。はめものがしっかりと決まって・・・。

上方落語の特徴とも華ともなりうる「芝居を演じる」力が噺全体を何ランクも引き上げた高座、サゲもしっかりと効いて出色のものとなりました。

中入り

☆桂 こごろう「青菜

季節的にも定番の噺。それだけに演者の工夫が高座を分けるような・・・。

こごろう師匠の植木屋さん、ほんとうにはまっているのですよ・・・。「野崎まいり」のときにも感じたのですが、噺にライトを当てるというかある種の明るさと軽さが噺を浮揚させるようなところがあって、それが植木屋さんの人物の好感度をアップさせている・・・。

それと、おかみさん、押入れにいれられて、出てきた後の描写を思い切りリアルに演じるのです。これがねぇ・・・、効くんですよ。ぜいぜい息をしているその姿に観ているほうは色がモノクロからカラーに変わったような臨場感の違いを感じる。その世界でもう一度押し入れに入っていくから、もう笑いを抑えきれない。

個人的には、すごく昔に仁鶴師匠のものを観ていて、そのイメージがずっと残っていたのですが、それがうん十年ぶりに塗り変わりました。

☆林家 花丸「幸助餅」

上方落語ではあまり聴かない人情噺、初めて気がついたのですが、関西弁での人情噺というのは、江戸物よりも情が深く入るような感じがします。言葉のもつ特性なのでしょうか・・・。

花丸師匠、最初は淡々と物語を進めていきます。そこに少しずついろんな感情が色付けされていく感じ、主人公の感情表現がやや強めでそれが噺の重さにしっかりとマッチしている・・。主人公と昔からよしみの、今は江戸の大関、雷五郎吉が実に上手く表現できていて、噺の密度をぐっと上げます。裏切りにも思える言葉が持つ破壊力のようなものがもろに観客を襲ってしっかりと観客の心情をつくる・・・。そこで、妹を郭にうった男と観客の想いがおなじベクトルを向くのです。ここがこの噺の肝、その表現が実に丁寧で、でも決して守りに入っていない・・・。だから最後に感情が解けるときに観客は大きく満たされる。

花丸師匠の色が本当に似合う噺、でもその先をしっかりと作った花丸師匠の大きさを感じたことでした。

いつものことながら大満足のラクゴリラ、本当に堪能いたしました。

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「轟きのうた」の手作り感(鹿殺しオルタナティブ プチ感想)

ちょっと遅くなりましたが・・・

7月13日、ソワレで鹿殺しオルタナティブ「轟きのうた」を見てきました。劇場の楽園は2度目・・・。ただ、鹿殺し的な劇場つくりがなされていて前回より空間がずっと奥深く思えました。柱がインパクトありすぎ・・・。

坂本けこ美の個性豊かな前説放送にちょっと心を緩めていたら、実に濃密な時間に劇場全体が包まれて、いきなり圧倒されてしまいました。

(ここからネタばれがあります。公演期間は終了していますが、ご留意の上お読みください。)

神々の話からはじまります。付録つきの科学雑誌のおまけで人間が出来たというあたりから素敵に胡散臭いのですが、その胡散臭さが不思議と物語の輪郭を観客に指し示すことになります。固定化された才能を示す友人達の手の形状、時間の流れにも似た砂の舞台、エヴァンゲリオンの世界が、少年が自らの殻を打ち破る姿をアニメーションで表現したように、演劇空間でしか表現し得ない内面世界が次第に現出していきます。砂の舞台、血のにおいを感じるようなある種のデフォルメ。入り口付近に作られた小さな舞台が効果的に活用され、主人公の真理状況がまるで裏と表をひっくり返すように物語の登場人物に代位され語られていきます。

感心したのは、作り手が表現しようとする概念を具現化するための徹底したこだわり・・・。小さい劇場で砂を使ったりカーテンを利用したり、演技にも擬音をちりばめたりメリハリをしっかりと付けて、観客の目線を自分の視点に引き入れていきます。それは、小さいことの集積、たとえば松明の火をめらめらと声を出して表現することで広がる厚み、色、音、小道具達・・・。それらが溶け合いながら、主人公の内面と共鳴していきます。

昔々、同じような肌触りをもった芝居を観たことがある・・・。六本木から西麻布に向かう途中にあった自由劇場のお芝居・・・。テイストは違いますが、表現についての姿勢に同じ匂いを感じました。空間の狭さを逆手に取った、観客の五感すべてを揺らすようなお芝居・・・。

丸尾丸一郎演出の「狂人教育」の時にも感じたのですが、彼の作る芝居には感覚をダイレクトに伝えるような力があって、一方で葉月チョビの演出はその力をまっすぐに観客に伝えるためによい意味で手段を選ばないところがある・・・。それぞれのシーンに自由で創意に溢れた表現があって、観客をどんどん呼び込んでいくのです。

泥臭い部分もあるのですが、インパクトは抜群。鹿殺しパワーのなかにどっぷりと浸ることができました。

役者もよかったです。一人ひとりの役者が自由闊達に抑制されている感じ・・・。強い個性がしっかりと統制されて舞台が大きく力を蓄えていくような・・・。

しいて言えば、演出を兼ねる葉月チョビのお芝居が、ちょっと調和に気を使いすぎているような感じもしましたが・・(もっとはじけても大丈夫かと・・・)。それはそれできちんとした効果があったようにも思えるし・・・.

新生「鹿殺し」、しっかりと力をためている・・・。10月末の本公演が一層楽しみになりました。

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楽しい!「アリス」じゅんじゅんScience

7月13日 吉祥寺シアターで、じゅんじゅんScience「アリス」を観ました。1時間のパフォーマンスの楽しいこと。ダンスを見ているという感覚をはるかに超えた世界が現出して時間を忘れて見入ってしまいました。

(ここからパフォーマンスの内容が含まれます。ご留意の上お読みください。)

ヴィヴィドなシーンから始まります。たかぎまゆが舞台に現れると、それだけで広い吉祥寺シアターにぱっと花が咲いたよう・・・。彼女の特徴であるメリハリある身体の動きが観客を一気に舞台に引き寄せます。フレンチの小粋な音楽と一瞬にして溶け合うと頭からつま先までの動作が舞台装置のほとんどない空間に色を散らしていきます。動が観客を揺さぶり一瞬の静止が彼女のキャラクターを観客に印象付けていきます。

伊藤キムのウサギにもちょっとびっくり。懐中時計をしてスーツを着てあわてているウサギではなく、野生のやくざっぽくて臆病なウサギ・・・、ちょっと強面で威嚇をして見せるけれどアリスはお構いなしに追いかける・・・。たかぎまゆから溢れてくる少女の好奇心に観客はもうわくわくです。

舞台に座っていたじゅんじゅんも登場・・・。派手さはないのですが、着実な動きが観客をすっと落ち着かせます。

さらに、森川弘和が登場して、4つ巴の追いかけっこが始まるのですが、これがすごく創意に溢れていて目が離せないのです。ルーティンを細かく織り込んだり、ユニゾンを少し崩したような豊かな表現を伴った動き・・・。観客がすてきに期待を裏切られる一瞬の仕草、ルーズなユニゾンのような動きの上に、個々の表情が残像を描いて暖色の舞台を作り上げていくと、そこからさらに複雑な振付へと発展して、観客はわくわくするような高揚感のなかで舞台に巻き込まれていきます。

彼らの鍛えられた動きにはノイズがなくくすみがない・・・。ひとつひとつのシーンがすごくクリアにやってきて、彼らの身体が作り出す小さな角度や鋭さや動きの強弱がそのまま観客を魅了していきます。時に俊敏で時にやわらかく、しかもゆとりを持った動きにはウィットのようなものがあって。精緻な動きから湧き出してくるようなコミカルさに客席から笑いが溢れて・・・。しかし、時にはなにげにクール、たとえば鏡を想起させるようなシーンが持つしなやかなテンションが観客の心をさらっと引き締めたり・・・。とにかく観客を休ませない・・・。

さらに映像が合体すると、表現の幅がますます広がっていきます。椅子の使い方もすごくおもしろい。映像を絡ませたシーンの中にアリスの天真爛漫さがくっきりと浮かび上がって・・・、さらに小さな椅子と普通サイズの赤い椅子を使ったパフォーマンスでは、まる壁の節穴からスモールワールドを眺めるようなどきどきがあって・・・。また、映像と同化したダンスの精緻な動きには一部のずれもなく、映像と現実が虚実の綾織りのようになって、観ているほうが無心になって見とれてしまう・・・。

そして、なによりも最後のシーン、まるで夏休みの子供達、一列になって自分達だけの路地を抜け、柵をまたぎ、時にはすばやく、ときにはゆっくりと、自分達の遊び場を駆け巡るように更新していくのです。ダンサーたちの動きに入道雲を白く照らすような夏の日差しを感じる。心地よい風や冒険心を思い出す。いつまでも続いているような時間の感覚が広がる・・・。そう、終わらないでほしいと思うような時間がそこにあるのです。

楽しい!!。観ていてなにかが解き放たれるような・・・。

モダンダンスよりさらに緻密なシーンの表現を作り上げるじゅんじゅん流の振り付けの豊かさ、一瞬にして全身にキャラクターを宿らせるたかぎまゆの深い懐を持った表現力、俊敏でありながら質量を持った動きで空間をひろげる伊藤キムの力感、ダイナミックな動きと美しいバランス力に踊ることの根源的な迫力を感じさせる森川弘和・・・。彼らのしたたかで瞠目するような才能は誇示されるのではなく、浸潤するように彼らが織り成す世界へと観客を包み込んでいくのです。

べたな言い方ですが、立ち去りがたいような想いでアンコールの拍手を続けたカーテンコールでありました。このユニットのパフォーマンス、是非また観たい。きっと駅に向かう観客の共通した気持ちだったと思います。

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「み み」東京ネジが重ねていくシーンの先は・・・

7月11日ソワレで東京ネジ第10回公演「み み」を観ました。東京ネジ初見、劇場のアトリエヘリコプターもはじめて・・・。町工場の匂いをそこはかとなく残したこの劇場は、階段をあがっていくだけで機械の音がしてきそう・・・。でも実際には広さがしっかりと確保されたナカナカ魅力的なスペース。

その広さのなかで演じられたお芝居には、ちょっと不思議なテイストと展開がありました

(ここからネタバレがあります。十分にご留意の上お読みください)

比較的静かに芝居が始まります。ソファーで耳かきをしてもらう中年の男と耳がすこし不自由そうな女性。女性がすこし不安定な感じで、ふっと幻想のようなものが現れて・・・。。続いて彼女を取材する男と女性の会話。さらにやってくる幻想の世界は彼女の幼いころの思い出。男が勤めている会社の会長とその妻、不倫相手・・・。すすっと観客を引き入れた舞台では、ルーズに関係する断片のようなシーンがゆるい関係性のなかで積み上げられていきます。おとぎ話のような過去の世界もあれば少し前の話や現実の世界も・・・。ただ、それぞれの場面には繊細な中に柔らかな透過性を持っていて、シーンの重なりに少しずつ厚みが増していくたびに、観客には個々のシーンでは見えない絵柄が浮かんでくるのです。中盤までの一つずつのシーンには深い感情移入もなく、どちらかといえば淡白なのに、観客は柔らかく質量を増していく舞台の世界から目が話せない。

いくつも色や図柄の重なりによって作られた絵柄は、中盤をすぎるころには次第に2次元から3次元の感覚に姿を変えて観客に伝わっていき、3次元の世界には光の濃淡や時間軸が生まれて観客の心を女性の想いに塗り替えていきます。小さいころの思い出、名前でいじめられたこと、初恋、耳をほめられたこと、勤めていた会社での現実、不倫、うわさ・・・・。心を閉ざしたこと・・・。電池が切れるほどのコールをしてでも相手のことは何も聞いていない彼女のクライアントのエピソード・・・。彼女の内側が瑞々しく観客の内側に同化していくうちに、底知れぬ不安や自分を支えきれないような感覚が透き通ったミストのように観客に伝わっていきます。一見無表情に重ねられたシーンに潜んでいた精緻なたくらみに観客はすっぽりと引き入れられてしまう・・・。

彼女の感覚がそこまで伝わっているから、取材する男がラスト近くで彼女に書き綴る幻想の続きにあざとさがないのです。彼の言葉が彼女にかかった呪縛を解くのと同じようにそのまま観客を解放していきます。透き通った一つの空間として存在する断片的に語られた多くのシーンに、自然光がすっと差し込むような感じ。そして舞台が残す余韻に柔らかい癒しが残って・・・・。

暗転して終演となり、彼女の過去と今を俯瞰しながら、観客もふっと彼女と同じ旅をしてきたような気持ちで拍手をすることになるのです。なんとなく心の中に彼女の世界に触れたときの感触を残したままで、観客は家路をたどることになるのです。

役者のこと、まず佐々木なふみの作り出す色が絶妙、物語の基調は彼女のトーンでしっかりと支えられていました。間の取り方や言葉を飲み込むときの時間の置き方が本当に見事・・・。ため息が出るほどでした。佐々木富貴子は一見押し出すような演技でしたが、一方で佐々木なふみとの因果をしっかりと見せるような繊細さがありました。ある種の伏線になるような心の動きが実に丁寧に演じられて、物語の背骨を作り上げていました。窪田道聡の演技も佐々木なふみの演技にすっと馴染むような抑制があって、それがラストちかくのシーンに説得力を生み出すことになりました、好演だったと思います。彼が、綴った物語を読む声もすごくよかった・・・。

堀越涼は、先月の柿喰う客の公演でも抜群の安定感がありましたが、今回も演技にクールさと加えて艶を持った滑らかさがあって、役のキャラクターをしっかりと見せていました。両角葉の演技の芯の太さも物語にぞくっとするようなリアリティを与えていました。彼女の芝居はボディブローのように重く鈍く観客に響く・・・。彼女の台詞から、気がつくとちょっとエスカルゴが食べにくくなっているような・・・。

中村真季子の演技には生々しい実存感がありました。キャラクターに与えられた概念をそばにいる息遣いに変えるような力・・・。ひとつずつのシーンでの心の表現の丁寧さが、彼女の最後のシーンのしっかりとした重さに繋がっていました。

実存感という意味では太田みちにも鮮やかなリアリティがありました。人を喰ったような態度に力みがないし、キャラクターがすっと立つ。2日目ということでしょうか、すこしだけ演技に硬い部分もありましたが、それは回を追って良さへとかわっていくような感じがしました。

一方デフォルメされたキャラクターを見事に演じきったのが清水那保印宮伸二。清水は現実をしっかり見通すような知性をモラトリアム少女の容姿に上手く編みこんでみせました。彼女の猫っぽい言葉は男性にとって生理的に心地よく、そのずるさがしっかりと役柄が持つべき魅力に変換されていました。一方、印宮には男が持つかりそめの知性のもろさをナチュラルに表現する力がありました。追われる立場から追う立場への変わり目にも見ごたえがありました。

大塚秀記空間ゼリーの「私わからぬ」のときが初見で、その時は斉藤ナツ子嬢との豊潤なやり取りに息をのんだのですが、今回の演技でもその力は遺憾なく発揮されていました。佐々木なふみとの会話のなかでは彼女の繊細さをしっかり浮かび上がらせ、清水那保とのシーンでは家庭の色をすっと作り上げる。さらに中村真季子との短い絡みで彼女をドアの内側への追いやるシーンでは、一瞬にして彼女の立場を観客に想起させる・・・。しかも彼の演技は単純に一つのシーンでの空気を染めるだけでなく、積み重なっていくシーン間のばりのようなものをすっと消していくのです。また、幻想の中での犬としての演技では他の演技で見せていた背後の広がりをすっと消してキャラクターの色のみを押しだし、その存在感で佐々木富貴子の芝居をしっかりと受けて見せる。彼の芝居の間口の広さ、そして芝居全体を生かしていく力の確かさには瞠目するばかりです。

こういう作りのお芝居は、全体像が見えるまでの観客の引っ張り方が勝負なのかもしれませんが、役者達の演技はその関門を十分にクリアするものでした。

あと、ちょっと余談になりますが、20時の開演時間もサラリーマンにはうれしい限り・・・。仕事帰りのちょっと疲れた観客にとって、この芝居から浮かんでくる繊細さやはかなさは、あせって劇場に駆け込むだけでも減じてしまうのですが、この時間的余裕は観客に作品と向き合うゆとりを与えてくれます。まあ、その分終演後がちょっとあわただしかったですが、劇場でうだうだしているよりはちょっと長めの駅までの帰り道を歩きながらのほうがお芝居への感動も膨らもうというもの・・・。

目を見張るほどの鮮烈なインパクトがあるわけでもなく、息を呑むほどの強い印象をうけるわけでもない・・・。でも、主人公の気持ちが観客にしばらく残ったままのこのお芝居。10回目から観始めてなんなのですが、この劇団がほかにどんなお芝居をされているのか、興味を感じるような舞台でありました。

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あひるなんちゃら「父親がずっと新聞を読んでいる家庭の風景」の麻薬的効能

7月3日、サンモールスタジオにてあひるなんちゃら「父親がずっと新聞を読んでいる家庭の風景」初日を見てきました。あいかわらずのあひるワールドにどっぷりひたって・・・。たっぷりくすくす笑いをして、ゆっくりとコンテンツから滲むものにいろんなことを考えてしまいました。

(ここからネタバレがあります。ご留意ください)

まず、オープニングの音楽が大サービス、「あひるなんちゃら」の濃いテーマが惜しげもなくあんなふうに替えられてしまうなんて・・・。もうこの時点で「あひるなんちゃら」リピーターはわくわくしてしまいます。

テーブルが舞台の中央に斜めに置いてあって、その手前に古びたテレビのお尻が見えます。シンプルな装置、明転下瞬間は舞台がちょっと広すぎると思えるように思えたのですが、しかし、芝居が始まるとそこは人間くささに満たされて、不可思議な怠惰さとぬくもりがある家庭の空間へと変身します。いつものあひるなんちゃらトーンで積み重ねられるすこしずれた会話のなかで、登場人物のプロフィールが明らかになっていきます。

そこになかば理不尽に北京オリンピック聖火ランナーを目指して特訓する親戚の子供やそのコーチが現れたり、お隣さんが挨拶に来たり・・・。暗転で区切られたシーンが小気味よく連続して、観客は物語の価値観でいろんなことを観せられて・・・。気が付けばそれらが積み重なってあひるワールドに完全に染められてしまっている・・・。

チープな世界ともいえます。でもそれだけではかたずけられないような何かが観客を引き込んで離さない。そもそも、現代の縮図のような家族なのですよ・・・。年金未払いの父親にモラトリアル真っ最中の姉、横文字の肩書きをつけてテレビを見続ける引きこもりの兄、そして一人給与所得者の妹が丸抱えで支えて・・・。ドリカムが裸足で逃げ出すような年の差婚の父親と継母まで含めて、突飛な設定ではなく、ちゃんとありえる世界が描かれているのです。でもみんなどこかベクトルや価値観が違っていて、それが比較的短いシーンの中で次々とすり合わさっていくたびになんともいえない突っ込み感や不協和音がやってきて、で、不安定な感じなのになぜか動じない登場人物にふっとなごんだ笑いが湧いてくるのです。

したたかな芝居だと思います。日常生活のいろんなテイストが、当たり前の感覚と登場人物の感覚のズレをなにげにつないでいく。まるでテレビを思いっきり叩いて画像が変わるように、さまざまな変化に微妙についていけない感じがありながら、一方で、それでも日々の生活はまわっていく!!的な妙な力強さがあって・・・。なにか、ちょっとゆるい慰安がゆっくりと観客を包み込む・・・・。

芝居の本質にはすごくシニカルなトーンが内在されているのですけれど、それがスパイスになってさらに慰安が強調されていく。この作りこまれた多層的な味わいが観客をゆったりと舞台に引き込んで行くのです。

役者のこと、根津茂尚黒岩三佳の演技がまずしっかりとしていて、初日にも関わらずタイミングが絶妙でした。相手の頬を打つ黒岩にも力感がありましたが、なんといっても黒岩のテレビの叩き方が絶品、繊細な演技にこういうパワーが加わると、もう鬼に金棒という感じがします。父親役の青木十三雄のどっしり感もなかなかのもの。何の根拠もないのですが、彼が新聞を読むことに必然性を感じてしまう。

異儀田夏葉も作りこまれた能天気さが、つっこみと絶妙の配分で・・・。コメディーにおけるボケ側をコントロールする役割をきっちりこなしていました。日栄洋祐、佐藤達はちょっとあざとい感じがよく出ていて・・・。関村俊介の居心地のわるい存在も絶品でした。ビールを飲むときの無表情さがとてもよくて、花色木綿のような表現ですが物語のトーンに丈夫な裏地を付けていたように思います。。

篠本美帆も実直ななかに人を喰ったようなつっぱりがあって好演、宮本拓也は体を張っての怪演の部類でしょうか。

役者の見事なさじ加減に笑いがやわらかく満ちる・・・。そして、笑いが溢れ出したあとにある種の真実がしっかりと残る・・・。観客は役者が揺らすぼけとつっこみの満ち干に揺られながら、ふっといろんなことを考える・・・。舞台全体の空気や流れが何気に思えるのに、実はいろいろと後を引くような厚みが観客を魅了する作品でありました。これだからあひるさん、やめられないのです。

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「A Midsummer Night’s Dream」シェークスピアは本来こんな風に楽しいのか!

6月29日、雨の日曜日、池袋の東京芸術劇場中ホールに北九州芸術劇場プレゼンツ「A Midsummer Night’s Dream~TheじゃなくてAなのが素敵~」を観てきました。

昔々、サードステージプロデュースの「真夏の夜の夢」を見たことがあって、それは当時としてはとても革新的だった印象があるのですが、今回はそれよりも数段チャレンジング。でも、芯をしっかりとらえた極めてまっとうな作品でもあったような。

楽日でしたが若干の空席がもったいない感じ・・・。G2さんやるじゃん!と声をかけたくなる誠実さと斬新さがこの作品にはありました。

(ここからネタばれがあります。ご承知置きのうえお読みください)

話の筋はまさに「真夏の夜の夢」です。シェークスピア独特の美しい修飾に満ちた言葉もそのまま・・・。しかし’60Sを思わせるようなポップな衣装、役者達のシェークスピアの時代とは異なる今様な演技、原作者の名前など観客の頭から3分で飛んでいってしまいます。

2組の男女の顛末、役者達の演技のヴィヴィットなこと・・・。ファッションもそうですけれど、心情や言葉に形式ばったところがまったくない・・・。妖精のいたずらで、心変わりしてしまう男達にたいしての、女性達のキレ方など、もう半端ではなく今の時代のテイストで、なのに、シェークスピアの言葉が無理なくはまっていく・・・。演技からやってくる感覚は完全な現代劇・・・。大爆笑という感じではないけれど、物語の顛末でしっかりと今風の笑いが取れているというか、観ていてあきない。妖精達の戯れもなぜかキュートで、道化っぽい仕草も古びた感じがまったくなく洗練すらあって・・・。

で、観客はシェークスピアを観ていることなんて忘れてしまうのですが、シェークスピアの構造のなかで真摯に物語は進んでいくのです。観客は台詞の響きの美しさに耳をそばだて、台詞たちから垣間見える人の思いにうなずきながら、紡がれていく今感覚の物語の味わいを楽しむという趣向、シェークスピアの物語が、21世紀の質感のまま観客の脳裏に積み重なっていくのです。

「恋に落ちたシェークスピア」という映画を観て以来、シェークスピアの演劇というのは、初演の当時からそんなに高貴なものではなく、当時としては現代的な感覚をもった作品だったのだろうと素人なりに考えていたのですが、今回のお芝居は「ああ、その当時の観客はこんな感覚で彼の演劇を楽しんでいたのね」と、その考え方を妙に後押ししてくれたような・・・。

で、納得したとたんに、豊潤な面白さがジュワっと滲み出してくる。丁寧に埃やカビを払えばシェークスピアの世界からはピカピカの普遍性が輝き始めるのです。畏敬の念を持ったり形式に囚われたりするといきなり魅力が半減するけれど、G2のような物語の磨き方をすれば、普段着のままの観客を強く魅了する力が一気に現れる。まあ、G2は、ひたすら実直にシェークスピアの世界を表現しただけなのかもしれませんけれど・・・・。

終わり近くのの素人芝居の部分だけは、ちょっとシェークスピアの呪縛から逃れそこなったようで、それまでの物語の流れからちょっと浮いてしまった感もありましたが、最後のパックの口上も気負いなくしっくりとはまって・・・・。4世紀ほども延々と演じ続けられてきた戯曲とはとても思えない、洒脱でどこかソリッドな世界をたっぷりと楽しんで・・・。関西弁の瑞々しさのようなものが、スパイシーに舞台の味わいを深めて、あっという間に2時間少々が過ぎていく感じでした。

役者達も期待を大きく上回る出来で・・・。一番驚いたのは神田沙也加、舞台度胸がよく、見ていてぐいぐいと押していくような気持ちよさがあるし、演技の線がしっかりと太い。で、なによりも演技に安定感があるのです。キャパ一杯でやっているのではなく演技に十分なゆとりが感じられて・・・。彼女の芝居でこの舞台の奥行きがずいぶんと広がった感じがします。

宝塚出身の樹里咲穂も非常に魅力的でした。スレンダーな肢体とポップな衣装を色香と共に着こなす一方で、関西風コメディエンヌのセンスも持ち合わせている。可憐な雰囲気を持ち合わせながら、歌も芝居もゴング桑田の濃い色に負けていない。

それから出口結美子もよかったです。その実直な演技を自分の色でナチュラルに演じている感じ。演技にしなやかさがあってそれも魅力。

ゴング桑田、Piperの山内圭哉、竹下宏太郎といったところは、自分の味を渋くじっくりと出した感じ・・・。物語としての要所をしっかりと締めながら、大阪弁の勢いが何かを解放している感じがまたよいのです。竹下のさりげないダンサーとしての動きや山内のギターも力がありました。マジでかっちょいいのですよ。陰山泰の渋さにも言い知れないよさがある・・・。楽日ということで多分山内にいじられていたと思うのですが、それを味にもっていくような渋さが演技にあるのです。植本潤のはじけ方はちょっと硬質な感じがするのですが、彼の芸というか技も、周りの自由闊達な演技を守り立てるように生きて・・・。アドリブもあったのではと思うのですが、そういう遊びをすっと浸潤させるような大きさが彼の演技力にはありました。

職人チーム兼妖精チームはどちらかというと原作寄りというか型のなかで動くような演技も多かったのですが、でも彼らの足腰の据わった演技は他の出演者達のキャラクターを動かすスペースというかトーンを作っていたような・・・。それは、藤田紀新谷真弓といった役者達の手堅い演技の果実なのかもしれませんが、なんとなく、はちゃめちゃなことをやっているように見えても、実は舞台をちゃんと安定させているのです。意外だったのは、もっとはっちゃけるかと思っていた葉月チョビ、彼女の演技の実直なこと。要所を後方からぐっと締めるような・・・。、目立つのではなく舞台のベースを築くような感じの演技には浮いたところなど皆無で、それどころか舞台全体を見据えたような貫禄を感じました・・・。歌も秀逸で、舞台をやわらかく染めるような歌もあって、この人はやはり只者ではないと感じたことでした。権藤昌弘は初見ですが、彼も演技はとても誠実で・・・。小松利昌などはその安定を充分に生かして自分のペースでの芝居をしていたと思います。

「地獄八景浮世百景」のときにも感じたこと、G2演出の舞台にはどこか透き通ったトーンがあって、そのトーンが物語のもたもた感をすっと軽くしていくような力を持つのですが、今回はその効果がより鮮やかになっているような印象・・・。

なにか、こういうシェークスピアだったら、胃にもたれず肩も凝らず、いくらでも楽しめそうな・・・・。次あたり、このトーンで「じゃじゃ馬ならし」でもやってもらえませんかねぇ・・。

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「俺を縛れ(柿食う客)」のパワー「IdoIwant(空間ゼリー、2回目)」の成熟、

6月21日、柿喰う客「俺を縛れ」をマチネで、「IdoIwant」の2回目をソワレで観てまいりました。まったく毛色の違うお芝居でしたが、観るほうも昼夜で使う筋肉を切替えて、両方ともたっぷりと楽しませていただきました。特に空間ゼリーの今回の舞台は私にとっても記憶からきえないであろうほどの印象を受けるものになりました。

(ここからネタばれがあります。ご留意ください)

・柿喰う客 「俺を縛れ」

勢いに観客が圧倒される芝居、パワーでこれほど押し切る芝居を久々に観ました。2時間15分の上演時間全体に疾走感が充満している感じ・・・。しかし、なりふり構わずという感じではなく、そこには硬質な枠があるのです。冒頭のくすぐりのようなシーンがしっかりと後につながって物語の外枠を作っていたり、突飛な物語設定が実はしっかりとしたモチーフに裏打ちされていたり・・・・。様々な遊び心の裏にもたっぷりと観客をコントロールする根があって、スピードに目を奪われている観客のサブリミナル的な部分を搦め手からしっかりとおさえていきます。

9代将軍家重が放ったキャラクターの統制という生類哀れみの令にも匹敵するようなお達しに、翻弄される大名達、そのなかで貧困にあえぎながらも幕府に対する忠誠心溢れる小藩が、「裏切り大名」というキャラを押し付けられたことが物語を大きく動かしていきます。将軍自らに仕向けられるように始まった反乱、将軍の身近にまで迫った裏切り大名・・・、その顛末は・・・。

物語にしても、演技にしても、殺陣にしても、完成度という点ではまだ進化するスペースがあるような気がします。でも、役者達の弾けるような切れや力がそれらのゆるさを吹き飛ばすのです。振り回しているようにすら見える力にも、切先の乱れがないというか太刀筋に迷いがないく、しかも冷徹な意図がコアに内在している・・・。だから、見栄えに多少の無理や無茶があっても観客は舞台にしっかりと繋がれたままでいられる・・・。舞台上の流れにするっと入り込んで、むちゃぶりとも思える将軍のルールが引き起こす顛末にも違和感なく流されていける。レールへの信頼感を持ってジェットコースターのような物語の流れを楽しめる。中屋敷の戯曲・演出がくりだす大技/小技もしっかりはまって観客をさらに舞台に巻き込んでいきます。

物語の行き着く先は統制されるのではなく、開放されるのでもなく、暴れる素の気持ちを抑えて、抱きしめられるような中庸さの枠に閉じ込めての、フルコーラスを歌い上げるような世界。そして、それでもなおかつ残る葛藤が一刀のもとに切り捨てられる・・・。力と切れで走り抜いたような舞台が一気に色を変えて、作者のあからさまな心情が見事に浮かび上がってくるのです。

まあ、2時間を越える疾走感に身をゆだねるだけでも、エンターティメントとしての食べ応えたっぷりだし、その力がなければ表現しにくい想いがあるのも事実。

次の公演にも心惹かれるなにかが、存在する舞台でもありました。

役者のこと、堀越涼、丸川敬之の花組芝居組には芝居に懐の深さがありました。佐藤みゆきのエッジがしっかりした芝居も魅力的でした。こいけけいこの演技には落語などでいうフラがあって良い味を出していたと思います。石橋宙男、浅見臣樹、花戸祐介、さらにはの演技にも堅実さがありました。川端舞香はキャラクターを着実に演じて好演、梨澤慧以子のちょっと蓮っ葉な感じにもキャラクターの説得力がありました。梨澤が持つ華には舞台を染めるような力があって、下世話な演技との落差が良質な笑いとなっていました。森桃子は自分のペースでの仕事がしっかりできていた印象、彼女にもコメディエンヌとしての天性を感じます。村上誠基は怪演、それも突っ張りとおして観客のほうがならされてしまうような力を持ったものでした。

柿喰う客の役者達の演技は個性的でした。七味まゆ味の演技には大きさがあって、一方でなめらかさがありました。その大きさが前半と後半のキャラクターの落差をよりしっかりと見せていたと思います。コロの演技には切れのほかにちゃんと公家としての雰囲気がありました。本郷剛史もキャラクターを守る演技で舞台の色をコントロールしていました。高木エルムには朴訥とした中に潜むパワーがしっかりと観客に伝わってきて、そのキャラクターにも不思議な説得力がありました。作・演出でもある中屋敷法仁の水戸黄門はちょっとご愛嬌のような部分も・・・。

玉置玲央の演技の切れは格別です。動きの力感としたたかさを表現する力が同居するような演技、一方脆さの表現にも説得力がある・・・。切れているだけでなく観客がぐっと押されるほどの空間の支配力が彼の演技にはあるのです。

この芝居、観ている観客に快い疲れを感じさせるほどの役者の熱演があって、しかもそれが空回りすることなく機能している・・・。力技といえないこともないのですが、力技からやってくる充実感もあり、それを制御する繊細さも持ち合わせているわけで・・・。

中屋敷ワールド、たっぷりと、楽しませていただきました。

・空間ゼリー 「IdoIwant]

一週間おいて2度目の観劇。劇場にはいってちょっと驚きました。舞台の向こう側にも客席が・・・。舞台が両側から挟まれているのです。今回は劇場の奥側の客席で観覧・・・。

しかも1度目の時とくらべて役者達の位置もかなり違っていて・・・。せりふやイベントは一緒なのですが・・・。でもある種の新鮮さがあって。このような柔軟さは私のようなリピーターにとってはなにかふくらみを感じる部分もあるし、もしかしたら演じる側にも同様の効果があるのかもしれません。

芝居は、1回目の観劇時の秀逸さをそのままに、さらに役者の熟達が加わっているような・・・。前回瞠目した舞台がさらに進化していることは驚きでもありました。台本のしたたかさを同じように感じつつ、役者それぞれが満たす空間が広がっているような・・・。

私が座った位置からは、他の役者が舞台の中心にいる時にも斎藤ナツ子細田喜加の表情や感情が舞台の奥や横に垣間見え(前回は他の役者やPCでやや見切れていた)、無言であっても彼女達が舞台の空気を深く染めつづけているのが伝わってきます。舞台上の斎藤の肌理細かく、浸潤するような、絶妙な深さをもった仕草、細田の感情が積もっていく姿のしなやかなこと・・・・、しかもそれらが次の演技にシームレスに繋がっていくのです。佐藤けいこ北川裕子にしてもそう。私からはほぼ背中になる猿田瑛塚田まい子にも、ほとんど見切れてしまっている大竹甲一や、阿部イズム西田愛李も、部屋の散らかった本を整理している成川知也も・・・。単純にひとりの役者が物語を綴るのではなく、舞台にいる役者がそれぞれに色を持って空間を動かしている感じ。

この空間が安梨美羽が入ってくるシーンにも大きな説得力を与えて・・・。

一方その空間に流されない演技のテンションがシーンの中心にいる役者にはあって・・・。たとえば半田周平の凜とした演技には質量と熱があり、岡田あがさの苛立ちには舞台の空気に抗うだけの厚みとしなやかさがあって、それぞれがその空気に埋もれるのではなく、その空気に映えるだけの力を持った演技をしている。

そして、もうひとつ、役者間の思いの受け渡しも秀逸なのです。大竹甲一と塚田まい子のシーン、塚田まい子は背中で想いをしっかりと表現していて・・・、そして大竹甲一の表現の柔らかさ・・・。重さをしっかりコントロールした言葉が塚田まい子にそっと乗せられる感じ・・・。細田喜加と岡田あがさの間での成川知也が細田を支えるときの複雑な表情にもはっとするような強さとバランスがあって・・・。逆に岡田あがさとの負の思いの受け渡しまでが生々しく伝わってきます。

この舞台、良い表現が見つからないのですが・・・、観客をとりこんでいくような奥行きと深さが観客の肌にまでつたわってくるような感覚があって・・・。舞台の時間に鼓動すら感じる。作、坪田文が仕組んだドラマ構造の巧みさや演出の深寅芥の秀逸さを再確認すると共に演じる役者達の力を再び思い知った2度目の観劇となりました。

遅くなった帰りの電車のなか・・・、空間ゼリーという劇団、作者、演出、さらには客演の役者たちまで、観続けたくなるものをたくさん抱えさせてもらったことに気がついて・・・。でも、こういう感覚って芝居好きには本当に幸せなこと・・・、よい舞台を観せてもらったと思います。

☆☆☆ちょっとおまけです。21日の観劇で感じたことをもうひとつ・・・。☆☆☆

「柿喰う客」と「空間ゼリー」に共通していえること。双方とも自由席だったのですが客に対する対応がすごくよいのです。柿喰う客はキリンバズウカで好演した田中沙織さんが制作として赤のメイド服で陣頭指揮をとっていらっしゃいましたが、きびきびとした感じのスタッフは観ていても気持ちがよかったです。「空間ゼリー」も観客に対してフレンドリーな感じというかあたたかさがあり、なおかつ適切な客の誘導をしていました。良い芝居をする劇団は不思議とこういうスタッフワークもしっかりとしているようで・・・。おかげさまでとても気持ちのよい観劇ができました。

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空間ゼリー「IdoIwant」が醸す苛立ちの秀逸

6月14日、サンモールスタジオで空間ゼリー第10回公演「IdoIwant」を観ました。サンモールスタジオははじめてだったのですが、地下劇場の閉塞感がすくなく、一方で舞台に近いことでの臨場感もたっぷりと味わえる空間・・・。階段を下りていく段階ですでに、物語の片鱗を感じるディスプレーがあったり観客をしっかり芝居に導くような工夫もあって・・・。

で、静かに始まった物語は、漏斗のように観客を引き込み、その世界に観客をしっかりと浸潤させるものでした。

(ここからネタバレがあります。十分ご留意をお願いいたします。)

したたかな脚本です。様々なキャラクターが縒り糸のように織り込まれて、大学の文化祭の日、マンガ研究会の部室の風景が作られていきます。

乱雑にコミックやコミック系の雑誌・同人誌、さらにはフライヤーなどが散らかった部屋、その世界の日常を切り取ったように舞台が現れ、次第に登場人物個々の世界がクローズアップされるように観客に伝わって、物語が広がっていきます。

13人の登場人物、80分の上演時間、にも関わらず、舞台に現れるキャラクター一つずつが、息を呑むほどくっきりとした輪郭で観客に入り込んできます。ルーズに存在する先輩後輩の関係や創造や鑑賞を好むジャンル、さらには容姿や自らの心情の表し方、様々な要因が、それぞれに強度を持ちながら重なり合ってネスト(巣)のような世界が現出するのです。

微妙な空気の張り・・・・。そこは外にそれぞれのベースがある各メンバーにとって必須ではないけれど必要な場所・・・・。

その世界へのそれぞれのかかわり具合、それぞれの許容範囲、受容しうるもの、受容することができず外へと向かう想い・・・。アラベスクのようにネストに絡まる様々な感情・・。

作家の坪田文は、個々の登場人物の中にある想いをひとりとして落とすことなく、ネストにつないでいきます。価値観のカオスが存在する中で、ネストの排他性、ネスト内での確執、ネストの他の価値観を凌駕しても満たされない苛立ち、そしてメンバーたちのネストへの愛着などが、坪田の繊細な描写の元、鮮やかに浮かび上がっていきます。芝居の間口や尺の中にぎりぎりの密度にまで重ね合わせたキャラクターたちの物語が、観客の視点を釘付けにしていきます。

決してまったりと平和なだけの空間ではありません。漠然とした不快さに誰かが繰り出した刃、それを受け、自らを守った刃がそのまま相手を突き切る刃に変わる・・・。あるいは守る盾、他への無干渉、奉仕・・・。その空間は、腐女子やBLといったデカダンスに近い感覚が恒常的に語られたり、時にはネガティブな匂いもする・・・、でも描かれているもののコアはもう少し奥にあって・・・。

個々のベクトルが違っていても、苛立っていても、シニカルであっても、あがくように見えても、だからといってそのメンバーが誰一人自分がしたいことを放棄しているわけではない・・・・。それぞれが自分の意思を捨てずに過ごしている姿に、間違いなく瑞々しさが存在するのです。蛹が羽化のために、背中が割れる時も見えぬまま力を蓄えているようにもみえる。蝶がでるか蛾がでるかはわからないけれど、自らのコアの部分に対する妥協はしていない。

でも、モラトリアムにもきっと終焉があるわけで、妥協をしないままでいることへの形のない軋轢に言葉にならない苛立ちが伝わってきて・・・。

終盤の一シーン、ネストの中で卒業が見えてきた女性が男性に想いを告白します。バックに流れるのはラヴェルの「ボレロ」、止められないような高揚感を支えられたその告白の結末は気が抜けるようにコミカルなのですが、そのシーンのあと、様子を見ていた同期の二人に語る女性の言葉が、鮮やかに観客の心を掴みます。3人の女性の想いがふっと重なる中で、蛹の背中にほんの少しだけ裂け目が出来る音が聞こえたような・・・。

院生の先輩が説教をしながら片付けたコミックの山を、下級生が苛立ちの中で、自らがしたいように崩すラストシーンにさらに目を奪われて、終演の闇がやってきても、舞台から伝わってきた感覚がそのままのこって・・・

これまでに観た空間ゼりーの公演同様、ドラマの構造から瞠目するような感覚を醸成する坪田作劇の秀逸さを実感すると共に、舞台にあった様々な想いがすっと記憶に刷り込まれたような感覚から演出の深寅芥の卓越した手腕を感じたことでした。

役者のこと、細田喜加佐藤けいこの演技には、観客をすっと引き上げるような強さがありました。芝居に脂がのっているというのでしょうか、ここ一番のせりふに柔らかなグルーブ感を感じました。猿田瑛も空気にすっと入り込むような滑らかさに磨きがかかった感じ。また、北川裕子の持つ存在感には今回も目を奪われました。猿田にしても北川にしても、自らが観客の視線を集める演技ばかりでなく、それ以外の時間にも舞台の上で場を作る演技がしっかりとできていて・・・。舞台の密度をしっかりと支えていたように思います。

塚田まい子には細い線を長く描くようなデリケートさがあって・・・。その延長線でうまく終盤の秀逸な場面を演じきっていました。また、その終盤の感情表現には観客が息を呑むような臨場感がありました。西田愛李の演技には積み重ねるような実直さを感じました。その積み重ねがしっかりと最後のシーンを作ったように思います。梨美羽はまっすぐな気持ちの表現にはロールが持つ無垢なとまどいがしっかりと感じられて・・。また彼女にはすっと観客の目を惹き付けるようなある種の天性もあるような・・・。

斎藤ナツ子は冷徹な視点と自らのペースを持った女性を好演、彼女の演技には与えられたキャラクターを超える幅までをカバーするような部分があって、今回もやわらかな表情の動きから、せりふの背景が透かし彫りのように伝わってきて・・・。前回好演に続いて彼女の非凡な演技の力を、目の当たりにしたように思いました。岡田あがさも同じく出色の出来で、肌にまで感じるような苛立ちをしっかりと他の役者や客席に伝えていました。岡田が紡ぎだす、すこしくぐもったようなやり場のない感情には、デリケートな色づかいがあって、それが動作や表情やタイミングで息を呑むほど見事にコントロールされていました。

客演の男性陣も安定していましたね・・・。大竹甲一が演じるキャラクターの要領のよさには歪みがなく、観客を納得させる力がありました。安部イズムも表現すべきある種の図太さを、しっかりと演技で支えきった感じ。成川知也には落ち着きとナチュラルな感情のコントロールがあってロールが持つ曖昧さと戸惑いがとても自然に感じられました・半田周平には感情表現の硬軟を瞬時に操るような器用さがあって・・・。しかも芯には鋼のような意思を感じさせるだけの力を秘めた演技でした

前述のとおり、それぞれが演じるキャラクターが繊細な輪郭で観客に伝わってくる。そして、彼らがもつ感情も鮮やかに輪郭に乗ってくる・・・

帰り道、新宿大通りを歩いていても、舞台からの感覚がなんとなく抜けないのです。様々なベクトルを向いた感情が重なり合って醸し出す、テイストとでも言うのでしょうか・・・。

良い要素がいくつも重なり合って、空間ゼリーの第10回公演は、それほどまでに見ごたえのあるお勧め舞台でありました。

この公演、もう一度観ようとおもっています。一度の観劇じゃ、あまりにもったいないですから・・・。

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「ぐるりのこと」日々が積み重なることの豊かさ

6月13日渋谷シネマライズで橋口亮輔監督の「ぐるりのこと」を観てきました。元ポツドールの安藤玉恵やカムカムミニキーナの八嶋智人など、役者の魅力に惹かれて見に行ったのですが、ひいきの役者さんのすばらしさを堪能するだけでなく、大きな豊かさをもった作品にめぐりあう幸せを感じることになりました。

(ここからはネタばれがあります。十分ご留意をお願いいたします)

リリー・フランキーが演じる夫と木村多江が演じる妻の約10年間の物語です。

二人が結婚したばかりのころ、夫が靴修理のバイト生活から抜け出して法廷画家と絵画教室の先生で生活を始めたころから、子供を失い職場のことなどもあって妻が心を病み夫も仕事にとまどいながら毎日を暮らしていた時期、夫の生活が安定してまだ心を閉ざした妻を支えていた時期、そして妻が次第に安定を取り戻し二人がしなやかな信頼関係の中で暮らし始める日々までを、その年代と共に描いていきます。

この映画、夫婦としての描写もさることながら、二人がそれぞれに持つ生活の描写がすごくしっかりしていて、それゆえ二人のその時期ごとの関係性や心情がより明確に伝わってくる。単に夫婦の表情を描き続けるのではなく、二人の家庭の外の出来事が二人の時間に結びついていることで、夫婦の密度や想いがはっきりと観客に見えてくるのです。

数ヶ月、時には1年以上隔てたエピソードの連続、個々の時間に封じ込められた夫婦の関係やそれぞれのかかえるもの、さらには法廷画家の夫を通して伝えられる時代が、まるで断片的によみがえる記憶ように重ねられ、そのたびに時代の色も二人の関係もすこしずつ変わっていきます。時代は淡々と、でも芯にしっかりとした足音を絶やさないまま柔らかくつながる。お互いの角がぶつかりあうような新婚時代。失った子供のこと。たとえば過去に描かれた絵によって初めて相手の心情がわかったり、一方、閉じた心から抜け出せないようになった妻に対して淡々と接する夫の心情が、細かいエピソードや態度でじわりと観客に伝わってきたり・・・。仕事の苦しみ。妻の兄夫婦の生活が、主人公の生活になんとなく影響を与えたり・・・。

中盤を過ぎるころになると、それ以前に描かれた時間が観客の心に満ちていて、単なるエピソードに漣のような波紋が生じていきます。連続しているわけではないけれど、不連続ではない。エピソードを骨組みにして主人公達の歩んできた日々が観客に柔らかく積まれていく感じ・・・。気がつけば描かれない日々の重さが観客の心にゆっくりと浸潤していく。

果実のように成熟していく夫婦の関係、でも果実が成熟していく姿は決してたおやかでもなければ美しくもないのです。夫婦は簡単に熟れるわけではない。雨に打たれ日に晒される日常のなかでゆっくりと青い果実は色を変えていく・・・。繊細で細かなひとときの描写から浮かんでくるもの・・、まるで霧の中を歩いていくような日があったり薄日がさすような日があったり・・・。でもあるとき、気がつけば、妻の心にも瑞々しさがもどり、ヴィヴィットな色が溢れ始める。変わらないように思える日々の連続に、変わっていくものがある・・・。そのデフォルメされていない淡々とした十年の様々な色合いが観客の心にしっかりと積もっているから、畳に寝転んでちょっとおとなげなくじゃれたり、柔らかく指をからませる夫婦のたわいなく気恥ずかしくさえある姿が、この上もなく豊潤なものに思える・・・。それは歩んできた時代を俯瞰して同じ時代を生きた観客のこころと緩やかに共振していく。

観客は椅子の背にゆっくりともたれてエンドロールをながめ、10年に相当するような息をふうっと吐き、彼らの過ごした日々に身をゆだねるのです。

それにして木村多江の演技には瞠目しました。新婚当時のちょっと生真面目でわがままなところも、その後自分に篭る演技でも、逆に心の病から開放されていく姿にしても芯がぶれず、中に秘めた熱がさめない。しなやかに色や形は変わるのに、そこにいる翔子がどこまでも翔子のコアを失わないのです。翔子のコアがしっかりとゆるがないから、リリーフランキーのそっけないほどの演技にカナオの色がどんどん深くなってくる。リリーフランキーもしっかりと抑制された実によい演技でした。まったく派手さはないのですが、カナオが滲み出るような芝居が木村の色が変わるたびに重さを増していく。

寺島進、安藤玉恵の演じる夫婦も彼らの色をしっかりと出していました。寺島の演じるいい加減さには、どこかもう一歩ふみこめないようなキャラクターの気弱さがあって、それが安藤玉恵のすっと場に溶け込んでくるような演技と不思議に調和する。安藤は舞台同様の力と切れがあって、でもその切れが映画の色にすっと解けていくのです。

脇を固める八嶋智人、柄本明、寺田農峯村リエなどの演技も本当にしなやかで・・・。印象に残るシーンや心がふっと持っていかれるようなシーンもほんとうに多くて・・・

今は、まだ柔らかい感動が心を満たしているだけですが、時間がたつにつれて、私にとって忘れられない作品になっていくのだろうと思います。観て絶対損のない、お勧めの作品です。

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