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日記・コラム・つぶやき

2011年3月14日 (月)

北で起こった大地震の翌日の記録(3月12日)

3月11日からの続き

・赤羽岩淵から自宅まで

深夜の赤羽岩淵から、京浜東北線をくぐって埼京線のちかくまで
荒川に並行するように歩いていきます。
ときどき吹く風が冷たい。
それでも、一緒に帰ってくれる方がいたのは大きな救いとなりました。

歩いていても、真っ暗なところがほとんどないのもありがたい。
それとiphoneのナビ機能がとても役に立った。
会社を出るときに下調べはしていたし、
ご一緒させていただいた方も
それなりに土地勘がある方だったので
道に迷うことは全く心配していなかったのですが
ナビを使うと自分が全行程のどれくらいを歩いたかが可視化されることで
ずいぶん精神的に楽な気持で歩みを進めることができました。

122号線を渡り、京浜東北線を超えて・・・。
このペースなら戸田橋まで休憩なしで行けそう。
会社のいろんなことや、
ちょっとした噂話。
家族の話や趣味のこと。
寒さに少しずつ体が冷えていくのですが、
話しながら歩いているとそれが気にならない。
彼女曰く、普段なら夜中など閑散としている通りなのだそうですが、
歩道もちゃんと確保されているし、明るいし、けっこう人通りが途切れず、
安心して歩ける。

30分ぐらいかかったでしょうか。
まずは、無事に浮間舟渡の駅に到着。
見上げるホームには灯りがついていましたが
駅舎にはシャッターが下りていました。
そこで彼女はおいてあった自転車をピックアップ。
道案内のお礼とお休みなさいを言って彼女と別れる。
ここから戸田橋までは歩いて5分ほど。

途中のLAWSONで暖かい紅茶を買いました。
一口飲むと、暖かさが体の内側に流れこんでいく。
キャップを締めてカイロ替わりにポケットに突っ込んで・・・。
階段をゆっくりとあがって戸田橋。
橋のたもとで母親に電話をかけたけれど繋がらない。

橋の上は一段と寒かったです。、
それと思ったよりも暗かったけれど
人通りが多かったのであまり気にならなかった。
都内からずっと歩いてこられた方もいらっしゃったみたいで
「やっと戸田橋だよ・・・」とか大きな声が聞こえる。
歩きながらiphoneでツイッターを確認。
赤羽岩淵からのTLを追い切って、
充電にゆとりがあるのでituneで音楽を聴いて。
暗い川を渡っていきます。

橋を渡りきったところでもう一度母親に電話。
埼玉に入った途端うそみたいに電話が通じた。
本棚から何冊かの本と花瓶が落ちた以外は
とりあえず被害はほとんどなかったとのこと。

戸田橋から家までは約10分。
うちの近くのセブンイレブンは旧中山道(17号線)沿いなので
そこで一休みしている人も結構いた。
0時55分に家に到着。
うちは6階なのですが、当然のごとくエレベーターは止まっていて・・・。
最後の力を振り絞って一気に上がる。

朝、いつもと変わらず、気ぜわしく鍵を閉めたのが
はるかに昔のように感じられました。

・家の中

部屋に入ると、玄関脇の積んであった新聞紙が散乱している。
灯りをつけて、ペットのモルモットの無事を確認。
普通に固形飼料をもぐもぐと食べている姿に一安心。
すぐに新しい餌と野菜に交換する。
テレビがひっくり返っているのにはかなり驚いた。
すぐに元に戻してスイッチが入るかを確認。
壊れていなくてよかった。
本棚については耐震用の鎖で固定していたので倒れたりはしていませんでしたが
中の本は半分以上が床に散乱しておりました。
食器棚からはお皿が3枚とカップが2個、
グラスがひとつ飛び出していずれも割れていた。
カップにはちょいと想い出があったので、
ゆっくりと切なくなる。
新聞紙を広げてその上に破片を集め、
ガムテでぐるぐる巻きにして危なくないようにする。

それ以外は急いでに対応しなくてもよさそうだったので
そのままにして・・・。
とえあえずベットにはいってすぐに寝入ってしまいました。

*** *** *** *** ***

・翌朝

夜中に一度目覚めたのは余震のせいだったらしい。
タイマーをセットしていたテレビの音で本格的におきました。
どのチャンネルを観ても地震のニュースばかり。
ペットボトルのお茶を飲みながら
いまさらながらに津波の威力に愕然とする。

洗濯をしながら、最低限のかたずけ。
よく見たら、先週分の畳んで積み上げていた洗濯物も
散乱していた。
ガスを復旧。ツイッターに書きこまれていたやり方をそのまま実行。
ここでもツイッターに感謝。
最低限の家の機能回復と洗濯を終えて、
母の家へ。
同じようにガスを回復。
阪神大震災の話をいろいろと聞く。
揺れは間違いなく阪神大震災の方が強かったそう。
でも、揺れる時間は今回の方がずっと長くて
どうなっていくのかが分からずとても怖かったとのこと。

家に戻ってメールのチェック。
パラドックス定数は予定どおりに公演を行うらしい。
いこうかキャンセルしようか少し悩む。
テレビを観ているうちになにか気力が失せてしまったような気がする。
津波の流れるところを観るたびに
アナウンサーが語る死者や行方不明者の数に違和感を感じる。
のろのろとHPで交通機関の確認。
四谷三丁目までは通常どおりに何とか行けそう。
さらにメールやツイッターをチェックして
今週末予定していた他の公演は中止になったことを再確認する。

今週末はこれ一本になりそう。
だったら行こうかと思う。

・午後

埼京線の本数がだいぶ減らされているようだったので
すこし早めに家を出ました。

丁度前の電車が出たあとみたいで
ホームには数人しかいない。
自販機で暖かいお茶を買ってベンチに座る。
背中から吹いてくる風が冷たい。

地震からまだ24時間以内であることに気がついて
ちょっと驚く。
午前中部屋ではテレビをつけっぱなしだったから
もうずいぶん時間がたっていたような気がして。

それにしても静かなホーム上。
よい天気。とてもよい天気・・・。
日差しは暖かいけれど
冷たい風が背中に当たる。
iphoneでrajiko(TBS)を聴いていたのだが
なんとなくつらくなって切る。
現在地震から22時間ちょっと。
揺れてひっくり返された72時間計の
砂の音が聞こえる気がする。
昨日の疲れが出たのかなぁと思う。

20分くらい待って埼京線の新宿行きが来る。
いつもの土曜日に比べると空いていた。
新宿から丸ノ内線に乗り換え。
土曜日にルミネがお休み・・・。
丸ノ内線はすぐに来ました。
四谷三丁目で降りて、出口をちょっと迷って。
ゆっくりと歩いて会場に向かう。

途中、曲がり角の目印にもなっているパン屋さんで
ドーナツと100円均一で売られていた(救援物資となずけられた)
パンを購入。
地震対応の志を込めて用意したパンが売れなかったのかも知れません。
ちょっと気の毒に思ったり。

・劇場

お行儀は悪かったけれどドーナツを食べながら
The Art Complex of Tokyoに到着。
朝から何も食べていなかったので
おなかが鳴るとまずいなと思って・・・。

スタッフの方が入口で部屋を案内してもらって、
これから芝居を観るのだと思うとちょっと心が解ける。
階段をあがって2階の奥の部屋へ。
少し待って開場時間。
ひし形に並べられた座席。
中央に机が一つ。
地震の影響で公演時の電力使用のことがいろいろといわれていたが
このライティングなら文句を言われる筋合いはないはず。

開演前のいつもの諸注意に加えて、
大きな余震が起こった場合は公演中止になる場合がある旨の告知。
そんなことがないように祈りながら開演を待つ。

お芝居、その密度にがっつりとやられました。
本当に面白かったです。
物語の枠組みに引き込まれるとそのまま一気に持っていかれた。
緻密な空気がしっかりと組み上げられ
終盤には主人公のどこかずれた想いのなかに
グルーブ感すら醸し出されて・・・。

観終わって、高揚感がそのまま残って・・・。
何よりも驚いたことには
自分の中で知らず知らずのうちにしぼんでいた
ある種のモチベーションのようなものが
しっかりとリセットされていた。

帰り道、お芝居の面白さを反芻しつつ、
何かの箍がすっと外れたような気持ちになっていました。

ツイッターを観る。
電力不足のことや被災者のことを慮って
演劇の公演を控えるような動きも一部にはあるよう。、
でも、もし、今の状況に立ち向かい
東北の復興を支える志が創り手にあるのなら
計画された公演はやるべきだと思った。
こんな時だからこそ、
ただ息をひそめて自粛しているのではなく。
演劇の創り手も観客も、自分の立場で
自分の出来ることにベストを尽くすべき。
作品は別に人生を頑張れというような内容ではないのですが、
でも、良いお芝居には、人に前を向かせる力があるのです。
みる側に醸される高揚が下世話な言い方ですが
「元気を運んでくれる」気がする。

こういう元気って
とくに心が萎えてしまうような時には
何物にも代え難いものなのでは・・?
今、日本人に必要なのは、
萎縮することでははなく
いろんな形で一人ずつがパワーをもって、
ネガティブにならずポジティブな気持ちを忘れないこと。。
そのモチベーションをしっかりともらえれば
積極的に電力を節約したり
東北の復興にも協力しようという気持ちになれる気がする。

豊かな精神には豊かな想いが宿る。
だから、豊かな精神をシュリンクさせるような風潮を作ってはいけない。
ただ、息をひそめて自粛することではなく、
いろんな創造性の発露こそが、
今のこの国に必要な復興の力だと思う。

そんなことを考えながら、
足早に帰り道を四谷三丁目に急ぎました。

風の冷たさを、やっと心地よく感じられるようになりました。

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2011年3月13日 (日)

北で起こった大地震、東京での当日の記録(3月11日 当日)

3月11日の地震、
多分、何らかの形では記憶に残るのでしょうけれど、
できれば正確に覚えておきたいから
記憶が正しいうちにこの二日間に観たものや感じたことを
メモにまとめておこうと思います。

・地震発生時

会社の自席でふつうに仕事をしていました。
正確にはパソコンを使って業務処理をしていて・・・。
突然ドーンと揺れたというわけではなく、
最初は小刻みに画面が震えてふわっとした感じがやってきた。
もしかして、自分が貧血を起こしたのかとかもと思った。

ふつうはそんな感じでおさまる地震、
この日はかなり勝手が違っていて
そのうちに強い揺れがやってきました。
何段階かに分かれてどんどん強くなってきた。
会社の建物は比較的新しいビルで免震構造にもなってるとのことで、
鋭い揺れはなかったのですが、
それでも圧倒的な力でゆすぶられる感じはしっかり伝わってきて。
飛行機に乗っていてとても気流が悪い場所に入ったような感じ。

ブラインドが窓に当たる音に加えて
窓自体がが軋む音が聞こえてきて、
オフィス内に緊張が走る。
ふっと窓の外を見ると
通りを隔てた向こう側の10階建てぐらいのビルが
はっきりわかるほど大きく揺らいでいるのが見える。
あれだけあからさまにビルが揺れるのって初めて観ました。
外の状況を確認しようと窓際に寄ろうとする人に対して
「窓から離れろ!」という誰かの凛とした声が飛ぶ。
さらには時よりの強い揺れに女性の何人かが声を上げる・・・。

どのくらい揺れていたのでしょうか・・・。
とても長い時間に感じた。
始まりのごとくほんとうにゆっくりと揺れは収束していきました。

働いているオフィスには棚というものがないので、
いろんなものが落下したりということはなく、
また、地震の最中も
パソコンの電源はもとよりインターネットへの接続も生きていたことで
比較的冷静に居られたような気がします。
まだ揺れが残る中、
とりあえずは会社の基幹系のシステムが生きていることを確認。
ちょっとほっとする。
それからインターネットと自分のiphoneで
地震が東北沖で起こったことと仙台で震度が6強以上であったこと、
そして、九段会館で天井が崩落したことなどを知りました。

・地震後から会社を出るまで

少ししてから、再び余震。
その時はトイレで手を洗っていたのですが、
揺れが強くてちょっと焦った。
廊下がちょいと歩きにくかったりも。

手のすいた人が何人か情報収集のため自分の携帯電話でワンセグを観て、
津波の映像に驚いている。
太平洋沿岸全体に津波警報が出ていて、
銀座も海からそれほど離れているわけではないので、
外出は控えようという趣旨の会話も聞こえる。
次第に東北でものすごいことがおきていることが実感として伝わってきました。
予想通り電車はすべて止まったことも、JRについては終日運休になることも
まずはツイッターで知り、、
その後インターネットで確認することができました。

まあ、ぼぉっとしていてもしょうがないので、
その後、予定していた社内打ち合わせを30分ほど。
あとはときどきiphoneや携帯をチラ見しながら
自席で溜まっている業務をこなしていく。
余震が何度もやってきて、
なにか船酔いをしてしまいそうな感じ。

16時半ごろになると社内ではぼちぼち帰りの電車の心配をする人が出始めました。
JRは全線終日運休、
東京メトロも動くのには相応の時間がかかるらしい。、
加えてこの日私はシアターサンモールで観劇を予定をしていて、
そちらの情報も気になる。

この段階で一番役に立ったのはネットのニュースやテレビの情報よりも、
むしろツイッターでした。
TLにフォローしている出演者の須貝英さんや佐々木なふみさんなどの出演者の方、
さらには制作の方などから、次々に
当日公演中止のツイードが上がって・・・。
とても楽しみだった公演がなくなったことは悲しかったけれど、
この迅速さは本当に助かった。
その後の行動に迷いがなくなりましたから・・・。
開演時間の2時間近く前にきちんと情報を確認できたので、
その後は劇場に徒歩でも行くかどうか迷うことや、
たどり着けない場合の劇団への連絡とか
不要な心配をすることなく、
退社後の行動を「どのように帰宅するか」に絞ることができました。

また、ツイッターのおかげで会社の中にいて、
街の状況もとても詳しくわかりました。
新橋や上野駅の混雑ぶりや
徒歩で帰る場合の一時的に急速出来る場所の情報なども
いろんな方がリツイードでどんどん情報を流していくれるので、
かなり緻密に帰宅計画というか作戦をを立てることができた。
そういう情報のなかで
ネットなどで確認をとって精度が担保されているものは、
私もがんばってリツイード。
オフィスで情報をもらっている私には
そのくらいしか役にたてることがありませんから・・・。

終業時間から退社まで

終業時間の17時30分になって
オフィスは終日空調をそのままにしておくし、
さらには
暖かいものを飲める環境も維持してくれるという社内放送もあったので、
とりあえず会社にとどまり、
銀座・新橋・汐留あたりから地下鉄で、
志村坂上・赤羽岩淵・光が丘のいずれかにまで
行くことができるようになった時点で
会社を出ようと決めました。
そこからなら、
夜中の寒さのなかでも、なんとか家まで帰れそう。
終業時間後も仕事をしながら、
ツイッターやWeb上で情報をチェック・・・。

そうそう、携帯は繋がりにくかったですね。
なんどか自宅の近くに住む母親に電話をしようとしましたが
全く通じない。
それは、阪神大震災の時に、
当時大阪に住んでいた両親に電話をしてもつながらかった時とまったく同じ状況で・・。
あまりしつこくダイアルをしても、緊急通信の妨げになるような気がして
すこし時間をおくことにした。

また、そのころから自分の携帯でワンセグも観始めたのですが、
テレビの絵面と裏腹の
状況の伝わらなさのようなものに凄く嫌な予感がする。
これも阪神大震災の時と同じ。
本当に大変なことは
伝わるすべまでも破壊するから、
よしんばメディアを介したことであっても
極めて形骸的なことしか伝わってこないことに思い当たる。

8時ごろになるとさすがにおなかが空いてきたので、
会社の人たちとご飯を食べにでました。
男だけだと蕎麦屋とか牛丼屋の列に並ぶ
(徒歩帰宅者の腹ごしらえで需要で大混雑)という発想しか浮かばないのですが、
女性陣がいると、別の店選びがあって
目からうろこが落ちる。
さすがに電車も止まったことで
早めに店をしめるところも多かったのですが、
ビアホール(銀座ライオン)は開いていて。
炭水化物系のつまみを中心に注文。
帰宅のことを考えてアルコールは控えたけれど、
たっぷりのジンジャーエールに
唐揚げ、チキンライス、パスタ、ピザ・・。
暖かいものを食べながら、雑談をしていると
なにか妙に心が和む・・・。
隣の外人カップルが
大きな地震のあとでも
パニックにならずにいつもどおりに動いている日本を
称賛しているのが聞こえてくる。
津波の映像と目の前にある光景のギャップ、
運ばれていく大きなビールジョッキ。
いつもほどの喧騒はないけれど
ホールは明るい雰囲気に満たされていて
二つの現実が同居する時間にすこし戸惑う。

食事が一段落した時点で
会社の人がi-modeで銀座線が動き始めたことを確認、
やがて南北線や有楽町線も動き始めたので、
当日中の帰宅を決意しました。
ただ、電車が動き始めてからすぐだと混乱も大きいと考えて
店でゆっくりとして
一旦会社に戻る。
自分のオフィスは7Fにあるのですが、
エレベーターは当然に止まっていて
日頃の不摂生を呪いながらぜいぜいと階段を上がりました。

会社を出てから日が変わるまで

オフィスに戻ると、パソコンで
赤羽岩淵から自宅までのルートを再確認して・・・。
22時15分、同じ方向の方二人と一緒に会社を出る。
新橋の駅は改札制限などもなく、
スムーズにホームまで。
でも止まっている電車はとても乗れないほどに込み合っていて、
やむおえず次の電車を待つ人の列につく。
銀座線、15分に一本くらいの運転間隔だったと思います。
ただ、安全確認をとりながら一駅ずつ電車を動かしていくやり方なので、
駅での待ち時間が異様に長く、
新橋ー溜池山王の二駅にかなり時間がかかりました。
もっとも、駅員の方や車内放送が逐次状況を説明してくれるので
かかった時間ほどのストレスは感じなかったです。

溜池山王で乗換、南北線へ・・・。
こちらも非常に混んでいました。
途中駅からもたくさんの人が乗ってきて、
降りられなくなりそうな方もいて、
周りから
「降りる方がいます。」とか
「乗るのを待てください」とか
声が上がっていた。
込み合う電車特有の殺気立った感じもなかったわけではないのですが、
その一方で常ならぬ状況で帰宅するもの同士、
一つになる感じが車両の中にありました。

0時少し前に赤羽岩淵駅に到着。
大きな声で「降ります」と前の人に声をかけて下車。
一緒だった会社の2人のうちの1人とはここでお別れ。
駅のエスカレーターもしっかりと止まっていて、
混雑電車で疲れた体に鞭打って駅の階段を上がる・・。

電車の中が蒸し風呂のようだったこともあり
駅を出て、外の寒さに驚きました。
マフラーをしてコートのボタンを止める。
顔が冷たく感じる・・・。
ふっと、今、北の被災地の方が直面しているであろう
状況に心が痛む。
その中を途中の浮間舟渡在住の方に道案内をしてもらいながら
戸田橋を目指して歩き始めます。

(つづく)

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